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番外編-7- ステールメイト

   
         
(18)三日目 11:27

     

 スーシェは、もしかして自分は物凄くバカなのではないだろうかと思った。

 ヒントはあったはずだ。デリラが言った。

 アンがこの婚姻についてどう思っているのか、誰も知らないと。

 知らないから、周囲の人間たちは勝手に自分の思い通り、または自分の予測通りにアンが兄の言いなりになると考えた。

 自分を中心に置き、自分の視点で周囲を鑑み、当事者であるアンとキャロンの心積もりなどまったく考慮しないで、だ。

 そして今回、アンもキャロンもまた、同じく周囲の事情など無視して自分だけを中心に据えた答えを返そうとした。

 結果。

「…ねぇアンくん…、ミナミさんに連絡して来て貰ってもいいかな…」

「なんでですか?」

 最早膠着どころか全ての行動不能に陥った室内の、固い空気など全く読んでいないのだろう少年が、きょとんとした表情で傍らのスーシェを振り向く。

「何かこう、滅茶苦茶自由奔放に突っ込んで欲しい気分なんだ」

 表情の死んだスーシェに睨まれて、少年は、びくりと肩を震わせた。

「その前にぼくの話を最後まで聞いてください!」

「それ、誰に言ってるの?」

「みなさんにです!」

「それはいい。是非わたしも聞きたい」

 アンにとっては助け舟になるだろう台詞をさらりと言って退けたのは、他でもないキャロンだった。不快というより愉快といった表情でにやにやしながら…普段ならベラフォンヌにはしたないと言われるのだろうが、彼女には今そんな余裕はない…少年の困った表情を見つめて小首を傾げる。

「…ですから、単純な話なんですけど、ぼくには、好きな人が…居るんですよ。

 それで、なんで今回のお話を断るのかと言われても、理由は明白なんですから、どうして判らないんですかと答えるしかないんですが…。

 色々考えて、一応ぼくなりに悩んだりもして、結局ですね、これは…その…キャロン様に失礼なんじゃないかって思ったんです。

 ルー・ダイ家とヒス・ゴッヘル家の事情も、判らないではないです。ようやくちゃんとした…かどうかは怪しいですけど…魔導師が出て安心してるだろう兄上だとか、魔導師系貴族として大勢したいベラフォンヌ婦人の思惑も、判ります。でも、先ほどキャロン様も仰られた通り、結婚するのはぼくらであって、家名ではないんです。

 だからぼくはぼくの事を考えて、それで、このままではキャロン様に失礼だと思ったので、今回のお話はお断りすべきだって、結論を…」

「そんな一方的な我侭、許されると思っているのですか!」

 俄かに脳に血が行き渡ったのだろうベラフォンヌが金切り声を上げた途端、キャロンが無表情に母親を見上げる。

「母よ。今は反論する時ではない」

 だから座れとキャロンに腕を掴まれたベラフォンヌがソファの座面に引っ張り込まれたのを見届けて、アンは息を吸い込んだ。

「兄上の言う通り、ぼくは幸運でした。

 強くなれないと言われたんです、魔導師隊への編成を申し出た時。それでもいいから入隊させて欲しいって、ガリュー班長にお願いしました。普通なら、足手まといだからと断られても文句は言えなかったのに、班長はぼくの編入を許可してくださいました。

 それから色々ありました、本当に…。一度は隊の解散を噂されたりもしました。ぼくも、そうなってしまうかもと…思ってました。

 もしそうなっても、ぼくは後悔しなかったでしょうけどね」

 やるだけやった。失くすのは階級であり職だったかもしれないが、人として一番大事なものを守ろうとしたのは間違いなかったし、もしあの時…当時の第七小隊が解体されても、少年は変わらず彼らと付き合っていけただろう。

「ぼくには、ガリュー班長とミラキ副長、アリスさんやデリ…無茶苦茶言うし平気で意地悪するけど、絶対にぼくを「見誤らない」仲間がいたんです。だからぼくはぼくでいられたし、彼らのためならどんな無茶も出来ました。

 でも、そんな幸運は二度続かないんです。

 その幸運は後にも先にも「ぼく」だけのもので、ぼくと一緒に終わってしまうんです。

 兄上やベラフォンヌ婦人が密かに期待するように…これはぼくの予想ですけど…、ぼくが衛視だった事実は残っても、この先、ぼくの家族や、例えばぼくの子供が、「ぼく」と同じに扱われたり見られたりする事は、絶対にないんですよ」

 絶対に。

「…ぼくの子供が魔導師だったとしても、それは「アン・ルー・ダイ」ではなく、別の魔導師として評価されるだけです」

 言い足して、ふとアン少年は弱ったように笑った。

「評価なんて、誰もしてくれませんけどね、魔導師の方は。能力は絶対値です。私情も人情もなく、事実です。結果を望むならまず行動するのが当然で、行動した事実は認識されるだけです」

