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番外編-6- **まで残り、1センチ

   
         
(13)

  

「あの日」から、その手が酷く気になって目を逸らせないでいる。

 そして「あの日」から、その青に映る事を意識的に拒んでいた。

 絶対に関わり合わないはずの別々の「あの日」。

 くちづけされたのだと気付いてしまった「あの日」と、友人よりももっと特別な枠の内側に在るのだと判ってしまった「あの日」はしかし、少年の内で無情にも重なり合い、たった一個の事実で繋がれる。

 セイルの取った唐突な行動に、驚かなかった訳ではない。しかし、それがはじめてのキスだったとは、今でも思えなかった。

 少年の初々しくも瑞々しい唇を奪ったのはあの指先であり、気持ちは、とうの昔に囚われていたのか。

 顔を上げ、微かに当惑の色を滲ませたサファイヤに弱々しくも笑みを見せた少年は、まるでそれが絶対に必要な儀式であり打たなければならない区切りでもあるように、黙して語らず、胸の内でだけ一言呟く。

 すきです。と。

         

         

 しかしこの解答は、採点されないまま、廃棄される。

         

         

 酷く久しぶりに正面から見た気がするアンの水色に、一瞬だけ寂寥と諦念のない交ぜになった複雑な曇りを感じて、ヒューは無意識に眉根を寄せた。

「どの傷も結構旧いですよね?」

 居心地悪く見つめられていると感じつつも、まるで何も気付かないように言って小首を傾げる、アン。その、取り巻く空気さえすっかりと色を変えた不自然さを訝りながらも、ヒューは「ああ」と答えた。

「大抵は子供の頃に付いたものか、俺がまだ警備兵だった頃のものだからな」

 掌や指の腹の真新しい傷は最近リゾートで付けたものだが、大半は、師匠であるフォンソル相手に組み手して付けたものばかりだ。

「骨とか折ったら、痛くありません?」

「折れなくても、外れたら痛い。思い出しただけで背筋が寒くなる」

 肩を竦めて溜め息混じりに答えたヒューをくすりと笑い、アンはまた自分の膝に視線を落とした。

「痛い思いは、イヤですよね」

 独白するような呟き。

「イヤです」

 独白するように呟き。

「ぼくなら二度と痛い思いなんかしないで済むように、逃げる事ばっかり考えますけど、ヒューさんは逃げる事じゃなくて、痛い思いをする前に勝つ事を考えてるみたいに思います」

 膝元を埋めるマイクロチップを掻き分けて、アンは壁を頼りに立ち上がった。

「羨ましくないです」

「………」

「いつだって、無茶し過ぎ」

 つられて立ち上がったヒューの鼻先に、ぴ、と伸ばした人差し指を突き付けたアンが、わざとのように咎める表情を作る。

「もしかして、注意されてるのか?」

「もしかしなくても注意してるんです」

 白手袋に包まれた細い指先が、淡く白い残影で軌跡を描きながら遠ざかって行くのを、ヒューは見ていた。

 その、寂寥と、諦念は。

「とか言っても、どうせヒューさん、ぼくの言う事なんか少しも気にしてくれないって、判ってるんですけどね」

 引き寄せて、ぎゅ、と固く握り込んだ指先を胸に当てたアンが、どこか呆れたように呟く。それでも言わなければ気が済まない自分が可笑しいと思ったのか、違うのか、言い終えてすぐ少年は視線だけを下げ、くす、と桜色の唇に笑みを乗せた。

「…どうでもいい事…なんですけど」

 健やかな少年には不似合いな表情だとヒューは思う。

 清々しく在って欲しいと思う。

 もしここで弟…セイルのように、何も知らず自由に振る舞っていいのなら。もし、自分がそうしたら、少年は少年らしく振る舞えるのだろうか。

 握り締めていた手を開いて腕を身体の脇に垂らしたアンが、仄白い顔を上げる。天井からの暗い光を吸い込んだ水色が微か揺れ、ヒューはそれを、あの黒瞳(こくとう)と同じく緩やかに死んで行く者の目だと思った。

