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番外編-6- **まで残り、1センチ

   
         
(14)

  

 すきです。と伝え。

 答えは、返り。

 それで。

 お終い。

         

         

 迷うというほどでもなく刹那だけ考えて、ふ、と、見上げたままの天井に短過ぎる息を吐き付ける。

 通りすがり、偶然その場に居合わせてしまったルードリッヒ・エスコーは、資料室のある六階のドアから階段室に踏み込んですぐ一瞬足を止めて天上を見上げ、少々疲れた溜め息を吐いたヒュー・スレイサーの横顔を下から眺めて、肩を竦めた。

「班長、働き過ぎですよ。たまには休暇でも取ったらいいんじゃないんですか?」

 笑みを含んだ声でそう話しかけると、なぜか、俯いて薄い唇を微かに引き歪め、そうだな、と答えるヒュー。

 それにルードリッヒは、珍しい事もあるものだと思った。普段ならここで、お前らがもう少し頼りになれば云々と言い出しそうなものなのに。

 いつ何時でも笑っているような、穏やかな印象の顔に不審げな影を落とす部下に一瞥もくれず、ヒューが歩き出す。それを追いかけて階段を登りながら、意味もなく六階のドアに顔を向けたルードリッヒは小首を傾げた。

 確か、一般警備部の訓練メニューを作成するのだと言っていたはずのヒューが、なぜ、資料室のある階層から現れたのか。

 内心訝りながらも八階に辿り着き、廊下に出る。緩やかにラウンドした緋色の絨毯を踏みながら、前を行く漆黒と銀色を見つめる青年の気配に、ヒューはここでもまた苦笑を漏らした。

「ルード」

「は…あ、はい? なんですか」

 唐突に呼ばれて慌てて答え、足を速めヒューの傍らに並んだルードリッヒに視線だけを向けたヒューは。

「今後警護班の人員を補充ないし入れ替えるとしたら、お前、どうする?」

 奇妙な質問をした。

 暫く前に補充したばかりとはいえ、いつそういった指示が室長であるクラバインから出るか、もっと直接的に、陛下から出されるのかは、正直判らない。今はなんとか間に合わせているものの、行く末王女殿下専属の護衛を組織しなければならないだろうという話は、警護班にも伝わっている。陛下に、ミナミ、それに姫君が加わって、それぞれが公務で移動するようになれば、当然人手は不足するだろう。

「そうですねぇ…。軍から召し上げるという今の形態を継承すると、相当綿密な個人調査が必要になるでしょうから、ぼくなら、今居る特務室の人員を鍛え直すか、出自のはっきりした人物を城外から取り立ててはどうかと提案します」

 もしかして、何かそういう話が本格的に動き始めたのかと思いつつ、ルードリッヒは率直に答えた。

「城外からでは、それこそ一族郎党まで身辺調査が必要になるんじゃないのか?」

「だから、出自のはっきりした、ですよ、班長。いい例がいるじゃないですか」

 そう言われてもぴんとこなかったヒューが微かに眉を吊り上げて、緑色の瞳で正面を見据える青年を振り向く。

「特定継承権のある道場の師範代クラスとか、ね」

「………お前、それじゃウチだろう…」

 溜め息混じりに呟いて肩を竦めたヒューを横目で窺うルードリッヒは、いつものように掴み所なくにこにこと笑っていた。

「弟さん方、お強いって聞きましたよ? 室長に」

「特定継承権」と呼ばれる特権を与えられた一般市民が、この都市には存在する。例えばそれは伝統芸能であったり技能であったりするのだが、その中にはいわゆる武術も含まれ、ヒューの生家である「スレイサー道場」も「一式武術」の後継者指名権を持つ。

 特権といってもそう大したものではないと、ヒューはいつも思った。一般居住区にあって道場を含む屋敷の占有権を継続して認められているとか、「スレイサー」という姓名は師範の許可なくして使用してはいけないとか、その程度の事だ。

