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番外編-7- ステールメイト

   
         
(17)三日目 11:05

     

 飽和状態の緊張を孕んだ団欒という…団欒とは思えないひとときを経て約束の時間になり、そわそわと落ち着かないセリスの横顔を無表情にアンが眺めるのと同時、ソマスがリビングのドアをノックし顔を覗かせる。

「旦那様、ヒス・ゴッヘル卿キャロン様とベラフォンヌ婦人がお見えになりました」

 丁寧に腰を折って告げた執事に、ルー・ダイ卿は先より更に緊張した面持ちでリビングへ通すようにと答えた。

 一旦退室したソマスが再度リビングに現れて、開け放ったドアの脇に退去する。その時つい目にしてしまった執事のなんとも言えない表情に、アン少年は内心苦笑を漏らした。

 聞いていたから覚悟は出来ていたのだが、もし自分がソマスだったら、はやりあんな顔をするだろうと思う。

 何せ。

「本日はお招き下さってありがとうございます、ルー・ダイ卿」

 喜色満面のベラフォンヌ婦人を遮るように告げつつ室内を旋回するのは、明るい空色の瞳。抑揚少なく繰り出される声は落ち着いたハスキー・ボイス。

「アン様には、初めてお目にかかります」

 長い睫に飾られたそれがぴたりとアンに据わると、少年は、ゆったりと微笑んでソファから立ち上がり、更に、顎を上げて…キャロンを見上げた。

「突然のお呼び立て申し訳ありませんでした、キャロン様」

 彼女は。

 深緑色のシンプルなドレスに映える、金とも銀ともつかない極めて色の薄い髪を背の中ほどまで伸ばし、その女性らしいボディラインを惜し気もなく晒しているのだが、例えば履いているだろうハイヒールを脱いでも、確実にアン少年よりも格段に背が高いのだ。

 というか。

 これはどう見てもただ者じゃないな。と少年は、自分より筋肉質なキャロンの腕を見て、内心ますます苦笑した。

          

           

「ところで、なぜこちらに若様が?」

 眼前に立ち塞がっていたキャロンを躱してリビングの会話に参入しようとしたベラフォンヌを、彼女の平坦な呟きがまたも遮る。

「別にぼくの事は気にしなくてもいいよ、キャロン。君たちの邪魔はしないから」

「ではなく、なぜここにいらっしゃるのかとお訊きしている」

「責務を果たしに?」

 いや、なんでそこ疑問系なんですか、スゥさん。とアン少年は思ったが、一見剣呑なようでもあり平穏なようでもある奇妙な会話の間に、キャロンを突き飛ばすような勢いで部屋に入って来たベラフォンヌの鬼気迫る形相に怯んで、言葉にならないまま終わった。

「これはこれは若様。ご機嫌麗しく何よりで…」

「ベラ叔母様。ぼくより先にルー・ダイ卿にご挨拶差し上げるべきでは?」

 ベラフォンヌ・ヒス・ゴッヘル。スーシェの父であるアーセン・ゴッヘル卿の実の妹で、結婚と同時にゴッヘル家から分かれてヒス・ゴッヘル家を立ち上げた彼女は、貴族の女性たちが集まる「お茶会」中枢メンバーの一人であり、アリスなど女性の自立と労働する権利を主張する若い者たちを「我侭を振り翳す何も知らない小娘ども」と口汚く罵る、極保守派だった。

 冷たく指摘されて一瞬スーシェを睨んだものの、ベラフォンヌはその年齢に見合わぬ艶やかな顔に柔らかな笑みを浮かべて、肘掛椅子の前に突っ立ったまま呆然としているレバロに顔を向け直した。空々しく交わされる挨拶。有頂天なのはセリスとベラフォンヌだけで、レバロ、ミリエッタ、メリル、とドアの横で待機しているソマスまでもが、何か言いたそうな、でも言い出せないような顔でセリスの笑顔を眺めている。

 セリスがキャロンとベラフォンヌにソファを勧めるのをぼんやり見つつ、アンは思う。

 別に、保守的なのが全部悪いとは言わない。事実と摺り合わせて積み重ねられて来たのだろう「習慣」を否定するつもりはない。良いものは続ければいい。ただ、その時その時の時世にそぐわぬものは書き換え、切り捨て、改善しなければならないとも思う。