 判っているから抗えず、何を、誰を恨む訳でもなければ羨むでもない、ただ、黙殺しなければならない気持ちと供に暗く冷たいその身の内に沈む者の。

 陛下。

 きっとこんな事がバレたらあの主人に何を言われるか判ったものじゃない、とヒューは内心嘆息した。ぼくはいい。どうせ痩せても枯れても、生きても死んでも「陛下」という地位と肩書きから降りる訳には行かないのだから。とかなんとか、いかにも不機嫌そうに眉を寄せて咎め立ててくれるだろう。

 そして多分あの御方は、寂寥と諦念に彩られた漆黒を伏せ、こうも言うに違いない。

           

 でも、そんな思いをするのは、ぼくだけでいいんだ。と。

          

「…随分前…、まだ君が魔導師でもなく、まさか特務室に電脳班が新設されるなんて、誰も思っていなかった時分」

 アンの不思議そうな顔を見つめたまま、ヒューは囁くように呟いた。

「陛下に言われた事がある」

 何をどう話していてそう言われたのかは、記憶になかったが。

「お前はもっと、ちゃんと格好悪い方がいいってな」

 ミナミのように完璧な記憶力を誇る訳ではないから、もしかしたら、もう少し違う言われ方だったかもしれない。でも大体そんな内容だったなとひとりごち、今更ながらその意味が判った、とも思う。

「えと…それは…?」

 当然、ヒューが急にそんな事を言い出した意味が判らなかったのだろうアン少年は、困惑したように小首を傾げた。

「本当に今更ながらだ。陛下がそう仰られた時にはなんの事かさっぱり判らず、ついさっき、ミナミがおかしな具合に吹っかけて来ても、セイル………」

 そこまで言ったヒューが、見上げてくる少年の頬、薄赤く浮いた浅い引っ掻き傷に視線を当てる。

「後で一発殴ってから謝っておくべきか、セイルにも」

 苦笑と供に漏れた名前。アンは、ぴくりと肩を震わせた。

「セイルが君を好きだと言ってキスしても、俺は傍から見える体裁ばかり気にして、何もなかった事にすれば済むと思って、君が本当は何を考えていたのかも知らずにいたな」

 途端、アンは大きく見開いた水色の目を潤ませてみるみる真っ赤になり、言葉もなくその場に…またも? へなへなと座り込んでしまったではないか。

 最早驚嘆の悲鳴さえ上げる事も出来ずマイクロチップに囲われた少年は、今にも濃灰色の山に突っ伏してしまいそうなくらい小さくなって、完全に俯いてしまった。頭の中ではなぜそれを知っているのか猛然と抗議しているのだが、顔を上げてあの涼しい顔を睨む勇気が、全くないどころか値がマイナスを示している。

「ちゃんと格好悪く、か。さすがは陛下だ、上手い事を言う」

 今だから、セイルが余計な事をしてアン少年を当惑させたのも、ミナミがしきりに「それはおかしい」と言っていたのも、理解出来る。結局どれも同じ理由だ。理路整然とではないまでも相手の出方を見て言い返してやろうなどという頭が働いているうちは、それ、でさえ紗幕の向こうで繰り広げられる無観客上演の三文芝居みたいなものか。

 なりふり構わず、

 周囲の都合など考慮しない。

 恋なんてそんなものだ。

……………本当に、

 それだけでいいのなら…。

「…馬鹿か、俺は。それでいいから、「ちゃんと格好悪く」が成立するんだろうに」

 本気なら、あれこれ構っていられる訳がない。

 恋愛なんて、そんなもの。

           

         

 ムービースターの皮を被った青年は。

 好きなら好きでいいだろう? それ以外に理由なんかいらないと思うよ? と言い。

 最凶最悪の天使は。

 傷つけてしまえ。でも多分、その傷は痛まない。と言い。

 彼らの傅く麗しき主人は。

 もっとちゃんと格好悪く本気になれ。そういうものだ。と言う。

 三者三様。それぞれがそれぞれ好き勝手に見えて、実は。

           

 誰もが、「誰か」のしあわせを願っているのだと知る。

         

        

 多分、それは俺じゃないな。と小さく息を吐き、ヒューは床に散らかるマイクロチップを爪先で踏みつけながら身を屈めた。

「セイルが自分で白状したんだが、君が姫君にそれを言わなかったのは、なぜだ?」

 激しく動揺しているのだろう少年がそれに答えられるはずがないと確信しつつ、問い掛けというよりほとんど独り言みたいに言ったヒューが、俯いたきりぴくともしないアンの薄い肩に、手を伸ばす。答えは、あってもなくても別に構わなかった。何かが知りたいのではない。だからといって、何か伝えたいと思ったのでもない。

