■ 前へ戻る   ■ 次へ進む

      
   
   

番外編-7- ステールメイト

   
         
(15)三日目 10:17

     

 促されてメリルの部屋に入り、ベッドの傍らに置かれている小振りな応接セットの椅子に落ち着いたアンは、知らず肩に入っていた力が抜けるのを感じて、なんとなく苦笑を漏らした。

 なんだか、「家」に帰って来たという雰囲気ではない自分に、ちょっと呆れる。

 ソマスから受け取った紅茶をアンに差し出したメリルの顔を見上げて、少年はまたも訝しそうな顔をした。兄の蒼褪めた、酷く硬い表情の意味が判らないのだろう。

「…今更遅いって、判ってるんだ…」

 柔らかな香りを振り撒くカップを見つめるメリルの、紫がかった青い瞳が所在無く揺れる。

「ぼくが、頼りにならない兄貴だっていうのも、判ってるよ…」

「あの、メリルにーさん?」

 そんな、いきなり反省されても困るんですけど? とアンは、慌てるでもなく兄の名を呼び、椅子から腰を浮かせようとした。

「でも、ぼくはまだお前の「兄貴」だってそう思いたいから、勝手な事をしたって言われても、何もしない訳には行かなかったから」

 なぜか涙目で睨まれて、アンは思わず硬直した。

 っていうか、何があったの?! と、本気で思う。

 ぽかんとするアンの肩を掴んで無理矢理椅子に押し戻したメリルは、なんだか怒っているような顔で自分も少年の向かいに腰を下ろした。しきりに巻いた金髪を指先で弄り回すのは、何か言い出せない事を抱えて苛立っている時のメリルの癖だったから、少年は黙って兄が口を開くのを待つしかなかった。

 やたらはしゃぐ長兄も始めて見たけれど、こんなにキレ気味の次兄も始めて見たな、などと、少年は暢気に考えていたのだが…。

 メリルはそこで紅茶を一口飲み、それから、改めてアンに向き直った。

「お前がぼくに何も相談してくれなかったから、これでおあいこだ」

「はぁ…」

 だから何が?

 少年は是非ともそう突っ込んでやりたかったが、この緊迫した空気を振り切ってそんな暴挙に出られるのは多分、ファイラン洛中探してもミナミひとりに違いないと諦める。

 睨んで来るメリルの強張った顔を暫し見つめ、アンは内心首を捻った。少年の知る次兄はいつも少し俯いていて、先端の跳ねた長い睫を少し伏せていて、足元ばかり見ているような人だったと思う。

 長兄の顔色を窺いながらこの家で暮らしていた頃には意識しなかったが、この次兄がそういう、つまりは少々…よりもかなり小さくなっていた理由に、家を出た後でいつしか少年は気付いていた。三流貴族だと誰憚らず口に上らせるルー・ダイ家をなんとか盛り立てようと躍起になっていた兄と、とりあえずは「魔導師」になる予定の弟に挟まれて、メリルは本当に肩身の狭い思いをしていたのだろう。

「………」

 しかし、今のメリルは。

 アンは、ふと目を眇めて微笑んだ。

「ナイ・ゴッヘル小隊長と仲良しなんですってね、メリル兄さん」

 その唐突な台詞に、メリルがきょとんと目を見開く。

「スゥさん…ゴッヘル小隊長が感心してたって、デリが教えてくれたんです。とにかく人見知りの激しいコだから、どうなるかと思ってたけど、無駄な心配だったって笑ってたそうですよ?

 魔導師隊って…まぁ、色々大変な場所でしょうけど、理解のある隊員に恵まれたら、別にね、

           

 辛くないですよ」

           

 何があっても。どんな事があっても。辛くはないのだと少年は笑う。

 理解してくれる人が居れば。

「……お前は、辛くなかったんだね」

 溜め息のように答えて、メリルもアンに微笑み返した。

 ようやくそこで、青年も知る。だからこそ、デリラはああも冷たく自分を突き放し、マイクスは関わらないと言ったのかと。気付くのが遅い。しかし、気付いたのなら、報わなければならない。

