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番外編-4- 星の回り/夜想曲

   
         
7)夜想曲

         

 夕食を摂るにはやや遅いくらいの時間にダイニングに向かうと、深夜の交代で今から城に向かうのだろう部下たちとスライドドアの前で擦れ違った。その顔はどこかしらみな緩んでいて、何があったのだろうかとヒューは首を傾げる。

 それでも、基本的に口数が少ないのか、気にならないのか、会釈してすれ違う彼らに何か問う訳ではない。ただ無言で手を挙げ部下を見送り、警護班の数名には「寝るなよ」と短く言っただけで、ダイニングへと踏み込む。

 いつもと同じくらい不機嫌そうな顔で現れたヒューを目に、カウンターの中にいたダルビンが一瞬気まずそうな表情を作った。

「メシは?」

「少し。いい酒があったら振る舞ってくれ」

 言いつつカウンターに近いテーブルにヒューが落ち着くなり、ダイニングの隅に固まっていた数名から意味不明の歓声が上がる。

 見るともなしにそちらを見遣れば、手に大きなトレイを掲げたアン少年が少し照れた笑顔で何か言いながら、ひとりひとりの前に小皿を差し出しているところだった。

 パイをデザートに出すと言っていたな。となんとなく思い出す。

 甘い菓子は得意ではない。別に食べられない訳ではないが、なくて困った事もない。

 アン手製のパイを受け取った若い衛視たちは、みな一様に嬉しそうな顔をしている。きっとこれが先ほど擦れ違った連中のだらけた笑顔の原因なのだろうと思ったが、それ以上の感想は浮かんでこなかった。

 テーブルに肘を突いて、点けっぱなしのテレビに視線を移す。大したニュースもないのか、垂れ流されている内容には面白みも何もない。

 退屈しているのか、生欠伸を噛み殺して目を閉じたヒューの頭上で、微かな失笑。それに落ちてきたのと同じ緩慢な速度で瞼を上げれば、そこには、少し困ったような顔のダルビンが立っていた。

「………」

「なんだ?」

 テーブルから肘を上げてついでに大きく伸びをし、少し待って夕食もなんのセリフも降りてこない事を訝しみつつ、短く言葉を発する。

「…ミシガンに会ったって?」

「ああ、偶然だがな。アンくんか?」

 ぎりぎりで意志の疎通が出来る程度の会話。意味のない言葉の応酬に、ヒューは疲労を感じる。

「そうだ。きれいなひとだって褒めてくれたぜ」

「兄貴とは全然似てないって言われただろう」

 どこか冷めたように、でもからかい混じりに言ってから、降りて来たトレイに視線を据えたヒューが、妙な顔をする。

 ハムとチーズのホットサンドが二切れと、トマトスープがカップに半分。温野菜のサラダは申し訳程度。という、もしかしたら朝食並に量の少ない食事なのに、なぜか、四分の一にカットされたりんごが鎮座する丸いパイが付けられている。