 ただ、伝わってしまうのを厭う事は、やめた。

 いかにも無造作に肩を掴まれて、引き上げられて、でも、もしかしたら重要な情報が詰まっているかもしれないマイクロチップを無遠慮に踏み荒らす爪先に視線を当てたままのアンは、ヒューが手を離したら今にもその場に崩れそうだ。

 誰にも見られていないと思っていた。最低限、このひとに知れる事だけはない…根拠など全くなかったけれど…と。内緒ねって言ったくせにセイルさんの嘘吐きっ! という内心の悲鳴はやっぱり声にならず、気が動転しているのと俄かに襲って来た恥ずかしさで、手足に力が入らないと言うか顔を上げられないというか言葉が出ないというか、ああきっとあれだ背骨、とか、そうでなければさっき実は頭を打って倒れちゃって夢とか見てるんだだったらこんな最悪に都合の悪い夢なんかじゃないのにしろよぼくのばかっ! とか…。

 考えていられたのは、つまり、まともに立ってもいられないアンの華奢な背中に、ヒューの腕が巻きつくまでのほんの一瞬だけだったけれど。

 全ての思考が停止する。驚くとか驚かないとかそういう問題に辿り着くよりも前に、少年の身体に詰まった色んなものが、それぞれ正反対の性質を持つ…否定と肯定と言うべきか…要素を見つけては衝突し合って相殺され、跡形もなく消えて行く。はいといいえ。イエスとノー。正解と不正解。難解に、複雑に様々な形のものが渦巻いていたはずの内側からネガティブとポジティブが対になって真円を描き消失した後には、たったひとつ、肯定も否定もなく、はいもいいえもなく、イエスもノーもなく、正解も不正解もない、ひとつで解決し独立し絶対に相殺されないそれだけが、ぽつりと残る。

 それは。

 便宜上の呼び名を付けるなら、解答、か。

 たった今アン自身が採点を待たずに廃棄しようとしたもの。

 すっきりとクリアになった少年の抱えた答えは。

           

 すきです。と、一言。

         

 強い力ではない。しかしついこの間まで繰り返されていたような気のない手荒さもなく、だからといって、優しいと表現するには少々無造作過ぎるという、なんとも「それらしく」抱き締められて、アンは完全に硬直していた。

「…まぁ、正直に答える必要もなかっただろうがな。

 ただ、どうせ答えをはぐらかすなら、もっと頭のいい方法があっただろう」

 そんな、なぜこうなったのか判らないまま凍り付いてしまった少年の背に置いていた手をゆっくり上げ、俯いた襟足に掛かる金色の猫っ毛を軽く指で払ったヒューが、小さく自分を笑う。

 滑稽だと思う。どうしようもなく、だ。なるほど、ちゃんと格好悪いし、間違いなく少年を傷つけているだろうが、だからなんだという気分でもある。

「でも、だから余計に、君らしいと思ったのかもな」

 言いたくありませんという短い言葉に含まれていたのは、なんだったのか。

「判っていたから、放って置く気になれなかっただけだ」

 微かに笑みを含んだ声でそこまで言ってヒューは、わざと正面に据えていた視線を胸元に落とした。漆黒の長上着に凭れたきりぴくとも動かない色の薄い金髪が刷く襟足の、やけに白いカラーだけが眩しい。

「気にするな」

 卑怯以外のなにものでもない常套句を溜め息のように吐き出して、ヒューはアンの背に回していた腕を緩めようとした。

 途端、意図せず撥ね上がった細い腕が反射的に男の胴体にしがみ付き、思わず目を瞠る。

「そ…そんなの、無理に決まってるじゃないですか!」

 か細いながらもほとんど叫ぶように言い放ったアンの手が、ぎゅ、とヒューの上着を握り締め、瞬間、意外にも戸惑いなく顔を上げた少年があの大きな水色を潤ませて、暗い陰影に霞むサファイヤを睨む。

