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番外編-7- ステールメイト

   
         
(1)一日目 08:45

     

 特務室のドアを開け、なんだか今日は朝から落ち着かない雰囲気だなと思ったけれど気にも留めず、ハルヴァイトは邪魔な衛視を躱し電脳班執務室へと爪先を向けた。

 そこでふと、登城を示すホワイトボードの存在を思い出し、足を停める。別にネームプレートの位置で何か変わる訳でもあるまいしと思いはするが、所在をはっきりさせなければならない規則なのだから仕方がないと溜め息を漏らして、件のボードを振り返った。

「……何か面白い事でも書いてあるんですか?」

 ドアの横に掲げられているホワイトボード。勤務在室、勤務不在、休暇。線で三つに区切られたそれぞれのエリアにネームプレートが貼り付けてあるのだが、今朝はなぜなのか、特務室に詰めている殆どの衛視がその前に集まって、何か言いたそうな顔を突き合わせ唸っていた。

 なるほど、入室してすぐに感じる落ち着きのなさはこれが原因かと思いながら、ハルヴァイトは立ち塞がる衛視…彼は未だに同僚の氏名をろくに覚えていない…の頭上から手を伸ばし、休暇エリアにあった自分の名前を勤務在室に移動した。それで義務は果たしたとでもいうのか、雑多に貼られた他のプレートに一瞥くれるでもなく、あっさりとボードから離れようとする。

「あって然るべきものがないんですよ、ガリュー班長」

 問いかけておきながらさっさと用事を済ませて、誰からの答えも待たずまた踵を返そうとしたハルヴァイトを呼び止めたのは、自身も直前入室したばかりらしくネームプレートが不在エリアに取り残されている、ジリアン・ホーネットだった。

 黒いセルフレーム越しの不満げな目付きと、どこかしら咎める口調に引き寄せられて視線をボードに戻せば、なるほど、「あるはずの名前」がない。さて、この場合どういう反応を示せば彼らは許してくれるのやら、と完全に間違った方向の問題に眉を寄せたハルヴァイトは、四方から注がれる衛視どもの視線に内心うんざりと溜め息を吐いた。

 あるはずの名前。

 警護班を示す色付き文字で書かれた、ヒュー・スレイサーというプレートが、跡形もなく消え去っている。

 一夜にして、か。

 ハルヴァイトにしてみれば、「その程度」、驚く事でもないのだが。

 ひそひそと何事かを囁き合う衛視たちを眼下に置いたまま、彼の悪魔は横柄に腕を組んでホワイトボードを睨んでいた。とはいえ、別に本気で喧嘩を売っている訳ではなく、普通に偉そうなだけだが。

 思考は、反芻する。

 この部屋でルニがいらぬ暴挙を働いたのは昨日の午前中。

 という報告をハルヴァイトがドレイクから受けたのは、昨日の昼近く。

 帰宅したミナミがやたらハルヴァイトに懐いたり照れたり落胆したりしたのが、昨日の午後から夕方にかけて。

 それで、今朝にはヒューのネームプレートが剥がされている行動の早さに、悪魔は今日何度目かの嘆息を漏らした。

 でもまぁあの銀色の事だから、半日もあれば十分なのかとも思う。

 組んでいた腕を解いたハルヴァイトは、未だ何か言いたげに見上げて来るジリアンを無視して踵を返し、今度こそ電脳班執務室に足を向けた。さて、どうするか。何をするか。気付いてしまったものはしょうがないし、まず、この方程式の答えはミナミのしあわせで括ると決めたのだから、最小の行動で最大の効果を発揮するように、タイミングよく立ち回らなければならないのだが。

 ハルヴァイトがもう一度面倒そうな吐息を漏らそうと息を吸い込み、且つ、電脳班執務室に繋がるドアに手を伸ばした途端、かちゃり、と力なく室長室と衛視室を隔てるドアが囁いて、酷く蒼ざめた顔のルードリッヒが姿を見せる。