 それから。

 無責任な第三者の押し付けには、断固抵抗すべきだとも。

 こんな事を言ったのは、アリスだっただろうか。

           

          

「ヒス・ゴッヘル家って、キャロン? 特に親しい訳じゃないけど、話した事くらいはあるわよ。時たま物凄く無茶苦茶な事言い出すらしいけど、言動に実力が伴ってるって意味で悪くはないって噂。

 ただ、ベラ婦人はダメね。

 貴族社会の安定を図るためなら、女性と魔導師は一個人なんか殺して当然、みたいに平気で言う人。

 正直、そういうタイプを一番嫌うのは、ウォルだわ」

           

          

 それでもまだ、都市を継続させるためなら、くらい言ってくれれば、納得は行かないが考える余地もある。しかしベラフォンヌが持ち出すのは、いつも「貴族社会」だけだと赤い髪の美女は笑って言う。

 貴族が正しい序列を持っていれば、王都民は着いて来るのだそうだ、ベラフォンヌの言い分を借りればだが。だから彼女としては、衛視に昇格したアン・ルー・ダイ魔導師に由緒正しいゴッヘル家直系のヒス・ゴッヘル家から細君を迎えれば、王都民全てが祝福してくれるのだと。

 アンにも、アリスの言いたい事はすぐ判った。

 貴族社会の慶事など、庶民は気にも掛けない。誰が誰と結婚しようがなんだろうが、日常に変化はない。噂くらいはするだろうが、所詮それは噂話にしかならないのだ。

 どうせそれは、頭上の別世界で繰り広げられる茶番。

 談笑するセリスとベラフォンヌの顔を眺めつつ、アンは小さく笑った。

 茶番。確かに、そうかもしれないな、と。

「わたくし、今日はアン様に色々お尋ねしたいと思っておりましたのよ?」

 どうやらスーシェは徹底的に無視する事に決めたのだろうベラフォンヌが、勧められたソファに腰を落ち着けてから改めてアンに顔を向けて来た。

「ぼく、ですか?」

 唐突に話題を振られて顔を上げたアンが、ベラフォンヌの傍らに座し、じっと少年を見ているあの明るい空色の双眸から注がれる奇妙な視線に気付いて、内心首を傾げる。

「ええ。衛視の方が城内でどういった職務にお就きなのか、とても興味がありまして」

 笑顔のベラフォンヌ。

 笑わないキャロン。

「どういったと言われても…」

 まさか気軽に話せる訳もなく、アンは当惑気味にセリスの顔を窺った。

 笑顔のセリス。

 笑わないメリル。

 異様な空気が、室内を威圧する。

「…雑務です。自分でも何をしているのか判らないような」

 苦笑交じりに答えてみれば、案の定、ベラフォンヌは驚いたように「まぁ!」と声を上げた。

「ご自分のお仕事がお分かりにならないので?」

 本気で驚いているのだろう、見開かれた薄紫の双眸に益々弱った笑みを向けたアンが、口篭る。

 まさかここで特務室の職務内容など、明日の天気か今日の食卓に上る食材の話みたいに気安く出来る訳がない。先日はちょっとしたミス? で都市が墜落しそうになったんですよとか、あなた方の知らない色んな事が今も水面下で続いていて、明日にも王家転覆の危機が来るかもしれませんとは、普通言わないだろう。

 本気で困った。

「申し訳ありません、ベラフォンヌ婦人。この通り愚弟は…ミラキ卿やガリュー魔導師の「ついで」で特務室に取り立てて頂けただけでして」

 こちらも本気で弱っているらしい表情でセリスが言い訳するなり、スーシェの細い眉がゆっくりと吊り上る。待ってください落ち着いてください今すぐどうにかしますからお願いですから何もしないで下さい! と内心悲鳴を上げつつ傍らの白皙を速攻で見つめたアンの行動の早さに、それまで無表情を保っていたキャロンの唇が微かに歪んだ。

 彼女は、見た通り健やかで愛らしい少年だとアンの事を聞いていた。ただし、あの電脳班でそれなりにやっているのだから、実は相当手強いとも、言われていたが。

 ある人物に。

          