「気にするなって…、最初から気にならなければぼくにだってもっと上手い言い逃れくらい出来ましたよ! ヒューさんこそ、黙ってればよかったじゃないですか。今まで知らないフリしてたなら、ずっとそうしてればよかったじゃないですか!」

 言われて、ヒューは大真面目に頷いた。

「君の言う通りだ」

「じゃぁなんで、「判ってる」ヒューさんがそんな事言うんですか!」

 引き剥がし、突き飛ばし、酷い人だと罵倒し倒せればどんなにいいだろうと少年は思う。無理だけれど。零点の決まった解答を自分に返し、あまつさえ縋り付いて震える腕で、勘だけは格段にいい男にそれを知らせてしまったのだから。

 振り解けない腕が。

 言外に。

 言葉ではなく。

 まるで。

 無意識。

 あの。

 ミナミとハルヴァイト。

 言葉(データ)ではない。

 あれは。

 感染する凶暴なしあわせを。

「上手く言えない。ただ、俺は後悔しないが君はどうだろうな」

 最強最悪の天使と悪魔に倣って。

「終わるには始まらなければならない。セイルの言う通り、ミナミの言う通り、陛下の仰る通りだとも思う。

 だが俺は、ちゃんと格好悪い俺が許せない」

 アンに、健やかで在って欲しいと思うならば。

 平素と変わらず冷たく言いながら、ヒューは自分に縋り付いた少年の腕を引き剥がした。

「卑怯な言い方だな。それも、「判ってる」。もし君がそうしろと言うなら」

「だからどうして、あなたは!」

 ついに振り払われたヒューが、アンの手首を開放する。柔らかい革手袋の感触が離れて、少年は睨むように、佇む銀色を見上げた。

 今にも融けてしまいそうな、水色。

 零れ落ちてしまいそうな、水色。

「…。いいや。君が望んでいないと言っても、か」

 全く持って滑稽だと、ヒューは再度苦笑を漏らした。

「君が、君の思う通りしあわせになればいいとだけ」

 だけ。

 その言葉に、滲んだ水色を見開いた少年の淡い桜色を刷いた唇が震え、ヒューは、喉に痞えて正しく伝わらない「解答」の、でも、確かな形状をたった一度だけ知らせるように、伸ばした指先でアンの頬を走る薄赤い傷跡に触れ、それから。

 冷たい唇で、少年の柔らかな唇を、塞ぐ。

 その乾いた感触に、少年は安堵する。順番が逆になったと思った。本当ならこれこそが、あの暗い廊下でアンがヒューから受け取るものだったはずで、だから、セイルとのキスが初めてではない。

 ルニに「言いたくない」とアンが答えたのは、本当は、答えられなかったからだ。

 このくちづけが。

 届いていなかったから。

 触れていた薄い唇がゆっくりと離れて、間近で銀色の睫が持ち上がる。ああ、やっぱり睫も銀色なんだ、とか、やっぱり目の色はただのサファイヤじゃなくブルーメタリックなんだとか、相当混乱した頭で暢気に考える少年の惚けた表情をいっとき見つめてから、ヒューはアンの頬に置いていた指先を下ろした。

「泣くなよ」

「…「判って」ます…。でも、少し…ひとりにしておいてください…」

「そうだな。そのくらいの甘い顔は、許されるだろう」

 囁くように答えたヒューが、呆然と立ち尽くすアンから一歩下がり、そのまま身を翻して細い通路を歩き去って行くのを見送る。広い背中に流れた銀色が薄暗がりに呑まれて消え、周囲に静寂と空々しい寒さが戻ってやっと、アンはその場にへたりと座り込んだ。

 うな垂れて、膝に置いた自分の掌を見つめ、溜め息をひとつ吐く。

 床に転がった憂鬱なそれと一緒に、ぱたりと、広げた手の上に融けた水色が一粒だけ落ちた。

 すきです。と伝え。

 答えは、返り。

 それで。

「…始まらなくちゃ終わらない…。

 そうですよね、ヒューさん。

 どうせ終わるって「判って」るんですから、いつ始まっても…結果は一緒ですよ」

 ぱたぱたと掌を叩く清浄な水滴をなんの感慨もなく眺めながら、アンは呟いた。

       

         

 少年が「少年」である事を諦めようと思ったのは、

 もう抗う事など出来ないのだと悟ったのは、

 その「瞬間」だった。

  

   
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