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番外編-7- ステールメイト

   
         
(26)三日目 20:29

     

 ヒュー・スレイサーが衛視に昇格する最陛下…ウォル…と交わした約束を覚えているならば、辞職を申し出た時の台詞は、ただの目眩ましか時間稼ぎだったのだろう。そもそも、ウォルは最初の一手目からヒューの策に嵌っていた。ただ衛視を辞めたいではなく、道場に戻るから辞めさせてくれ、的な発言を受けてウォルは即座にヒューとの「約束」を思い浮かべたし、実際、ミナミにも自身に非はないのに道場に戻るなんて許さない、と言ったではないか。

 だからそれは、「ヒュー」と「ウォル」との問題に見えはしないか? 真意はまた別な部分にあったとしても、ウォルは間違いなく「自分」をヒューの正面に据えて考えた。

「…だったら最悪。俺、人間不信になりそう…」

「これ以上不信になってどうする。疑ってかかるのはガリューくらいにしておけ」

「つか、ヒューもだよ…」

 ある意味ヒューの方が手に追えないっぽい、などと嘆息したミナミを、銀色が喉の奥で笑う。

 言葉数が多いのに核心が見当たらないのは、そういう風に振る舞っているからなのか、それとも性格なのか。後者だったとしたらなんてやり難いひとなんだとミナミは内心うんざりしたが、ここで退く訳にもいかない。

 解決するのだ、全てを。

 クリアにするのだ、全部を。

 天使は、しあわせを渇望している。

「俺はね」

 そこでミナミは、あの少年に習って、きっぱりと素直に切り出してみた。

「ヒューに辞めて欲しくねぇと思ってる」

「八割信用して光栄だと言っておく」

「残りの二割は?」

 広くてゆったりした背凭れに背中を預けたミナミが、無表情に首を傾げる。

「後の二割は、自分の日頃の行いの悪さのせいでとっとと辞めろと思われてる可能性を棄ててないってところか」

「自分で言うくれぇなら、生活態度改めろって」

 心底呆れたように突っ込んだミナミを、ヒューがまた笑う。

「それでも、俺はヒューに辞めて欲しくねぇよ」

 ミナミはその、ヒューの人を食ったような薄笑みをぼんやり見たままぽつりと呟いた。

「なんもいらねぇとか、なんも欲しくねぇとか…そういう風に言って貰いたくもねぇし」

 短い息を吐き俯いたミナミから視線を外したヒューが、笑うのをやめる。

「そうじゃねぇとさ、…結局これも俺の我侭なんだけど…、俺がどうしていいのか判んねぇよ。

 俺は…みんなしあわせだったらいいなって、そう思ってて、ミラキ卿みてぇにさ、なんでもかんでも首突っ込む気はねぇにしても、何か、さ? 返せたらいいなって」

 青年は、長い睫に縁取られた冷たいダークブルーを微かに眇めて、微笑んだ。

 ふわ。と。

「お前は、平気でそういう事を言って俺を困らせる」

「迷惑?」

「ああ、迷惑だな」

 突き放すような即答。しかしミナミは怯まなかった。

「違うだろ? ヒュー。

 ヒューはさ、間違ってるって、言われたくねぇんだよ」

 瞬間、逸れていたサファイヤ色の瞳が、ミナミの白い顔へと思った。

「俺は間違ってるか?」

「間違ってると、俺は思うけど?」

「そうか」

 溜め息のように答えたヒューの視線がまたミナミから逸れようとした刹那を狙って、青年は「ヒュー」と…無謀にも、銀色の懐に踏み込んだ。

 一手で完勝を信条にする男の決して浅くない懐に踏み込み、切り札を。

「ルー・ダイ家とヒス・ゴッヘル家の婚約関係は、両家の話し合いで今日正式に解消された。それに伴って、レバロ・ルー・ダイは三男のアン・ルー・ダイとの絶縁状にサインしたって、その場に立ち会ってたスゥさんから連絡あったんだよ、午後にさ。

 それでも、ヒューは自分が間違ってねぇって言う?」

 緊張しているのか、ミナミはそれを酷く硬い声でヒューに告げた。

 逸れかけたサファイヤがミナミのダークブルーに戻り、一度だけ、短く瞬きする。

 戸惑っているのではなくミナミの出方を待っているのだろう温度のない視線を正面から受けて、青年がこくりと頷く。

「嘘じゃねぇよ」

 呟くように言い置いて、ミナミは肘掛け椅子から腰を浮かせた。

「アンくんその時、好きな人が居るからって、婚約断ったらしいよ?」

 立ち上がり、ドアに向き直ってから思い出したように言い足したミナミの横顔を、身じろぎもせずに視線だけで追いかけているヒューの微妙に渋い表情を、青年が薄く笑う。

「……ヒューって、自分の事は苦手だよな」

「…放っておいてくれ…」

 ミナミにからかわれたヒューはそう吐き出して、仕方なく天井を見上げ嘆息した。

「うん。ちなみに俺は凄くいい上官だから、陛下に「この事」はいっこも言ってねぇ。ただ俺は陛下に、ヒューを辞めさせない、なんとかしろつわれただけで、俺も、んじゃぁなんかしてみるけど、結果がどう転ぶかは正直判んねぇって答えただけ」

