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番外編-7- ステールメイト

   
         
(14)三日目 10:00

     

 約束の時間通りに屋敷のベルを鳴らしたアンを出迎えてくれたのは、少年が子供の頃からルー・ダイ家に仕えてくれている、執事のソマス・ナルウェルだった。中肉中背、白いものの混じり始めたブラウンの癖毛に口髭に、タキシード。柔らかく目尻の下がった好印象な中年紳士は、屋敷を出て行った時分にはまだいかにも少年然としていたアンがどこかしら大人びた姿で戻った事を、涙ぐんで喜んでくれた。

「今すぐ旦那様と奥様を…」

「父上と母上がリビングにいらっしゃるなら、別に慌てて呼ばなくてもいいよ、ソマス」

 どうせ今からぼくが行くでしょ? と子供の頃と少しも変わらぬ生き生きした笑顔を見せたアンを、ソマス執事が感慨深げに眺める。

「すっかり…ご立派になられて…」

 懐から取り出したハンカチで目頭を押さえるソマスの姿に、アンは本気でうろたえた。そんなに感涙されても、すごく困る。執事は立派になったと言ってくれたが、少年としては…。

 少しも立派になどなっていない。ただ、少し歳を取り、少し世の中を知っただけだ。

「とにかく…」

「ソマス! いつまで何をやってるんだ!」

 なんとかかんとか感激に咽び泣くソマスを宥めすかして、両親と…兄の待つリビングへアンがようやく爪先を向けた途端、待ち兼ねたのだろう兄が荒々しく両開きのドアを開け放って、玄関エントランスから正面に見える短い廊下の突き当たりに姿を現した。

 相変わらずの癇癪持ちだと、アンは兄に会釈しながら思う。昔から、いつも何かに追い立てられているように落ち着きのない人だった。その余裕の無さに萎縮しながら接していた頃の事を思い出すと、苦笑しか浮かばないが。

 今なら、判るけれど。

 兄は、…本当に…、可哀想な人だ。

「ただ今戻りました、兄上」

 傍らに在ったソマスを下がらせたアンは、喜色に顔を輝かせた兄、セリス・ルー・ダイに深く頭を下げた。

 兄弟の中で、誰よりも長くルー・ダイ家の「責任」を感じていただろう兄について、恨みやつらみを抱くつもりは毛頭ない。彼が生まれ、しかし魔導師でない事に両親は落胆しただろう。一族もまた、やはりルー・ダイ家は三流のダメ貴族だと言ったに違いない。それから少しして儲けたメリル…第二子もまた「平凡」であった事に、兄は何を感じたのか。

 そして、セリス十五歳の年に生まれた末の弟が魔導師だと知った時、彼は…失望しただろう。

 なぜ、自分ではなかったのか。

 誰も悪くない。

 臨界にさえその責任はない。

 だから、誰も責めてはいけない。

 ただ、少し、悲しむだけ。

「父上と母上に、ご挨拶差し上げたいのですが」

 満面の笑みを見せて大きく頷いたセリスにアンは、どこか冷えた笑みを…返した。

           

          

 見覚えのあるリビングに足を踏み入れるなり、大窓の前に並んだ二客の肘掛椅子から両親が揃って腰を浮かせた。

 アンの父、レバロ・ルー・ダイ卿は、やや小太りで、卵方の禿頭に短くて太い眉とどんぐり眼、おしまいのつんと跳ね上がった口髭をトレードマークにしている、王立大学院気象学科の教授でもあった。

 その傍らに寄り添った小さな影は、母、ミリエッタ・ルー・ダイ。どこか少女のように屈託ない笑顔を絶やさず、一族に何を言われようとも、それは私どもの責任ではありませんので、と拗ねた子供のように言い返していた女性。

 ミリエッタは、色の薄い金髪にウエーブをかけ、綺麗に巻き上げていた。元々猫っ毛でウエーブの持ちが悪いといつも言っていたのに、きっと今日はお客様が来るので無理してくれているのだろう。落ち着いた紅茶色のドレスに白いレースのショールは似合いかもしれないが、アンの知る母親はいつも、淡いピンクか水色の花模様を散らしたエプロンドレスを自慢げに着こなし、ソマスと一緒になって掃除したり、料理人を監督にお菓子を作ったりしていたはずだ。

「ご無沙汰しておりました、父上、母上」

 羽織って来たクリーム色のハーフコートをソマスに手渡してから、アンは改めて笑顔を作り直し家族に会釈した。きっと、こんな堅苦しいリビングを見たら「みんな」呆れるに違いないと、思わず苦笑が漏れそうになる。

