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番外編-7- ステールメイト

   
         
(25)三日目 20:00

     

 理路整然と美しい言い訳を必要としている。

 だがしかし。

 この世には、「美しい言い訳」などという奇跡みたいなものは、存在していなかった。

          

          

 この退屈は拷問だなとその時、ヒュー・スレイサーは人知れず溜め息を漏らし、思った。あれから…思い付きのような唐突さで陛下に謁見を申し出て、既に三日目。理由も明かさずに特務室からの除名を求めた銀色に陛下は、自分にも判るようにその理由を説明し納得させるか、辞意を撤回するまでここを動く事は許さないと言った。

 ここ。

 上級居住区ファイラン家私邸、陛下私室の応接間。

 そこは決して広い部屋ではなかった。囲む縁に壮麗な装飾を施した背の低いテーブルを挟んだ、背凭れの高い、これもまた美しいレリーフで飾られた肘掛け椅子が二客と、柔らかなクッションを敷き詰めたカウチ。壁際に置かれた小さなサイドボードには、ヒューの知るウォルの好みと若干違う上等な蒸留酒、深緑のラベルが貼られた金色の茶葉の缶とコーヒー豆を収めた広口のガラス瓶が収めてあったが、なぜなのか、カップやグラスはひとつも見当たらなかった。

 何もせず、身じろぎすら厭い彫像のように動かないままそれらを目にして、銀色は内心嘆息したものだ。

 最早「それ」さえ想い出なのか。二度と手を付ける事のない調度品たち。サイドボードの、綺麗に空いた二段目の棚にはきっと、用意された蒸留酒やお茶を楽しむための器が最低ふたつずつ揃って置かれていたのだろう。

 サイドボードに向けていた、微かに銀色の光りが散るサファイヤ色の双眸をゆっくりと動かしてヒューは、ただ暗く翳った出窓の外へ視線を転じた。

 空いたサイドボードの棚を見て、思う。それは拒絶か、それとも諦めなのか。このまま開けられる事もなくいつか茶葉とコーヒーは傷み、蒸留酒の封は永久に切られない。

 もしもヒューが「同じだ」と素っ気無く言えば、ウォルは納得するだろうか。使われないカップを眺めるのに倦んだ時、果たして彼は何を想ったのか。

 同じ。………。

 ふと、それではウォルに失礼な気がして、ヒューは薄い唇を苦笑の形に歪めた。

 同じではない。ウォルは義務を果たそうとしただけだ。相手を思い遣り、周囲を思い遣り、何も言わず、「自分」を斬り捨てた。

 しかし、ヒューは違う。彼の中で「自分」は、煩わしいシステムから目を逸らした、ただの卑怯者でしかない。

 何もかも中途半端に。

 強行しただけだ。

 だから、この程度の拷問には耐えなければならないだろう。いつまで続くのか見当は付かないけれど。

 あれから三日。始めの日に会見した直後にここへ押し込められ、それからウォルは一度だけ顔を見せた。御方はその時一言辞めさせないと告げ、すぐに消えた。華奢な背中。

「外」の事態がどうなっているのか、ヒューには全く判らないままだった。今更、勝手に放り出して来たあれこれに口を出す気は毛頭ないが、ひとつだけ、引っかかるものはある。

 あの少年は、どうしただろう。

 それも今更かと、ヒューはガラスに映った自分の顔を見つめて思う。どうせ、なるようにしかならない。そしてこの銀色は……。

 退屈だな、と、再度短い息を吐いたヒューが正面に顔を向け直した途端、カウチの左手にあるドアがノックもなしに開く。それが余りにも唐突で、しかも近付く気配もなかったのに、思わず眉間に皺を寄せた銀色が開け放たれたそれを振り向いた。

「なんだ、結構元気そうじゃん。残念」

 出た。と、ヒューは思った。

「元気そうなのがそんなに不満か? ミナミ」

「退屈で腐り死んでくれてたら扱い易そうだなと思っただけ」

 いつもの軽い突っ込みではなく、明らかに棘を含んだ台詞で切り返しつつ入室して来たミナミは、相変わらずの無表情ながら不機嫌そうに見えた。すぐに原因らしい原因は思い浮かばなかったが、自分の全てがこの天使の機嫌を傾けるのには十分だったと考えを改めたヒューが、薄く笑い肩を竦める。

