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番外編-6- **まで残り、1センチ

   
         
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 記憶というのは曖昧であって自然なのだと、折に触れ思う。

 例えば、ここにあったラブレターをいつ誰が持ち去ったかとか、そういう、曖昧にしたい事まで詳細に覚えていたりして、それが周知だったりすると、色々面倒ではないか。

「だからって、ラブレターはホントに例え話だからさ、何か人目に触れて都合の悪いモンが忽然と姿消して、持ち去った犯人を探し出すのに手ぇ貸したとか、そういう意味じゃねんだけどさ…」

 ミナミしては珍しく戸惑いがちなセリフに、ハルヴァイトは相変らずとも取れる素っ気なさで、そうですか、と短く答えた。

 ならば、青年は何を言いたいのだろう。正直、そんなものどうでもいいのだが。少し真剣に考えれば「答え」は簡単に出る。と思う。考えて、考えて、ようやく紡がれる吐息にも似たミナミの言葉は、どこか言い訳じみていて少し可笑しい。いや、微笑ましい、か。

 この、どんな時でも無表情を貫く青年がこういう行動に出る要因を探る事は、容易い。今では、と付け足さなければならないけれど。それだけ、ハルヴァイトとミナミはお互いを振り回したし、振り回されたし、傷付けたし、…まぁ、ハルヴァイトに記憶はなかったが…、浅く、柔らかく、傷付けられた。

 そして、それだけの「データ」があれば、ハルヴァイトにはある程度ミナミの意図なり理由なりを探る事が出来た。人間は複雑で曖昧でその言動や思想は予測不能と言われているが、実のところ、「その人間の領域からはみ出し百パーセント予想外」の行動を取る可能性は、意外にも低いのだ。

 簡単且つ乱暴、つまりハルヴァイトらしくそれを表現するなら、データの積み重ねを正しく分析出来れば、ある程度はその複雑怪奇な方程式も解ける、という感じか。いや、そんな「感じ」、凡人には一生どころか一生を百回繰り返しても判りそうにないけれど。

 ただし、当然ハルヴァイトはそんな事をしない。意味がない。蓄積されるのはただの文字列=データであって、ミナミでもなければドレイクでもないし、アンでもデリラでもアリスでもなく…。

 班長でもないし。となぜかハルヴァイトは、取って付けたようにあの冷たい銀髪を思い出した。

 というか。

 班長など、どうでもいい事この上ないけのだけれど、今のハルヴァイトには。

 なんだか凄くいい気分だ。思わず、口元が綻んでしまう。

 と、ハルヴァイトは、それまで宙を彷徨わせていた視線をミナミの小さな頭に据えて、とりあえず、その痩せた身体を、ぎゅ、と抱き締めた。

「……………………なんか…さ」

「はい?」

 完膚なきまで着崩れした淡いオレンジ色のシャツを、ミナミの細い指が握り締める。

「物凄く恥ずかしいのは俺だけか?」

「はぁ…」

 そこでハルヴァイトは考えた。コンマ一秒くらい。

「不特定多数の目に触れる路上でキスするよりは、恥ずかしくないと思いますけど? わたしは」

「つうか、あんたに恥ずかしいなんて意識あったのに驚いた、俺は」

「…なくはないでしょう…、いくらわたしでも。すぐには具体例出ませんけど」

「全然だめじゃねぇかよ…」

 いつも通りにぽんぽん言い返しながらも、ミナミは顔を上げようとしない。乱れた金髪の隙間から見える皮膚の薄そうな耳がほんのり桜色に上気しているのを目にして、ハルヴァイトは喉の奥で笑いを噛み殺した。

 本気で、相当恥ずかしいらしい。

 どうかしたのかとも何があったのかとも尋ねないハルヴァイトの胸元に顔を伏せたミナミは、じゃれつくように髪を掻き混ぜる指の感触に目を眇め、また少し恥ずかしくなって、必死に笑いを堪えているのだろう恋人のシャツに額を擦り付けた。

 午後の陽光にほんのりと照らされた、どこかしらよそよそしいリビング。ようやくここでの生活にも慣れて来たが、こんな時は少しだけ、あの…雑多に散らかった部屋が懐かしいとミナミはぼんやりと思った。

 大差ないのだけれど、この場所も。と、仄かな温かさを持つ光に炙られた、床に散乱する本の金や銀の箔、乱雑に積み上げられたディスクのケース、すっかり温くなったミネラルウォーターの瓶の表面に目を細め、思う。

 弾けているのは、光の粒子。

 そしてそれは、ソファの肘掛に頭を載せて寝転んでいたハルヴァイトの不思議な光沢を持つ鋼色の髪と、光さえ吸い込んでしまうくらい不透明な鉛色の瞳と、その胸元に額を置いて身じろぎしないミナミの素晴らしい金色の髪の表面でも弾けている。

 仕事から戻るなり、何の前触れもなく、ソファでうとうとしていたハルヴァイトに体当りする勢いで抱き付いたきりの、ミナミの背中でも…。

 ハルヴァイトにしてみればそれは、嬉しいハプニングというところか。とりあえず彼は今、最高にいい気分だった。

 ついでに言うなら、理由も明白だったので、何の心配もなかったし。

 ミナミの様子が少々おかしい事と、何の脈絡もなく班長…ヒュー・スレイサーの顔を思い出したのには、ちゃんとした理由があったのだ。

 ハルヴァイトには。

 兄のお節介も時には役に立つものだと、弟は思った。

 それから。

 もう暫く、黙っていよう、とも…。

  

   
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