 そこに在る人を。

「正しく、受け取って貰えるだけです」

 人を人としてその人で在り様に。

「母やセリス氏の密かに期待する優遇など、望むべきではないと?」

「魔導師がああもあけすけにお互いを罵ったりからかったりしても大した軋轢が生まれないのは、なぜだと思いますか? キャロン様」

 いや、軋轢のようなものが全くないとは言わないが、アンはあえてそこまで話さなかったのは、今、それが必要ないからか。

「歴然たる能力の差?」

 ふむ。と考えるような素振りで唇に指を当てたキャロンに頷いて見せたのは、アンではなくスーシェだった。

「いい例がここに居るじゃないか。

 ぼくはまるっきり自分勝手な事をして魔導師を辞めたのに、やっぱり戻ると言ったらあっさり小隊長の席を用意して貰えた。そこに据わるべき能力がぼくにはあったからね」

 複雑な事情も内心の葛藤もまるでなかったかのように、スーシェがさらりと言う。

「はじめから判ってるんですよ、みんな。出来る事、出来ない事。敵う人、敵わない人。この才能だけは、努力ではどうしようもない。

 スゥさんの場合も、その能力値がもっと低ければ騒ぎになってたと思いますしね」

 しかし、スーシェには彼の「スペクター」が居た。不可視の魔導機。臨界の使者は、タマリの「アゲハ」を得て他の小隊の魔導機たちを凌駕する存在になる。

「……それでもせめて、ぼくがキャロン様を幸せにして差し上げられればいいのかもしれません。

 でも。ぼくには…きっとそれも出来ないだろうから…」

 家名を殺ぎ落とし、魔導師である事をいっとき忘れて、アンが出した答えは。

 本当に申し訳なさそうな表情で俯いた少年の睫の先端で、天蓋越しの白い光が踊る。

 好きな人が居る。

 それだけだ。

 キャロンは、可笑しくて可笑しくて笑いそうになった。

「稚拙な理由だ。だからこそ誰がそれに文句を言えよう。会った事もなければ言葉を交わした事もない五つも年嵩で筋肉質でバカでかい女と、理解ある「好きな人」を量にかけて出たまっとうな答えに、どうして反論出来るのか」

 それ、自分で言うな。とミナミが居たら突っ込むに違いない事柄を言って退けたキャロンが、口の端を飾っていた笑みを消し、茫然自失のベラフォンヌに向き直る。

「母よ。あなたは失敗した。アン様の言葉を借りるなら、あなたは見誤った。大した名声もないルー・ダイ家なら、ヒス・ゴッヘル家との姻戚関係を手放しで喜ぶかもしれないとか、気の弱そうな三男坊なら黙って婚姻を承諾するだろうとか、あなたは恥ずかしくもなくわたしに言ったが、残念ながら、全くの見当違いだった」

 多少の覚悟はしていたが、そんな酷い事まで言ってたのか、とスーシェが呆れて溜め息を漏らす。

「ルー・ダイ卿、叔母様の失言につきましては、わたしから謝罪させて頂きます。それで、どうでしょう…このお話は、キャロンとアンくん双方の和議によって解消…」

「いいえ、それは許しません! それだけは、わたくしが絶対に認めません!」

 元より結婚の意志などなかったらしいキャロンに目配せされてスーシェが言いかけた時、娘にしっかり掴まれていた腕を振り払ってソファから立ち上がったベラフォンヌが、またもヒステリックに叫んだ。

「好きな人が居るなどと子供みたいな理由で貴族社会改変と発展を妨げようとは、なんたる事ですか! たかが「幸運」ごときで衛視に取り立てられただけだと言いながら、随分と生意気を仰いますのね。

 セリス様?

 この婚約をアン様は喜んでいらっしゃったのではありませんでしたか? あなたは、わたくしを謀ったのですか? そうであれば、こちらにも考えがございます。

 わたくしは、ルー・ダイ家の婚約不履行を陛下に直訴も厭わぬ覚悟ですのよ!」

 ベラフォンヌの出した「陛下」という言葉に、室内の反応は様々だった。

 多分本気で言っているのだろうベラフォンヌは眉を吊り上げて室内を睥睨し、キャロンが大仰に肩を竦め溜め息を吐く。脅されたセリスは蒼くなり、レバロは肘掛椅子の中で小さくなり、メリルは蒼いのを通り越して白くなった顔を強張らせた。

「…ベラ叔母様」

 さすがにここで黙っていては問題が際限なく大きくなると思ったのか、スーシェが冷たい声でベラフォンヌの気を引く。

 呼ばれて、彼女は射殺すような視線をスーシェに向けた。

「あなたは、本気でヒス・ゴッヘル家を王城エリアから追放させる気ですか」

 言いながら、さも呆れたように息を吐き、ゆっくりと首を横に振る、スーシェ。

 一個人を抹殺し、都市のためにと突き付けられた不当な扱いを嘆くでもなく甘受したのは、他でもない陛下自身だ。その陛下…ウォル…のために水面下で暗躍すると誓ったからこそ、スーシェにもアンにも判る。