 ヒューは天井を睨んだまま、またひとつ溜め息を吐いた。

「何が言いたい、ミナミ…」

「口止め料を要求中」

「お前それじゃ、強請りだろう」

「どっちでもいいけど」

 軽く肩を竦めたミナミの視線が旋回し、カウチに沈んだヒューのうんざり顔を捉える。

「…俺は、我侭にさ、みんなしあわせだったらいいなって、思うだけ。でも、無理だって判ってんだよ、ホントはさ。だからせめて、俺は…今日までがんばって来たアンくんにはしあわせになって欲しいなって、そう、思ったんだよ」

 だから。

「ヒューは生き恥だろうがなんだろうが勝手に晒せ。んで、ついでにちょっと反省とかもしろ」

「ミナミ………」

 さすがにそこまで言われて黙っているのもどうかと思ったのか、ヒューは本当に呆れたような顔で、天井に向けていた視線をミナミに戻した。

 青年は、軽く首を傾げるようにして微笑んでいた。

 柔らかく。

 柔らかく。

 全て、許すように。

「ヒューに辞められると俺、迷惑かけていいひと居なくなって、すっげー困るし」

「それこそ勝手に困ってろ」

「道場? って居住区の外れにあんだよな? 結構遠いじゃん。やっぱダメだ、ヒュー。八つ当たりしに行けねぇ、俺」

「じゃぁ来るな」

「つうか冷てくね? いつもより」

「喧しい…」

「あ、そっか。もしかして今がチャンス? 俺! 俺さ、一回でいいからあの、マーリィとかアリスとかみてぇに、「ここに正座なさい!」つの、やってみたかったんだよな」

「勘弁してくれ、ミナミ…。それはもう散々レジーにやられたよ、昔な」

「つか、レジーナさんもやったのに俺だけダメなんて不公平だ!」

「そういう問題じゃないだろう、ミナミ!」

 余程機嫌がいいのか、違うのか、一度は退室する素振りを見せたはずのミナミが再度肘掛け椅子に腰を落ち着け、ひっきりなしにヒューをからかう。

 それで結局ふたりは三日分、まるで喧嘩した後の兄弟みたいにじゃれ合い、ミナミに「三十分経ったら来てくれ」と言われていたウォルが私邸私室に現れた時には、なぜか、肘掛け椅子に手足を縮めて収まったミナミがカウチにあったはずのクッションに埋もれたままにやにやしていて、反対に、カウチに座ったヒューは額に手を当てげんなりと肩を落としていた。

「………あまり尋ねたくないんだけど、アイリー?」

「なに?」

 その様子をゆっくりと眺めた後、開け放ったドアの前に佇んだままだったウォルがやや沈んだ声で呟き、ミナミが首だけを回して彼の白皙に視線を投げる。

「楽しそうだな、貴様ら」

「…………。ほどほど…」

 無表情に答えるミナミの横顔を見ながら、ヒューは奥歯で苦笑を噛み殺した。

 絶対叱られるに違いないと思う。まぁ、原因は様々だろうが。

「この三十分、僕がどういった気持ちで居たか知りたいか? スレイサー」

「またの機会があれば」

 ミナミに据わっていた突き刺すような視線が水平に動き、頬を引き攣らせる銀色の頭上で停まる。

「遠慮するな、お前らしくない。

 とりあえず、だ…」

 言いながらウォルはドアを踵で蹴飛ばして閉め、白く滑らかな繊手を肩まで差し上げると、桜色の爪を蓄えた美しい人差し指で出窓の下をびしりと指差した。

「そこに揃って正座しろ、貴様ら! ひとの気も知らないで部下が愉快にふざけてるなんて、我侭で申し訳ないが非常に許せないぞ!」

 瞬間ミナミは、「…先に言われた…」と、本気で残念そうな顔をした。

        

         

「理由は尋ねるなとアイリーに言われた。そうすれば、きっとお前は譲歩するためのテーブルに着くだろうってね。

 言い方はさて置き、だ。

 お前もお前ならアイリーもアイリーだぞ? 全く…。

 どこの世に、「僕」相手に三日もごねてその理由を不問にしろなんて言う部下が居る」

 本気でうんざりしているのだろうウォルがミナミを追い出した後の肘掛け椅子に腰を落ち着け、追い出されたミナミは仕方がないので勝手にキッチンへ向かい、お茶の支度を運んで来る事にした。

 ミナミ不在の際、ウォルはとにかく不愉快そうに眉を寄せて懇々と…ヒューとミナミがふざけていた事を咎めたが、本題だろう、ヒューの進退問題には一切触れようとしなかった。それが果たしてミナミと相談の上なのか、違うのか、彼の青年の無表情とは違う、くるくるとめまぐるしく表情の変わるウォルはまた別の意味で、内面が表に出難い。