 それで無色透明なスピリットを一瓶出されれば、誰でも妙な顔をするに決まっている。

「とりあえずそれだけ食ってから呑め」

「………………」

「パイは死んでも残すなよ」

 微妙に拷問じゃないのか? と首を捻るヒューを、離れた場所から少し不安そうにアンが眺めている。

「世の中には酒の肴にケーキを食うヤツもいるらしいが」

 俺には残念ながらそんな真似出来ない。と言い足しそうになったヒューの頭を、ダルビンがごんと叩く。

「…」

 なぜここの連中はひとの頭を叩きたがるのか、とヒューは本気で唸った。

 それから。

 なぜ、そう来ると判っていて、掠らせもしないで避けられるはずのど素人くさいゲンコツを、ヒューは避けようともしないのか。

「そいつは班長の分だ。義務だよ、義務」

 微かにシナモンの香るパイを見つめ、ヒューは誰にも知られないように溜め息を吐く。別に嫌いな訳ではない。得意ではないが、食べられないという事もない。

 まるで親の仇みたいな険しい表情でパイを睨むヒューの横顔を覗き込んだダルビンが、仕方なさそうに笑う。

「班長用の特別仕様だ、きっと美味いぜ。一旦軽く煮たりんごを白ワインとラム酒のソースに移して糖分を抜いた。普通の倍の時間と手間かけてんだからよ」

「だろうな」

「………………………。意外だね」

 ダルビンが盛り上がった肩を竦めて言うのを見上げ、ヒューも肩を竦めた。

「ああ、意外だな」

 腕を組んで立つ料理人に監視された状態で、ヒューが渋々フォークを握る。本当は、本当に? 意外にも自然に口を衝いて出たセリフが自分でも可笑しくて、笑い出しそうだったけれど。

「そういう特別扱いってのはどうなんだよ、班長」

「悪くないんじゃないか?」

「訊くなよ、おれに…。で?」

 さく、とパイにフォークを入れ、柔らかく煮込まれたりんごと一緒に、一口。

「お前に答える事じゃないだろう」

「違いねぇ。

……………なぁ、班長」

 ぽつりと振った呟きに、ヒューは視線だけをダルビンに送った。

「ミシガンは本当に幸せになれると思うか?」

 その問いの意味は深く。

「結婚式の日時を教えてくれ。花束を贈るよ」

 多分、ダルビンの望んだ答えは返らなかった。

「淡い黄色の花束に水色のリボンを掛けて、一抱え贈ってやる。

 それで、ダルビン」

 行儀悪くもフォークをくわえて椅子の背凭れにふんぞりかえったヒューが、渋面ながら微かに笑みを漏らした料理人を振り仰ぐ。

 銀色の長い髪が渋い色合いのシャツを滑り、ダイニングの天井から降り注ぐ白い光を乱反射した。

「今朝アンくんに出したのと同じハーブティーをくれないか。パイにスピリットは不適当だろ? 料理人」

 言われて、ふん、と鼻を鳴らしたダルビンが、カウンターの前で手持ち無沙汰そうにしているアンに手招きする。

「言ってろ、このクソ野郎が」

 言い捨ててカウンターに向かうダルビンと途中で擦れ違ったアンは、腕を組んだまま椅子にふんぞり返り、その上で大笑いしているヒューと、ぶつぶつと文句をいいつつも素晴らしい手際でハーブティーを淹れる料理人の顔を、何か薄気味悪いものでも見るような顔で何度も見比べた。

           

         

「彼」は思う。

 彼を含む「彼」以外の誰もが、その強さに無自覚だからこそ柔軟で「強い」と。

 そして「彼」は重ねて思う。

「強さ」は「強(こわ)さ」ではないのだと。

 気付いたのはいつだったか。

 まだ手が届かないその真理。

「彼」の手は武骨で不器用で強(こわ)く、触れたものを頑なに守ろうとするばかりで、いつしか握り潰してしまうのだ。

 つまりは、触れ方を知らないのか…。

           

         

 ばらばらに跡形もなく握り潰して握り込んで、もう二度と誰も触れられないように微塵に砕いて全てを完全に抗う事も許さず手に入れた最悪の強(こわさ)というのも、「彼」は知っていたが。

            

             

 何かが弾けてしまったのかのように、アンはダイニングから出てもずっと喋り続けていた。

 原因は、余った、という嘘(だとヒューは思う)を吐いてアンが口にした、ヒューと同じ酒浸しのりんごパイ。菓子だから大丈夫だろうと思って油断していたが、含有されたアルコールはいつになくアンの気持ちを陽気にさせてしまったようだ。

 意味不明の数式混じりに明かされるアン少年の日常。電磁調理器の出力を勝手にいじったらどうとかいうくだりではつい溜め息まで出たヒューを無視して、少年はぽてぽてと非情階段室に向かう。