 勤務中なのだろうミナミは、漆黒の長上着を真紅のベルトで飾った特務室の制服姿で現れた。しかしよく見てみれば、左腕に掲げられているはずの腕章がない。

「帰りか?」

「うん。一身上の都合により早退。ところが俺は無駄に忙しくてさ、まずここでヒューにこってり説教くれてから、屋敷戻ってあの人と喧嘩する予定」

 つかつかとテーブルに歩み寄って来たミナミは、無表情にヒューを睨んだまま真向かいの肘掛け椅子に身体を投げ出した。その時、あのダークブルーに皓々とした暗い光を見た銀色が、思わず口の端を吊り上げる。

「そりゃぁ大変だな」

「ヒューのせいだろ」

「ガリューの分は知らないが?」

「結果的に全部ヒューのせいなの」

「そうか」

 端から喧嘩腰のミナミに言い捨てられ、ヒューは一度俯き、仕方ない息を吐いてから顔を上げ直して据わったダークブルーを見つめた。殴り合いなら完膚なきまで相手を叩きのめして黙らせられるだろうが、ミナミ相手にそんな恐ろしい事が出来る訳もなく、それならと青年のペースに巻き込まれたフリをして捻じ伏せようにも、最早ここまで来れば、言い訳も虚言も意味をなさない。

 青年は、最強最悪の天使。

 しあわせに取り憑かれている。

 ミナミは椅子にだらしなく座り、肘掛けに片腕を預けて頬杖を突いたまま、瞬きもせずにヒューをじっと見ていた。あの、観察者の瞳で。

 こちらは殴り合いなど微塵も考えず、望む通りに、ヒュー・スレイサーを屈服させるつもりで。

 青年は。

「知っている」のだから。

「………。いきなり急所突いて落されるのとさ、常識的? アプローチから入んのと、どっちいい?」

「切り札は最後に出してこそ切り札だぞ、ミナミ」

 言われてミナミは、頬杖を衝いたまま薄く笑みを浮かべ、「そっか」と…なぜか少し嬉しそうに答えた。

 ダークブルーは見ている。観察している。決して昨日今日という付き合いではないヒュー・スレイサーが「自分の話題」に対して逃げない、はぐらかさないという姿勢を見せたのは、初めてかもしれなかった。

 だから、ミナミは確信する。

 間違っていないのだと。

「なんでいきなり、仕事辞めてぇなんて言い出したんだよ、ヒュー」

「言いたくない」

「って即答かよ。判ってたけどムカつく」

 問われて、一呼吸も置かず答えふんと鼻を鳴らしたヒューの横柄な態度に、ミナミが苦笑を漏らすより前に突っ込む。

「つうか、ヒューから仕事取ったらナンも残んねぇんじゃね? 図体デカい分、邪魔だと思うけど。ただの抜け殻」

「いい機会だと思って好き勝手言うな。とはいえ、実際そうだろうがな。

 ミナミ、お前、…今、何か欲しいものはあるか?」

 腹の探り合いに似た緊迫の空気を纏いつつも、ふたりの会話は至って和やかなものに聞こえた。

「俺に嘘とか言わねぇ部下が欲しい」

「…真面目に答えろ…」

 いつからそこに動かずいたのか、もしかしたらこの三日間少しも動かなかったと言われても納得しそうなくらい超然としていたヒューが、組んでいた腕を解いて長い足を組む。

「いや、マジでさ。とりあえず今思い浮かぶのは、それくれぇ」

 む、と眉間に皺を寄せて何か考えるような顔をしてからミナミが言うと、ヒューはなぜか少し意地悪そうに笑った。

「もっと判り易い恋人じゃないのか?」

「…判り易かったら、それ、あのひとじゃねぇよ」

 なるほど。

 ミナミのやや拗ねた調子に一度目を伏せたヒューが、笑みを消さない唇で呟く。

「俺は、何もいらない」

 さらりと。

「括るものなど、何も欲しくない」

 ミナミは、肘掛けに置いていた腕を下ろして姿勢を正し、冷たく微笑んだままの銀色を見つめた。

 だからヒューは特務室を辞め、道場に戻ると言ったのか。誰にも告げない「理由」のために全て殺ぎ落とし、何も持たず、何も求めず、欲する事もなく退場する事を選択したのか。

 しかしながら、ミナミとヒューの会話をハルヴァイトが聞いていたならば、彼は大いに気分を害して呆れた溜め息を銀色に吐き付けただろう。この嘘吐きめ、くらいは言ったかもしれないし。