 ファイラン洛中を探しても、「スレイサー」と名乗っていいのはたったの七名。師範であるフォンソル、伴侶のリセル、息子たちは上から、ヒュー、セイル、ライアスとロスロイという双子、それから、末っ子のマキ。そのうち、セイルを含む下の四人はスレイサー家と血の繋がりはないが、家族なのだからしっかり修行し受け継がなければならぬものは得とくするのだといって、フォンソルが正式に養子に迎えた。

 だから、たったの七名。

 たかが七名、されど七名。だとヒューは思うが。

「実際は他にも幾つか道場関係ある訳ですし、班長のご実家って特定するつもりないですけど、班長のところなら安心でしょう?」

 現行の警護班班長の弟となれば、これ以上いい条件はないとルードリッヒは言いたいらしい。

「どこまで行ってもちびどもの子守か? 俺は」

「すごくいいお兄さんだって、セイルさん自慢してましたけど」

「本気で喧嘩してもいいからって言ってなかったか?」

 下手に一般市民と喧嘩しようものなら一秒か二秒で相手を病院送りにしかねない弟たちは、ヒュー相手に組み手するのを何よりも楽しみにしている。

 ちなみに、師範であり片親であるフォンソルにはまるで歯が立たないので、ストレス溜まるから嫌なのだそうだが。

「…まぁ、それはさておき。

 実際問題、今日明日でどうするかと言われたら、まず警備部隊からの引き抜きが一番いいでしょうね」

「キースのところか、なるほどな。あそこならミナミの事情も熟知してるし、特務室の性格も多少は判ってるか」

 そういう事です。と廊下を歩きながらそんな会話を交わし、途切れて、ルードリッヒは首を捻る。

 にしても、唐突な話題だな、と。

「…お前は、なんでもよく見てるな。よく考えてもいるだろうし」

「気色悪いんで、あんまり褒めないでくださいよ、班長」

「褒めてるんじゃなくて、感心してるんだ。それに…」

 特務室のドアの前で一旦立ち止まったヒューが、小さく笑う。

 サファイヤ色の双眸を眇め。

 天井からの光を吸ったそれに、銀色の光を散らして。

「安心した」

「…?」

 ルードリッヒがその吐息のような呟きを問い質す暇もなく、ヒューはノブを捻った。

「あら、お帰りなさい、班長。アン、どうだった?」

 居残りのジリアンと何か談笑していたらしいアリスが振り返って、いつもと変わらぬ涼しい表情のヒューに亜麻色の瞳から注がれる、柔らかな笑顔。

「ひっくり返した資料に埋もれて悲鳴を上げてた。探し物をして、それから片付けて戻るから、まだ時間はかかるそうだ。手伝いはいいと言ってたな。何か、アンくんに急用でも?」

 言いながらホワイトボードに掲げられている自分の名前を在室に移動するヒューの視線が、微か上方に動いて何かを確かめる。別にそれを見ていた訳でもないが、なんとなく視界に納めていたアリスが、一瞬の間の後、赤い髪を揺らして「別に」と答えた。

「さっきドレイクが、いつまで何やってんだろうって言ってたから」

「薄暗い部屋の隅っこで小さくなって泣いてるよ」

 失笑交じりにさらりと言い返したヒューは、佇むアリスの肩先を躱すと自分のデスクを通り過ぎ、なぜか、なぜなのか、全く持って淀みなく一直線に室長室のドアまで歩み寄り、いきなりそれをノックした。

 何か指示書を作っていたのではないかとアリスは思い、当然ずっと室内にいたジリアンもそう思い、後から入って来たルードリッヒは、きっと何か、今の件で室長と話があるだろうと思った。

 まさか。

「ヒュー・スイレサー、入室します」

「? どうぞ」

 まさかまさか。

 それが、その銀色の背中を見送る最後になろうとは、その時、誰も思っていなかった。

  

   
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