 もしこの騒動が陛下直々の判断に委ねられたとしたら、糾弾されるのはベラフォンヌだろう。彼は、貴族社会の継続も魔導師の存在も、確かに、ある程度は必要だと言うに違いない。しかし、ここには理由がある。ベラフォンヌの言う子供みたいな理由が。

 そして彼、陛下はきっと、その子供みたいな理由をきっぱり言い切ったアンが、「たかが貴族社会」のために自分を押し殺して家族の言いなりになろうとする事こそ、許さないはずだ。

「お黙りなさい、スーシェ!」

「……。………」

 怒鳴り返されて、しかし尚も何かを言い募ろうとしたスーシェを止めたのは、それまでじっと室内を窺っていたキャロンの鋭い視線だった。

「母にひとつ尋ねたい」

 口を閉ざしたスーシェに会釈してから再度ベラフォンヌに向き直ったキャロンが、いかにも神妙な口調で続ける。

「ずっと訊きたいと思っていた。あなたは、わたしに何を期待している」

 簡潔な問い。

「ヒス・ゴッヘル家の繁栄に決まっているでしょう!」

「…それだけ?」

「それがあなたの幸せだからです」

 睨みあう親子の発する不穏な空気が、室内を冷やす。

「判った。それはいいとしよう。ではあなたの言う「ヒス・ゴッヘル家の繁栄イコールわたしの幸せ」とは、なんだ」

 まるで、今の今まで一度も確かめた事のない事実を突きつけられ、それに落胆したような顔で、キャロンは母を見つめた。

 憐れむように。

 まるで理解し合えないものを見るように。

「あなたには優秀な魔導師を儲け、ヒス・ゴッヘル家の地位を確立して貰いたいのよ、キャロン。魔導師系貴族として名立たるゴッヘル家はその未来を…くだらない自分勝手で棄て、ナイ・ゴッヘル家の跡取りは…ああでしょう? 貴族社会安定のためにゴッヘルの名前は…」

「母よ、わたしがもし魔導師を生んでも、それは「ゴッヘル」の名を継がない。ルー・ダイ家の嫡子になるのだろう? この場合は」

「事実という意味ですよ、キャロン。例え名前がルー・ダイ家のものであっても、ヒス・ゴッヘル家なくては優秀な魔導師がこの世に現れる事がないのですから」

 白く細い手でキャロンの手をしっかりと握り締め、ベラフォンヌは微笑んだ。

 しかしキャロンは。

「それも…いいとしよう、母よ…。

 では、もし、わたしの産んだ児が優秀な魔導師でなかったらどうする。そもそも、魔導師にさえなれなかったら、あなたは、わたしにも「この出来損ないめ」と言うのか」

 容赦しなかった。

「わたしは、それでも、幸せだと思うのか」

 ぎくりと肩を震わせたベラフォンヌの顔が、一瞬で蒼褪め、強張る。冷たく突き放した母に微笑みかけながらキャロンは、握り締められていた手をやんわりと振り解いた。

 アンは、黙ってその様子を見ていた。

 当惑する数多の気配など気にもかけず、ただ、縋るように手を伸ばしたベラフォンヌと、その手を遠ざけようとするキャロンを大きな水色の双眸で見つめ、膝の上に置いた拳を固く握る。

 今こそ、全てをクリアに。

 ベラフォンヌとキャロンの間に取り返しのつかない溝が生まれようとしている、この瞬間こそ、天使の与えた知識を駆使して。

 天使…ミナミは、「知っていた」からアンに告げたのだ。

 臨界という文字列の乱舞する世界を絶対支配する法則を。

 その臨界の理に則って在る魔導師をも絶対支配する法則を。

 今こそ振り翳せ。

 この「禁忌」が呼び込むものは、失意だけではないはずだ。

            

          

 室内が、固く冷たく、ただ凍りつくとしても。

          

         

「待ってください、キャロン様…」

 今まさにベラフォンヌからスーシェなのかアンなのかに顔を向けようとしたキャロンの、どこか疲れた横顔に言い放った少年が、ソファから立ち上がる。

「……、?」

「…アン様」

 重大な発言をしようというのだろうアンが深く息を吸い、言葉を紡ごうとした瞬間、それまでじっとドアの横に待機していたソマスが、当惑を滲ませた声で小さく少年を呼んだ。

「お話中大変申し訳ございませんが…、…アン様にお客様が…」

 なぜかしきりにドアを気にしつつ、ソマスがわざと室内の全員に聞こえるように言う。

「お客様?」

 少年は首を傾げて執事に問い返し、少し考えて、火急の用事でないのならお引取り願うようにと言いかけた、瞬間。

 ドアが、勝手に開く。

 そしてまた、瞬間。

 重苦しい空気に支配されていた室内を、硬質な重圧が睥睨した。

「…「予想通り」荒れてますねと言っていいんでしょうか? これは。ねぇ、アン?」

 その人は。

 漆黒の長上着の裾を綺麗に捌いて姿を見せたその…悪魔は。

「ガリュー班長…」

 アン少年が呆然と漏らした呟きに、「はい、なんですか?」と…、にこりともせずすっとぼけた答えを返した。

  

   
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