        

「結婚するらしい」

「誰がだ」

「わたしが」

「へぇ。誰と」

「ルー・ダイ家の三男坊と」

 刹那、爆笑。気を悪くする暇もなく、きっぱりと一言。

「辞めておけ。お前じゃ歯が立たない」

「どう、歯が立たない?」

          

「会えば判る。あのコは、防御もなしの正攻法で一本勝ちするタイプだ」

            

           

 そう言われて、「あの友人」がそんな風に誰かを評価するのはとても珍しい事だったので、興味半分…謀(はかりごと)半分でベラフォンヌの言う通りここまで来てみたものの、果たしてどうなるのか、とキャロンは、アンではなくその隣に陣取ったスーシェの横顔を見て思った。

「…母上」

 そして、身内としての義務は果たそうとも。

「余計な事をおっしゃるな。特務室といえば陛下直属の機関、衛視の方には厳しい情報の制約もあると聞く。例えアン様が責任ある職務に就いておられようと、それを部外者であるわたしどもに聞かせていい訳はない」

 スーシェの白皙を捉えていた視線が、ゆっくりと旋回する。

「母上が若様を無視するのは勝手だ。しかしながら、ルー・ダイ家のリビングに危害を加えるような発言は自重して頂きたい」

 何がどうとまでは言わないが含み満載の台詞にベラフォンヌが細い眉を寄せて不満を表し、ゴッヘル邸リビングを襲った不運を知らないのだろうルー・ダイ家の面々は顔を見合わせ、アンとスーシェは苦笑を漏らした。

「余計な合いの手なしでアン様とお話したいと思うのだが」

 一度はベラフォンヌに据えた空色の瞳を笑みの形に眇めたキャロンが、言いながら再度ゆっくりアンに視線を戻す。その動きと発散する気配に少年は、なぜか、慣れた緊張を感じて首を捻った。

 これは、人払いを申し出ているのではなく、黙って聞いていろという空気。電脳班や特務室でよく感じる。

「ぼくは構いませんよ?」

 だからだろうか。見知った緊張に臆する理由なく、アンはにこりと微笑んでキャロンを見つめ返した。

 特別美人ではない。しかしキャロンは、人目を引く華やかな印象の女性(ひと)だった。顔立ちもぱっとしていて、何より、その明るい空色の双眸には太陽がある。

 目に力のある人。か。

「官舎にお住まいと聞いた。屋敷もそう遠くはないだろうに、なぜ、未だ官舎に?」

 そして、妙に聞きなれた、このぶっきらぼうな口調。

「登城が不規則なので、屋敷よりもお城の敷地にある官舎の方が便利なんです。今は丁度待機続きでなんとか予定通りの休暇を貰ってますけど、普段は、予定なんてあってないようなものなので」

 なんとなく、嫌な予感がした。

「不便ではない?」

「一般官舎と違ってぼくらの住む特別官舎には食堂もありますし、日用品も管理人さんに頼んでおけば取り寄せてくれますから、仕事は大変でも、官舎の居心地は逆にいいくらいです」

「それでも屋敷に居た頃と違って、自分の面倒は自分でみなければならないだろう」

 重ねて問われ、アンはちょっと考えてしまった。

「……それの何がおかしいんでしょう」

「…………」

「自分の面倒を見るのは、当たり前だと思います。結構、お掃除したりお洗濯したり食事の支度したりするのって、楽しいですよ。やってる間は、余計な事考えなくてもいいですし。気分転換? になります」

 言って、少年は微笑む。

「…。あなたはきっとよいお嫁さんになるな」

「……………。はぁ…」

 多分本気なのだろう真面目腐った顔で言われて、アンはきょとんと大きな水色の目を見開いた。

 というか、何かおかしくないか? この会話…。

「もうひとついいかな」

「どうぞ…」

 何やら不穏な空気が漂って来たなと思いつつ、アンはこくりと頷いた。その時、思わず見てしまったベラフォンヌの渋い顔とセリスの唖然とした表情が、気になって仕方なかったが。