 理解出来ると無責任に言うだけではなく、理解する努力を見せよと、彼らは。

「アン」

 メリルは表情を引き締め、にこにこと微笑む弟を見つめた。

「ぼくは、お前の決めた事に異を唱えるつもりはないよ。でも、ひとつだけ訊かせて。

 お前、後悔しないのかい? …兄上の言いなりになって、家を継ぐ事を」

 問われてアン少年は、なぜか、酷く困ったように眉を寄せた。

「………。…後悔するつもりならここに来ないよ、兄さん…。…兄さんこそ…」

 そこまで言って不意に表情を曇らせたアンが、テーブルに視線を落とす。

「……………、兄上を…」

 少年が沈んだ声で搾り出した途端、控え目なノックがふたりの会話を遮った。

「…メリルぼっちゃま」

 応えも待たずに細く押し開けられたドアの向こうから、戸惑うようなソマスの声。それにアンははっとして顔を上げたが、メリルの方は何か思う所があったらしく、壁の時計に視線を投げてから慌しく立ち上がった。

「もうこんな時間! ソマス、ぼくにお客様?」

「はい。それが…その…」

「いい、判ってるよ。兄上にはぼくから事情を説明するから、粗相のないようにお迎えして。リビングに戻ろう、アン。本当に、勝手な事をしたのは悪いと思う。でも、…ぼくは、お前に諦めて欲しくないんだ」

 後半の部分をドアからアンに視線を移して言ったメリルが、ひとつ深呼吸する。

「今からでも遅くないってお前が言ってくれるなら、ぼくはぼくが間違ってるとは、思わない」

 気の弱い兄の気迫漲る言葉に、少年は…呆気に取られた。

 何が起ころうとしているのか。というか、この展開はもしかして凄くイレギュラーではないのか? 少年はただただ目を白黒させ、メリルに腕を掴まれて、部屋から連れ出された。

 短い廊下を早足で突き進み、元居たリビングに舞い戻る。徐々に強張っていくメリルの表情と緊迫した気配に少年は、ますます戸惑う。

「お待たせしました」

 メリルは、ドアが開き切るのももどかしくそう言うなり、アンの腕を掴んだままリビングに踏み込んだ。

 そして。

「って! 何してるんですか、こんな所で…。……スゥさん…」

 そのふたりをにこにこと微笑んで迎えてくれたのは、他でもない、スーシェ・ゴッヘルだった。

          

          

 探るような空気が、室内を締め上げる。

 ドアを背に硬直したアン。そのアンの腕を掴んだまま会釈する、メリル。色の薄い弟たちを当惑の表情で見返すセリスと、肘掛椅子に納まったきり凍り付いたレバロ。

「何って言われても困るな、アンくん。まぁ、一応兄の代理だとでも言って置けば、納得して貰える?」

 果たして何か挨拶でもしていたものか、立ち上がったミリエッタの手を取っていたスーシェが、言われて、困ったように…凶悪に…ふわりと微笑む。

 うわ、怖っ。というのが、その瞬間アンが抱いた感想だったが。

 白いシャツの上、肩を包むように煉瓦色のストールを巻いたスーシェは、一旦ミリエッタに向き直って華奢な眼鏡の奥にあるソフトチャコールの双眸を眇め会釈すると、ルー・ダイ婦人に肘掛椅子に座るよう促し、改めて立ち尽くすアン少年を振り返った。

「納得って…、…そういう問題ではないと思いますけど…」

 まさか、である。

 まさか今日この場所に現れる訳のないゴッヘル卿スーシェの登場で、リビングは俄かに緊張の度合いを増していた。そういうイレギュラーに全くもって弱いのだろうセリスは何か縋るような目でアンを見たが、アンの方はさっきしきりにメリルが謝っていた理由を知って、愕然と次兄の後頭部を見つめるしかなかった。

 こんなに行動力のある人だったなんて! という所か。アン、兄をなんだと思っていたのか…。

「兄上」

 飽和状態の緊迫を飛散させるように固い声で、メリルが言い放つ。

「勝手な事をして申し訳ないとは思いましたが、先日少々お話する機会がございました折、その場でアンとキャロン嬢の婚約の履行成立間近ですとゴッヘル小隊長のお耳に入れた所、小隊長は本日の件をご存知ないとの事でしたので、非礼をお詫びしご同席頂けるよう申し添えて置きました。その時マイクスぼっちゃん…ダイ魔導師にも是非とお声を掛けさせて頂いたのですが、残念ながら職務のご都合でいらっしゃる事は出来ないとのお返事でした」