「エレベータを使え…」

「? いつも階段ですけど? ぼく」

「…………転げ落ちて来てもひ」

「拾ってくださいね、ヒューさん」

 拾わない、と言い終える前に笑顔で告げられ、思わずヒューは黙り込んだ。

 振り返ったアンの、微かに潤んだ水色がじっとヒューを見上げている。笑みの形に引き上げられた唇とか、いつもはもっと白い頬だとかがほんのり色付いているのは、アルコール漬けのりんごを載せたパイと、その後に出されたカクテルのせいなのか。

「…あれしきで酔っ払って俺に絡むな」

「えー。あんなに呑んでも平気なヒューさんがおかしいんですよー。っていうか、デリとかうちのガリュー班長とかは、もっとおかしいですけど」

 あとね。とアン少年は。

 正面を向いた自分の頭上を越えて鉄扉に置かれたヒューの手を見つめ、囁くように呟いた。

「ドレイク副長もアリスさんもお酒強いんですよ」

「…………………」

 無意識なのか、多分そうなのだろう、手の甲にさらりとした何かを感じて、ヒューは視線だけを動かした。

 アンの細い指先が。

 ヒューの手に触れている。

 無意識なのか。

 そうではないのか。

「……………―――」

 ヒューが鉄扉に突いたのは、マメや傷で表皮のすっかり固くなった、ごつごつした手。その甲に浮いた筋をなぞる少年の指先はほんのりと温かく、それ以上に柔らかだった。

 数度何かを確かめるように上下した細い指先を見つめていたサファイヤがまた動き、眼下で揺れている色の薄い金色に据わる。今日という一日の半分をダルビンの城で過ごしたのだろう少年からは、微かにシナモンの香りがした。

 甘いのではなく、舌にぴりとした辛さを含む独特の香り。

 何か判る。判ったような気がするのではなく、はっきりする。

 ミシガン・トウスのあの頃と変わりない姿を見た時に感じた微かな苛立ちがなんだったのか、ヒューは、判った。

 愕然とする暇もなく。否定する暇もなく。呆気なく降って沸いたように。確かめる暇さえなく判ったから。

          

           

 黙殺する道を選択する。ゼロかイチ。それしかないなら、この「答え」はゼロにしか導けない。

 イエスかノー。それしかないなら、自分に返す答えは「ノー」しかない。

 この星は巡らないのではなく、巡っては…いけないのだから。

           

          

「他の連中はさて置き、君は次から俺に絡まない程度でやめておいてくれよ。毎回毎回君に付き合って」

 言うなりヒューは、きょとん、と顔を上げて逆さまに見上げて来るアンの薄い胴体に空いている方の腕を回すなり、「わあ!」と悲鳴を上げた少年の身体を軽々と片腕で抱え上げたではないか。

「抱えて帰る度部下にからかわれるのはごめんだからな」

 まるで荷物満載の麻袋か何かのように後ろからひょいと持ち上げられたアンが唖然とするのも構わず、ヒューは器用に重い鉄扉を背中と肩で押し開けて階段室へと入った。その、色っぽさなどとは無縁な上にいささか乱暴な扱いが、もしかしたら不当かも、と考えをまとめたアンが、自身の胴体というか腰の辺りに回されたヒューの腕に掴まって足をバタつかせる。

「ひとりで歩けますってば! 下ろしてくださいっ!」

「転がり落ちてきたら拾う約束だろう?」

「まだ転がり落ちてませんよ!」

「どうせ落ちる」

 うわ、すげー言い切ったよ! といつになくふて腐れたアンの突っ込みに、ヒューは俯いてくすくすと笑った。

 狭いつづら折りの階段に、ヒューの足音と忍び笑い、それから、ぶつぶつ愚痴るアンの怨嗟の声だけが陰陰と跳ね返る。少年のシャツに染みたシナモンの香りを振り払うように足早に、ヒューは四階まで一気に階段を上り切った。