「ルー・ダイ家とヒス・ゴッヘル家が姻戚関係を持ったとして、得をするのは誰だろう」

 そこでキャロンはなぜか、にこりとアンに笑いかけたのだ。

「…申し訳ないのですが…」

 その笑顔に、アンが苦笑を返す。

「キャロン様とぼくではないと思います」

 少年のきっぱりした答えに、リビングの気温は一気に零下まで下がった。

「そう。よかった。わたしもそう思う」

「キャロン!」

「アン!」

 椅子を蹴倒さんばかりの勢いで立ち上がったベラフォンヌとセリスを、キャロンが鋭い視線で射竦める。

「結婚するのは母でもなければあなたでもなく、わたしとアン様だ。よってお二人には、黙って最後までお聴き願いたい」

 来た…。とその瞬間、アンは祈るような気持ちで天井を仰いだ。

 アン少年の人生における鬼門キャラか? 最早こういう知り合いはいらないと本気で思う。というか、全くの余談なのだが、どうしてスーシェがあの銀色と難なく打ち解けたのか、判った気がした。古くからこういう女性を知っていたのであれば、見た目通り偉そうでなんでもずけずけ言う銀色など、気に触りもしないだろう。

 何せ、蝶よ花よと育てられた女性がこんな具合でモノを言うのに比べれば、普通に見える。

 そこでアン少年はようやく気付いた。

「…スゥさん…」

「なんだい、アンくん」

 天井に向けていた視線を水平に戻し、顔を真っ赤にしているセリスから逸らして傍らのスーシェに向けてから、少年は尋ねた。

「こうなるって、知ってたんですか」

「そうだね。到達点(ゴール)はどこであれ、荒れる可能性は限りなく100に近いだろうというのが、ぼくの予想かな」

 足を組んでソファにふんぞり返ったままのスーシェが、薄い笑みを絶やさず言う。彼は本当に、何かをするためにここに来たのではなく、ただ、キャロンが「何をしでかそうというのか」確かめに来たのだ。

「…それにね、メリル事務官の行動にも報いたいと思ったからだ、アンくん」

 スーシェの呟きに、室内の目が強張った表情のメリルへ向けられる。

「もしこの婚姻をアンくんが望んでいないのなら、例えば兄に殴られてでも自分が止めるんだって、メリル事務官はぼくに言ったよ」

 思惑は、錯綜している。

 膠着も出来ず、ずるずると流される。

 最早レバロとミリエッタは固く口を閉ざし。

 憤激を爆発させそうな顔で室内を睨むのは、ベラフォンヌとセリス。

 スーシェは悪意のある傍観者。

 次の発言は。

「兄上」

 メリルの番だった。

「あなたは、…間違っています」

 一度何かを思い悩むように俯いたメリルは、消え入りそうな声でそう呟くなり、椅子から腰を上げた。

「アンは、あなたの期待以上に…本当の魔導師だったんです」

「だからなんだ? それならいいじゃないか。それとこれとどう関係があるという? メリル!」

「何も知らないあなたの描いた小さな枠の中でアンを潰すなと言ってるんです! アンは…!」

 正しく理解を。

 正当な扱いを。

 アン少年は、反射的にキャロンの呆れ顔を見上げた。

「話を元に戻しませんか? キャロン様」

「いい考えだ。外野にこれ以上熱を上げられては困る」

「それじゃぁ、ぼくからもひとつ質問をいいですか?」

 どうぞ。と短く促され、アンがぺこりと会釈する。

 色の薄い金髪と、大きな水色の瞳。いつまで経っても少年のように健やかで弱々しく見えるが、彼は。

 王下特務衛視団電脳班所属の魔導師なのだ。

「あなたにとって、一番大切なものはなんですか」

 問い。その問いに室内は緊張し、キャロンが…吹き出す。

「飾らず率直に言わせて貰えば」

「はい、それで構いません」

 女性らしい身体を包む深緑色のドレス。金とも銀ともつかない色の薄い、光沢のある髪。美人ではないが魅力的だと思う笑顔。大柄と言って差し支えない…筋肉質な四肢に、ぴんと伸びた背筋。

「自分だな」

 上等なソファにゆったり座したままきっぱりと言われて、アンはくすりと笑った。

 唖然とする、室内は。

「ぼくもです」

 刹那で、またもや凍りつく。

「ぼく、好きな人が居るんです。だから、今回のお話は、お断りします」

  

   
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