 しかしそんなアンにレバロは満足そうな笑みを返し、ミリエッタは青い目に涙を浮かべた。

 そして。

「なんだ、アン。そんな格好で来るなんて、少しは気を使え」

 父や母が何か言葉を発するより先に、セリスがアンの視界を遮った。

 地味な色合いの三つ揃いをぴしりと着込んでいるのだが、例えばクラバイン・フェロウのようにその「地味さ」をモノに出来ていない、つまりはアンバランスな印象の、兄。金色と薄茶色の中間あたりと言ったらいいのか、微妙にくすんだ色目の金髪は酷い癖毛で、いつもぎりぎりまで短くしておかなければすぐにみっとも無くなると、本人は嘆いている。

「すみません、兄上」

 少年は今日、やや襟の大きな白いオーバーシャツに薄いグレーのスカーフを巻き、黒いスラックスを穿いていた。本当はスーツか何かが適当なのだろうと思ったのだが、実は、似合わない衣装など必要ないと散々アリスやドレイクに…どうしても盛装する場合は最悪制服でいいよとまで…言われ、いわゆる「少し洒落た衣装」は何度か作ったりしたものの、そういう正装は手持ちにないのだ。

 しかしアンは、そんな事をいちいち兄に言ったりしない。

 ただ少し困ったように眉を寄せ、薄く微笑んでみせるだけだ。

「こちらからヒス・ゴッヘル婦人とキャロン様を招待しておきながら、あまり恥ずかしい真似をしないでくれ、アン。そうだ、どうせなら衛視の制服でも着てくれば良かっただろうに」

 言ったセリスの顔を見上げ、アンはなんとなく思った。

 こんなにはしゃいでいる兄を見るのは、生まれて始めてだと。

「兄上。無責任な事を言ってアンを困らせるのは止めてください。警備兵も衛視も、私用時の制服着用には厳しい制限があるんです」

 おかしな事に感心していたアンは、その固い声にぎょっとして振り返り、そこでようやく、メリルがリビングに姿を見せていたと気付く。

 だが、何か、そのメリルの様子がおかしい…。

 開け放ったままのドアを背にして佇んでいたメリルは、何か言いたそうな顔でセリスを見つめ、それから、唖然としているアンに視線を移した。

「…ちょっと話があるんだけど、いいかな…アン」

「はい…」

 気迫と言うか、空気というかがいつもと激変している二番目の兄に圧される形で、アンは小さく頷いた。というか、メリル兄さんってこんな人だったっけ? というのが少年の素直な感想で、もしかして、魔導師隊に編入されて何か変な空気に毒されたんだろうか? とか、まさかエスト小隊長に毎日意地悪されて、密かにぼくを恨んでるんだろうか? とかまで、脳裏を掠める始末。

「ソマス、ぼくの部屋にお茶をふたり分頼むよ」

「はい、坊ちゃま」

「? おい、メリル、別に話しならここでも…」

「お客様がお越しになるまでには戻ります」

 アンならずとも、メリルの「奇異」な行動に家族が目を白黒させる。明らかに機嫌の悪そうな弟の様子にセリスは眉を寄せ、レバロとミリエッタはぽかんと口を開けていた。

 元より気が弱く、幼い頃から身体も弱かったメリルは、厳格な長兄に口答えした事のない大人しい子だった。魔導師としての才能も無い、人当たりは悪くないが特別何かが秀でている訳でもない、極平凡で影の薄い、貴族であった事が不幸にさえ思えそうなほど、普通の青年だったのに。

 一夜にして何かが変わってしまった弟を呆然と見送るセリスの背中を見つめ、不意に、ミリエッタが薄紅色の唇を綻ばせる。

 彼女だけが、気付いたのか。その時。

 母だからこそ、彼女だけが…。

 当惑するアンに、「早くお行きなさい」とミリエッタが声を掛ける。それに小さく会釈してリビングを出て行くアンの華奢な後姿に何か言いかけたセリスを、彼女は制した。

「好きなようにさせてお上げなさい、セリス。私はね、思うのよ? アンがもう子供でないように、メリルももう…気の弱い、あなたに逆らわないただの弟ではなくなってしまったって。

 あのコたちの「世界」は、あなたより、ずっと広いわ」

 言ってミリエッタは微笑みながら、先日、久しぶりに茶会で再会した前女王陛下の笑顔と言葉を思い出していた。

           

          

「アンくんに会ったぞ、ミリー。みんなに可愛がられて、それを、ちゃんと判っている顔をしていた。

 いいコだな、あれは」

            

          

 彼の女王陛下から送られた最大級の賛辞にミリエッタは、ありがとうございますと答える代わりに当然ですと胸を張って、黒いスーツを纏った女王に大いに笑われたものだった。

  

   
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