 一瞬、室内に嫌な空気が降りる。

「…ヒューはなんにもいらねぇって、そう言うけどさ、でもそれはヒューの事情で、俺や陛下の希望じゃねぇんだよ。なんか、さ。俺は、今から俺の言う事が、身勝手な我侭だって判ってんだ。でも、それだけじゃねぇ。陛下はちゃんと考えて、それで、俺に…」

 刹那だけ戸惑うようにダークブルーを揺らしたミナミは、相変わらずの無表情を保ったまま意を決して、逸れた視線をヒューの冷然とした顔に据え直した。

「ヒューを辞めさせねぇって。俺に、どうにかしろつったんだよ」

 辞めさせない。だから、辞意を覆せと命令した。

「どうにか…ね」

 淡く銀色の光を湛えたサファイヤ色の瞳に見つめられたミナミは、酷く居心地悪くなって膝の上に移した手を組み替えた。正直、提示すべき事柄は全て揃えて来はしたものの、果たして何をどう言い募ればこの銀色が戻ってくれるのか、肝心な部分が曖昧過ぎる。

「それで? お前はどうするつもりなんだ?」

 促され、ミナミはしくじったと思った。既に主導権はヒューにある。摩り替わる質問者。それにただ答えるだけでは、この食えない銀色を出し抜けない。

「陛下は…」

「陛下はいい。俺が訊いてるのは、お前だ、ミナミ」

「…………」

 ミナミは咄嗟に、ウォルがヒューをルニ付きの護衛部へ転属させるつもりでいると伝えようとした。まず、ヒューがこの先置かれるだろう責任ある立場を明確にして、それだけの期待があるのだから考え直せと言えば、この銀色は折れてくれるかもしれないと。しかしヒューはあっさりとその、多分聞いてしまえば気になるだろう自分を取り巻く状況を封じてしまったのだ。

 訊きたいのは、ミナミの事。周りなどどうでもいい。

 容赦なく、攻撃の手を減らして来る。

「……関係ねぇんだけどさ、ヒュー」

「? なんだ」

「もしかしてヒューがウォルに、特務室辞めてぇだけじゃなくて、道場に戻るつったのって、意味ある?」

 逸れないサファイヤを苛立ち紛れに睨み返しながら、ミナミは時間稼ぎにも似た質問を繰り出してみた。

 ヒューはきっと、ウォルとの「約束」を忘れていた訳ではないのではないかと、ミナミは思ったのだ、その時。

「それこそ、俺から仕事を取ったら道場に戻るしかないだろう?」

「配置換えとかもあんじゃん」

「おめでたいな、ミナミ。特務室から出たいなんて陛下に直訴するような衛視、クビにされるに決まってる」

「…その言い方、すげぇハラ立つ」

 やれやれと肩を竦めて溜め息混じりに言ったヒューから視線を逸らして、ミナミは唇を尖らせた。

「それともお前、他に何か理由があるとでも思ったのか?」

 少しの間を置いて投げかけられた質問に答えようと正面を向き直したミナミは、息を吸い、そこでハタと気付いた。

 笑っているのだ、ヒューが。

 質問者は、誰だ?

 質問の意図は、なんだ?

 辿り着きたいのは、どこだ。

 知りたいのは。

「悪ぃけど、ヒュー。俺は、「そういう方法」覚えねぇよ?」

 言ってミナミは、膝の上で無意識に固く握っていた手を開いて肩から力を抜き、深く息を吐いた。

 摩り替わる、質問者。

 薄笑みの銀色に、ミナミが挑むような笑顔を向ける。

「だってさ、そういう悪役臭ぇ卑怯な手ぇ使うキャラじゃねぇもん、俺」

「そうか? お前にぴったりだと思うんだがな」

「それに、そんなの簡単に覚えたらさ、ヒュー、今度こそ言うだろ?」

 会話を誘導され、質問していたはずがいつの間にか質問される側に回る。もしこれを緻密に計算し数多の情報を支度した上でやられたとしたら、例えば秘密を抱えていたとしたら、じわりじわりと狭まる包囲に足元を崩され、自滅するかもしれない。

「これで俺の役目は何もなくなった、ってさ」

 だから判った。ミナミは気付いた。

          

       

 あの少年がなぜこの銀色に愛されたのか、判った気がした。

  

   
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