 ミナミがキッチンからワゴンを押してウォルの私室に戻った時、冷然と怒っているらしい国王陛下は肘掛け椅子の中で偉そうにふんぞり返り、ひたすらヒューの生活態度? を咎め立てている真っ最中だった。その、最早八つ当たりとしか思えない小言があまりにも可笑しくて、壁際に置いたワゴンに向き直ったままお茶の支度をするミナミが、つい、吹き出す。

「…笑うな、アイリー」

「いや、それは笑うだろ、普通。だってさ、ヒューに一般市民的日常生活を期待するなんて、特務室じゃぜってー誰もやらねぇし」

「常からそういう扱いのスレイサーこそ、どうかしてると笑うべきだろう? と僕は思うけど」

 テーブルに置いた茶器からミナミの手が離れて、それから、ウォルの細い指がソーサーを取り上げる。

 どちらも普段より緊張感のない…元よりあるとは言えないのだが…口調で言い合うウォルとミナミを眺めるヒューの口元が、知らず微かに綻んだ。まるで普通の、いかにも仲の良い友人同士の飾らない会話。それを楽しんでいるいないに関わらず、ふたりの纏う空気は常よりずっと和らいでいると思う。

 一通りお茶の支度を終えると、ミナミはヒューをカウチの端に寄せて自分もそこに腰を下ろした。それがルール。この青年と付き合おうとするなら、絶対に犯してはいけない領域。その領域に立ち入っていいのは、後にも先にも、あの鋼色だけか。

 そして、据わる場所にそれぞれが据わり、ウォルがカップに寄せていた唇を離して、ひたと正面の銀色を…睨んだ。

「スレイサー、正直言うなら、僕はお前の行動を大いに不愉快だと思っているし、咎めたい気持ちも、問い質したい気持ちもある。でも、アイリーはそれを許さない。判るか? 何も訊いてくれるなではなく、アイリーはこの僕に、訊く事は許さないと言った。

 そして僕には、僕の不愉快をお前にぶつけるよりも大切な事がある」

 ウォルは、そこで俄かに「陛下」の顔に戻り細い眉を微かに吊り上げると、手にしていたカップをテーブルに戻して一息吐き、それから細い指を身体の前で組んだ。

「だから僕は何も訊かない。訊かないが、お前の言い分も、聞かない」

 真摯な顔付きで身勝手を言う陛下を、ヒューは黙って見つめ返した。

「一年だ、スレイサー。来年度の貴族院大議会召集時、ルニは正式にファイランの女王として指名され、都市の運行を任される。だからといってすぐに全てがルニの手に渡る訳じゃない。今よりも学ぶ事、知る事、考える事も、…大人になる事も必要だ」

 この世の全てを。

 守るものの全てを。

 例えそれが醜悪であったとしても全てを。

 少女は、目撃しなければならないだろう。

「それまで、残り、一年」

 陛下は超然とした表情を崩さず、確かめるように呟いた。

「一年の間にお前には、女王陛下専属の護衛班を組織し、訓練を終え、ルニの即位と同時に特務室とは全く別の組織の長になって貰う。その時、その新組織に関する全ての決定権、選出権、責任は、お前一人にあると思え」

 ウォルの脅迫にも似た声音と厳しい表情にも、ヒューは眉ひとつ動かさなかった。

 ルニ専属の護衛班を組織するのも、その組織自体に「責任」を持てといわれるのも、ヒューにしてみればさしたる問題ではない。単純な言い方をすれば、女王陛下を護るために最善を尽くせ、自由にやってもいい。という事であり、自由にやっていいからには、何か問題が起こった場合はその責任を全部取らせるぞ、当たり前だけど。という事でもある。

 ヒューの傍らに大人しくしているようにしてその実、ミナミはウォルの発言に突っ込みたくてうずうずしていた。判っていたのだから見逃せばいいのかもしれないが、良くも悪くもこの青年にそんな真似が出来る訳もなく、つい、ぽつりと…漏らしてしまう。

「つうか、我侭っぷりじゃどっちもどっちじゃね?」

 言った途端に、ウォルとヒューがミナミを振り向く。

「…いや、ほら、俺のは独り言だから、独り言」

 無表情ながら慌てて顔の前で手を左右に振った青年がぷいとそっぽを向き、ハス向かいで呆れた顔をした陛下が溜め息を吐いた。

「随分大きい独り言だな、アイリー。…スレイサーの返答次第では、監督不行き届きでお前にも責任取らせるぞ」

 ひやりとした声で告げられて、思わず肩を竦める、ミナミ。

 その短い遣り取りの間も、ヒューは黙っていた。

 信用されないよりはされた方がいい。当然だ。しかしヒューは、果たして自分がその、陛下の「信用」に値するのかどうか判らなかった。

 失敗したから、ではない。

 そうではない。

 本当は。真実(ほんとう)。いつでもそれは自分の中にあり、周囲に悟られるかどうかは、周囲に「悟らせるかどうか」で決まる。

          

 世界は、真円。

           

 ミナミに向いていたウォルの視線がゆっくりとヒューの頭上に戻る。黒い瞳から注がれる、探るでもなく促すでもない平坦なそれに銀色は、彼ら衛視の常であるよう軽く会釈すると、静かに短く言い置いた。

          

        

「仰せのままに」

  

   
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