 暗にセリスの対応を非難しつつ、メリルはアンをソファの隅に押し込んだ。

 その時、アン少年はずっと見ていた。

 メリルの緊張に蒼褪めた顔を。

 肩に置かれた手の震えも感じた。

 兄は。

 生まれて始めて、長兄に逆らったのだ。

 今日の会見をスーシェに知らせないでくれと言って来たのは、ヒス・ゴッヘル家の方だった。アンも早々に言い含められていたし、元より、デリラがゴッヘル家に入る下りでヒス・ゴッヘル家の女当主、ベラフォンヌ・ヒス・ゴッヘルが何やらしでかしたのも聞いている。そんな「爆弾」の傍に着火点の意外に低いスーシェを呼び寄せようとは、まさか少年でも思うまい。

 だからずっと、黙っていたのに…。

「…スゥさん」

「なに? アンくん」

「もしかして、怒ってます? よね」

「事後承諾で聞かされたらもっと怒ってたよ、きっとね。でもまぁ今日の所は、メリル事務官の手前穏便に、もう怒ってないと言って置く」

 もう?! もうって! じゃぁ、いつまで怒ってたんですか!

 と、アンは、笑顔を絶やさず隣に腰を下ろしたスーシェの白皙を見上げ、内心悲鳴を上げた。

「憂さ晴らしに、ぼくに黙って出掛けようとしてた兄を締めて部屋に放り込んで来たから、結構今はすっきりしてるし」

 メイライン・ゴッヘル氏の安否が気遣われる発言に、室内の温度がぐっと下がる。

「あの、すみませんでした」

 アンはソファの中でスーシェに向き直り、頭を下げた。

「…、お前の短気さが災いしてアンくんに気を遣わせたんだって、デリに叱られたよ、ぼく。どうせぼくにこの件を知らせるなって言ったのはベラ叔母様なんだろうから、別にルー・ダイ家をどうこう言うつもりはない」

 女性的な白皙を飾る、そこだけ、穏やかな笑み。

「誤解のないよう先に言わせて頂きますが、ルー・ダイ卿」

 アン少年に目を眇めて見せた後でスーシェが、少々口調を変えて言いながら、窓の傍の肘掛け椅子にしがみ付いているレバロを振り向く。

 貴族と言えども末席、貴族院に所属するでもなく大学院で学問を教えているレバロにとってスーシェは、正真正銘の「貴族」であり、「魔導師」だった。貴族会という窮屈な会合で見かけた事はあったが…それにしても、兄のメイラインだったけれど…まさか親しく会話するなど思いも及ばず、まさかまさか、自宅のリビングにふらりとやって来るなど、夢のまた夢だったのだ、半ばパニック状態に陥って、何が悪いというのか。

「はいいいい!」

 答えた声も、思わずひっくり返る。

「ぼくは別に何か口出ししようとしている訳ではありません。ただ、今日の会合の成り行きを見守り、事後マイクスに報告するだけですので、どうぞご安心を」

「…っていうか、そういう姿見るとスゥさんもやっぱりゴッヘル家の人だなぁと思うのは、ぼくだけ?」

 アン少年はなんとなく、ソファの肘掛に片腕を預けて足を組んだ、かなり偉そうな姿勢のスーシェを横から眺めて、呟いた。

「普段はぼくより偉そうな人に囲まれてて、影が薄いからかな? それらしく見えないの」

「確かに、自称平凡な一般市民でさえ、スゥさんより偉そうに…」

          

 ふと過ぎる、銀色。

     

「…? どうかした、アンくん」

 言いかけて不意に凍り付いた少年の顔を、スーシェが横から覗き込む。

「あ、いえ。なんでもないです…」

 注がれる不審げな視線に気付いて慌てた少年は、わざとのように笑顔を作って首を横に振り、それから、ソマスに何か飲み物を運ぶようにと言いつけた。

 そして暫し、奇妙な雰囲気がリビングを占める。スーシェは気さくにレバロに話しかけ、ミリエッタに話しかけ、メリルにイムデ少年の世話は苦労するだろうと言い、アンといつも通り会話したが、絶対に、セリスとは目を合わせようとしなかった…。

 なんていうか、大波乱。と少年は、今にもどこかで弾けそうな荷電粒子の気配に怯えつつ、傍らに呼び寄せたソマスの耳元で、こう囁いた。

「…とりあえず、ここの通信端末外して、隣の部屋に持って行って…」

  

   
 ■ 前へ戻る   ■ 次へ進む