 思わず音の方を振り返り、これは意外と微か片眉を吊り上げたハルヴァイトは、ドアノブに手を置いたまま室内を観測した。

「どうかした? ルード。緊急の指示って…」

 ひとりホワイトボードの前を離れたジリアンが、蒼い顔のまま背中で室長室のドアに貼り付いたルードリッヒに仄かな笑顔を見せる。しかし、笑みを投げかけられた青年はなぜか、情けない表情で俯いてしまったではないか。

 ハルヴァイトは観測する。

 不確定指数だらけの方程式を、間違った答え? に導くために。

 悪魔は推測する。

 全ての、ではなく、ただ、天使のしあわせがどこにあるのか。

 最悪は憶測しない。

 事象は、常に事実という通過点を確実に通り、しかし、任意の回答へと誘われるだろう。

 最強は、予測する。

 見えない真実を、露呈した現実で補いながら。

「…室長が…」

 迷子みたいな弱々しい声が呟いて、刹那、室内には衣擦れさえ厭うような重苦しい空気が満ちた。

「ぼくに、警護班のシフトの変更と通達を考えるようにって…。その時、班長は入れないでって…」

「……それ、まさか…」

 ヒュー・スレイサーが姿を消したからといって特務室の仕事がなくなる訳ではなく、ましてや、ミナミを含む要人警護任務が減るでもない。だとすれば、非情にも、即刻班長代行を立て任務を滞りなく遂行しようとするクラバイン・フェロウの判断は、どこも間違っていないとハルヴァイトは思う。

「待てよ、ルード! まず、だ。その班長は一体どこに行ったってんだよ!」

 剥がされたネームプレートのごとく、忽然と。

 途方に暮れるルードリッヒに詰め寄った警護班の一人を、ジリアンが慌てて青年から引き剥がそうとする。

「ぼくが知る訳ないだろ!」

 勢い言い返したルードリッヒと先の衛視を遠ざけつつ、ジリアンが「とりあえず落ち着け!」と叫んだ途端、今日は朝から一度もあの掴み所ない笑みを見せていない青年の背中で、ドアがばたりと開いた。

「朝から何を騒いでいるんですか? とうに引継ぎ時刻は過ぎています、至急任務に取り掛かりなさい」

 奥の部屋から姿を見せた王下特務衛視団衛視長クラバイン・フェロウが、彼にしては珍しく、さも苛立った様子で部下を叱責する。地味な眼鏡越しの視線に一瞥された室内には酷く嫌な空気が蟠ったが、誰にも、それを蹴散らして彼に質問する勇気はないようだった。

 気になっているのだろうが。

 クラバインも判っているのだろうが。

 問われないから答えないのか、それとも、答えがないから問わせないのか。

 渋々とデスクに戻る部下の姿を、クラバインは暫くドアの前に立ったまま見つめていた。何か言うでもなく、だからといって退室するでもない不自然さは、ルードリッヒが姿を見せてからこちら、ぴくりともせず室内を睥睨しているハルヴァイトに似通っている。

 明らかな不快を示すクラバインの表情と、発散する刺々しい空気の訳は?

「室長にひとつ質問があるのですが、よろしいですか?」

 緊張に張り詰めた室内に降りた、ハルヴァイトの声は?

「…なんですか? ガリュー班長」

 何を、白日の下に、晒そうとするのか。

 ドアノブから手を離してクラバインに向き直ったハルヴァイトは、衛視たちの注いで来る縋るような視線を完璧に無視して、ゆっくりと腕を組み直した。

「班長は、どちらへ?」

 一夜にして消えたネームプレートを示すでもなく、不安や焦燥や、まして本気の疑問が含まれるでもない、平坦な声で、その鉄色は問う。

 洗いざらい吐き出せと。

 問うように、突き付ける。

 理路整然と美しい言い訳など、わたしには無用だと。

「………知らない」

 クラバインは搾り出すような声でそう吐き捨てると開け放ったままのドアへ向き直り、冷たい怒気をその背に溜めて、室長室へと戻って行った。

「ふうん…。突然姿を消すなんて、わたしだけでたくさんでしょうに」

 などと恐ろしい事をさらりと言って、ハルヴァイトはわざとのように肩を竦めた。

  

   
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