「もー信じられません、ヒューさんて。弟さんと同じ扱いならまだしも、ついにぼくは荷物と同じ持ち方ですか」

 抵抗してもその腕が緩むことはないし、まず、アンごときが暴れたところで振り解けるとも思えない、筋肉質な手触り。それで何か諦めたのか、アンはヒューの袖を握り締めたまま頭を逸らして、ごつん、とヒューの額に後頭部をぶつけてやった。

「肩に担ぎ上げられなかっただけよしとして欲しいもんだな」

「ていうか、担ぐ前にぼくがもしかしたら人間かもしれないとか思ってください」

「へぇ」

 へぇじゃありませんよー! と今度はヒューの腕を握り拳でばしばし叩くアンをまた笑い、鉄扉を引き開けて四階フロアに到着。このままここに置き去ってやろうかとヒューはかなり本気で思ったが、一応、人間扱いを望むアンのために、床に転がして帰るのは差し控える。

「叩くな、腕が痛い」

「信じませんよ、そんなの。本気なら、もうちょっとそれらしく言ってください」

 そう長くない直線の廊下を歩きながらヒューは、もう何度目になるのか判らないアンのセリフを、自嘲気味の笑いで受け取った。

 きっとこれからも言われ続ける、その言葉。いかに本気でも、判って欲しいと思わないから、ヒューはきっとどんな内容のセリフさえ「それらしくなく」少年に浴びせるだろう。

 ただ少年の「時間」の時々に現れて通り過ぎるだけを、「彼」は望む。

 答えは、ゼロしかないのだから。

 常夜灯に照らされたドアの前に辿り付き、ヒューはようやくアンを床に下ろした。途端、何か抗議しようというのか、眉を吊り上げた少年が身体全部を使ってくるりと男を振り返る。

 暗く青白い光の輪に留まった少年の明るい色合いが酷く眩しい、とヒューは目を眇めた。水色と、オレンジと、色が薄いから尚更きらきらと輝いて見える金と。

 わざとのような少年の怒りの表情に、なぜなのか笑みが洩れた。

 どこかヒューらしくない弱った笑いをなんと取ったのか、それとも、ささやかながら何か文句のひとつも言ってやろうと思ったのか、それまで上目遣いに佇む銀色を睨んでいたアンが、淡い色彩の唇を微かに動かし息を吸い込む。

「……………………………」

 しかしその呼吸は吐き出されるに至らず、だから、少年の唇から言葉が出る事もなかった。

 柔らかな衣擦れと伴にゆっくり持ち上がったヒューの、つい今しがたまで少年を抱きかかえていた腕。

 いかにも自然に折れたままの、固い指先。

 ごつごつと骨が浮き、しかし不恰好ではない細く長いその指先が。

         

 さら、と少年の唇をなぞる。

        

 それだけだった。

 息を吸い込んだまま硬直するアンを見つめていたサファイヤ色の瞳が不意に逸れ、薄暗い光を鈍く照り返す銀髪が旋廻する。ありきたりの挨拶も、いつものようなからかいもなく無言のまま向けられた背中が遠ざかって行くのを見送る事も出来ず、ただドアに貼り付いて惚けていた少年の思考が働いたのは、階段室と廊下を隔てた鉄扉が軋んで、刹那の緊張を孕んだ静寂が途切れた時だった。

 停めていたのか停まっていたのか定かでない呼吸を再開したアンが、全身の力を抜いてドアに凭れかかる。何があったのか。どうしてそうなったのか。問うても問うてもその答えは少年のどこにもなく、その答えが理由だったひとは、何も言わずに立ち去ってしまった。

 思いの他深く吸い込んだ息を細長く吐きながら、アンは恐る恐る自分の…ヒューの指先が触れた…唇をなぞってみた。慣れないアルコールで微かに唇が熱いなと感じ、もう一度、今のはなんだったのだろうと考える。

 自分の柔らかな指先が唇から離れて。

 アンは急激に耳まで真っ赤になり、色の薄い金髪をさらりと揺らしかくんと項垂れた。

         

       

 接吻されたのだと、なぜなのか、そう思った。

       

2004/10/26(2004/11/02) goro

  

   
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