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番外編-4- 星の回り/夜想曲

   
         
3)午前九時

  

 俺がごちそうするよと言い残して紙幣をアリスに返し、広告だけを受け取りようやく王城を出る、午前九時。

 帰るといっても帰る場所は王城十二時方向に建つ衛視用の特別官舎だったから、十数分も歩けば部屋に辿り付いてしまう。

 別にする事もないから、とりあえず朝食らしいものを摂って寝て起きて…。

 一旦はポケットに突っ込んだ先の広告を取り出したヒューは、歩きながら店の場所を確かめた。通用門から出入りすると城の中を移動する時間が恐ろしくかかってしまう、なんて中途半端な場所なんだ、と謂われなく愚痴など零し、官舎通用口から出れば往復でせいぜい三十分程度だから、管理人に頼んでそちらを使わせて貰おうと思う。

 そんな事をぼんやりと考えていた。

 らしくなく、本当にぼんやりと。

 すっかり踵の擦り切れたデッキシューズを素足に引っ掛けて、戻ったらそのまま寝てやるつもりでいつもの白いプルオーバーに黒い木綿のパンツを身につけて、そろそろ邪魔になりはじめた長い髪を適当に束ねて頭の後ろに括り、手にしていた広告をパンツのポケットに捻じ込んでから、何も考えないで非常階段の鉄扉を押し開ける。

 がん。

「……………ったーーーーーーーーーーーーっ」

「…え?」

 扉の向こうに気を配る事さえしなかったヒューはそこで、非常階段側にいた何かに、鉄扉をぶつけてしまった。

 というか、誰か、か?

 押し開けたドアと壁の隙間から顔だけを出してみれば、よく探さなければ見逃してしまいそうな場所にオレンジ色の塊が蹲っていた。

「…。や、すまない」

「ひどいですよぉ、ヒューさん」

 バツの悪い気持ちで笑顔を引き攣らせたヒューが口調の割りには偉そうな態度で見下ろして来るのを涙目で睨んだオレンジの塊…アン・ルー・ダイ魔導師が、赤くなった額をしきりに掌でさすりながらよろりと立ち上がる。今日は休暇なのだろうか、色の薄い金髪に大きな水色の瞳の、最早二十歳に手が届きそうな年頃だというのになぜなのか「愛らしい」としかいいようのない少年は、キャンディみたいにつやつやしたオレンジのシャツと水色のVネックを重ねて着込んでおり、ボトムはなぜか七分丈の色の濃いワークパンツで、足元はインナーと同じ水色のデッキシューズだった。

「…君はあれだ…、時々、うちのニ番目と三番目の双子みたいな格好をしてるな」

「? おとーとさんですか?」

「ああ…」

 意味もなくそんな事を言い出して、赤くなったアンの額を大きな掌で撫でる、ヒュー。そういう仕草も弟扱い、などと内心苦笑を漏らしつつも少年は、やめればいいのに、おとうとさんお幾つですかー、と…質問した。

「十六くらい」

「………………」

 ついでに「冷やすか」と言い足されてアンは、なんだか少し泣きたい気持ちになった…。

       

         

 別に用事があってどこかに出かけようとしていた訳ではなく、ダルビンに新しいブレンドのハーブティーをごちそうするからダイニングまで降りて来いと言われたらしいアンと連れ立って、夜勤開けの部下数名が遅めの朝食を摂っているそこへ顔を出す。

 空いているテーブルを見付けて適当にヒューが腰を下ろすと、勢いなのかなんなのか、アン少年もまた赤くなった額をさすりながら、眠たげな顔で生欠伸を噛み殺す銀色の正面に座った。

 基本的には統一されたメニューになっている朝食のトレイを掲げたダルビンが、妙な顔つきでヒューとアンに近寄って来る。それにアンは不思議そうな顔をしていたが、ヒューにはダルビンの放つ怪訝そうな空気の意味が判っていたから、苦笑どころか愛想笑いのひとつも見せずに、「どうも」と素っ気無く言い差し出されたトレイを受け取った。

 だからなぜアンとヒューが一緒に現れたのか、とダルビンの座った目付きが問い。

 ヒューはそれに、答えない。が?

「アンくんに冷えたタオルをやってくれ」

「はぁ…」

 料理人だとしたら無駄なのではないかと思われそうな筋肉の盛り上がる腕を組んだダルビンが、ヒューの呟きにどこか腑抜けた声で答える。

「軽く非常階段の鉄扉をぶつけて、赤くなってる」

 ほら、と行儀悪くヒューがアンの額を指差し、アンはわざとのように唇を尖らせて、「次から気をつけてくださいよ、ヒューさん」と言い返しながら、ヒューの手を払った。

 その手は。

 指が長くてごつごつと節が浮き、固かった。

 用意された朝食をなんとなく面倒そうに口に運ぶヒューを、少年が手持ち無沙汰に眺める。特別空腹ではないのか、いつもそうなのだからこういうものなのだろうと思う緩慢な仕草で食事をする姿を見ていると、ヒューには好き嫌いがないというよりも、食事そのものに感心がないのかと思う。

「ヒューさんて、食べて美味しいなー、とか思うもの、あります?」

「…? ないとは言わない。今すぐ思い出せといわれたら、思い出せないだろうがな」

 その、なんとも人間的でない返答に唖然とするアンを、冷やしたタオルとハーブティーを持って現れたダルビンがちょっと笑った。厳つい印象ではないがどこか威圧的な料理人が、暖かな湯気を立ち昇らせる白いカップをアンの前に置くと、珍しく、少年の隣りに腰を下ろす。

「班長なんてそんなモンさ。美味いとも言わないが不味いともいわないし、好き嫌いも判らねぇ。世の中には美味いモン食えばいっときでも幸せな気分に浸れるヤツもいるってのに、班長ときたら、そういう些細な幸せなんつうのとは無縁でいいと思ってやがる」

 などと知った風な事をすらすら並べるダルビンを、ヒューは苦笑だけで流した。ここで反論するのも面倒だし、そもそも、料理人の見解もあながち間違いではないのだし。

「んで? 些細な幸せがそれなりに欲しいと思ってるアンくんの感想は?」

 言いつつダルビンは、アンが両手で包んだ白いカップを目で示した。

「あ、美味しいです。なんか涼しい味がしますよね?」

 ミントが少しだけ入っているのだ、などと、見た目に見合わず繊細そうな事を言うダルビンが妙に可笑しいと思いながら、すっかりきれいに片付けられた朝食のトレイを傍らに押し遣ったヒューが、そのままばたりと…テーブルに突っ伏す。

「……………寝るなら部屋に行け、班長…」

「二時に用事があるんだよ」

「だぁかぁら」

 それに慣れているのか、意外に仲がいいのか、…以前、ヒューには優しくないとダルビン本人が言っていたりもしたが…、料理人は、本気でそのまま寝そうなヒューの後頭部を、アンの倍はありそうな握り拳でごつんと叩いた。

「一時に起こしてやるから部屋で寝ろ。邪魔だ、邪魔」

 殴られた後頭部をさすりながら渋々上体を起こしたヒューが、一瞬だけ、白いカップを両手で包んだきり、黙って見つめてくる水色に視線を流す。何か言いたげに少年の唇が動こうとするのを遮るように彼は、にこともせずに無愛想に、アンの手元を指差してから視線を逸らした。

「君と似てる」

「…………え?」

 いつもより掠れた声で。

「金色だ」

 まるで、内緒話をするように囁く。

 示された白いカップに満たされているハーブティーは、淡くゆらゆらと煌く、柔らかな金色をしていた。

  

   
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