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番外編-7- ステールメイト |
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(28)三日目 23:25 | |||
彼は、何もしなかった。
とうに下城時間を過ぎているはずなのに未だ戻らぬ恋人の帰りをリビングで待ちながら、ミナミはずっと考えていた。 彼は何もしなかった。 少年に対して、何か行動を起こした訳ではなかった。 しかしミナミが、彼…ヒュー・スレイサーと少年…アン・ルー・ダイが「四日前」の夕刻、ほんのひととき、誰もいない資料室で顔を合わせ、その後ヒューがルードリッヒと言葉を交わした直後、唐突に陛下に謁見し衛視の職を辞すと言い出し姿を消したと聞いたなら、何かに気付いただろうか。 時同じくしてアンがヒス・ゴッヘル家との会談を望んだと知ったなら、何か、別の行動を起こしただろうか。 その時ミナミの手の届く場所に、ヒューが居たとしたならば…。 だがそれは仮定に過ぎない。 事実は、見た通りであり、聞いた通りであり、ミナミは行動し、ハルヴァイトは暗躍し、メリル、スーシェ、マイクス、デリラ、キャロン…ヒス・ゴッヘル家とルー・ダイ家は関わり、陛下すらも巻き込まれた。 しかしその間、彼は、本当に「何もしなかった」。 そこに存在すらしていなかった。 だからミナミがリビングのソファで膝を抱え、無表情に中空を睨んだままどんなに考えても、青年の中でこの「事件」は、アンのためを想ったヒューが衛視を辞すと言い出した事に起因して、アンを含むその他の人間が勝手に動いたという結果にしか行き当たらなかった。 ヒューがそんな、彼らしくなく職務を途中で放り出すような真似をした原因は明白で、それは、結局アンの婚約が消えたと告げ、その後陛下に一年後という期限付きで内々に命令された次期女王の護衛班設立に対し異を唱えなかったのでも判るように、ミナミの「予想」は間違っていなかったのだろう。 「…つー事は、つまり、ヒューはアンくんの婚約を知ってたから、これ以上アンくんを惑わせたらいけないつって、身を引いた? けど、それがなくなったから、辞める理由もなくなったって…そういう意味だよな…」 優しく白い光に満ちたリビングでひとり思い悩む。ミナミの定位置になった、部屋の中央に置かれたソファ。ささやかながらきちんと手入れされた前庭の見えるその場所は青年のお気に入りで、彼はいつも、引越し? の祝いだといって陛下がくれた、あの私室に置かれているのと同じに全体が淡い水色で、山吹色の縁取りと房のあるクッションに凭れ、天蓋からの陽光を硬い緑の葉の表面できらきらと輝かせる植え込みを飽きずに眺めていた。 しかし今はもう重たいカーテンの引かれた大窓を見ているようにして、ミナミの目はどれも捉えていない。 ただ、じっと虚空を睨んでいるだけだ。 むずむずするような違和感に悩まされている。 彼は何もしなかった。 ヒューは、何もしなかった。 行動したのはアンであり、ミナミたちであって、彼は、何もしなかった。 ハルヴァイトさえ「何か」行動したにも関わらず。 「…てか、あのひとはいってー何したっつうんだ…」 うー。と、ミナミは無表情なまま眉間に皺を寄せた。 それで、ミナミには何もするなと言ったくせに自分は何かしやがった(…)ハルヴァイトの意味判らなさを思い出し、軽くこめかみに青筋を浮かべてみる。 ところが、その軽い苛立ちがどうも持続しないのに、ミナミは何度目かの溜め息を吐いた。 結局、三日前の朝唐突に始まった、ヒューの失踪騒動に端を発した? なのか、アン少年の婚約騒動に端を発した? なのかいまひとつはっきりしない事件は、ハルヴァイトの介入という奇跡によって、ミナミの望む通りに収まってしまった。…もちろん、キャロンとの婚約を解消し将来的にも自由になったアンと、辞意を撤回し一年後には「女王陛下の」衛視になる事を承諾したヒューがこの先どうなるのかは、正直なところミナミにも判らないしこれ以上どうしようもないが、とりあえず、周囲がごちゃごちゃ騒ぎ当事者の邪魔をして…? …いたのかどうかも定かでないが、青年はそう思う…、話をややこしくする心配は、なくなった。 ような気がする…。 だからなのか、ミナミの気分も機嫌も、本人が思っているほど悪くはない。ヒューにはこれからハルヴァイトと喧嘩するのだと告げて来たものの、とりあえず文句の一つや二つ言ったら、気が済んでしまいそうだ。 その割りにどうもすっきりしないのは、なぜなのか。 ミナミは考えた。 何かが曖昧過ぎる。 しかしその「何か」がなんなのか、ミナミには判らない。 アン少年だけはしあわせになってくれたらいいなと、思ったが。 ウォルから贈られた、…といっても、私室に遊びに行った帰り、引っ越し祝いにこれをやると安楽椅子に座ったまま横柄な態度で投げ付けられたものだが…、上等なクッションに倒れ込んだミナミは、抱えていた膝を離して代わりにそれを抱き締め、ソファの上で丸くなった。最早問題はヒューとアンに移り、ミナミがどんな気を揉んでもなるようにしかならないのに、どうも、落ち着かない。 ミナミの蒼い目が、戻らぬ鋼色を探すようにリビングのドアに移った。 しん、と物言わぬ無機質な黒。 幾何学模様のレリーフ。 銀色のドアノブは直線的で鋭角的。 全てが冷たい、金属質な扉。 息を吸い、瞬間、ミナミは気付いた。 ヒューが消えて、三日。その三日間でミナミがハルヴァイトと直接言葉を交わしたのは、青年が電脳班執務室に赴きデリラにキャロンの事を根掘り葉掘り聞いた、あの日のあの時、一瞬しかなかった。 だから戸惑っている。困惑している。もしかしたら、少し恐れているのかもしれない。 青年は何もするなと言われて、しかし、何かしてしまった。 恋人は何もするなと言い、しかし、自らが何かした。 擦れ違う思惑? 些細だけれど、結局、守らなかった約束。ヒューが、アンがと言い訳するのを辞めるなら、ミナミはまた、勝手な事を…してしまったのではないか? ……………。それでも、恋人は青年に愛想など尽かしてくれないのに。 しかも今回、その恋人…最凶最悪の悪魔は、天使が自分の言いつけを守らないだろうと、しっかり予測していた。 というか…。 クッションを抱えて硬直していたミナミがふっと詰めていた息を吐き、瞬きするのと同時に、件の黒いドアが無造作に開かれる。 「……」 このリビングにノックもなしで現れるのはミナミを除けば主であるハルヴァイトただ一人で、最早明日になろうかという時間、なんの連絡もなく突然帰って来るのもハルヴァイトだけで、だから彼は…なぜなのか、非常に難しい顔で眉間に皺を刻んだまま、丸めて小脇に抱えていた緋色のマントを、慌てて追い掛けて来たのだろうアスカの腕に押し込むなり、どこかしら不機嫌さの滲む声で言い放った。 「グラス、氷、未開封のスピリットを瓶ごと。ミナミに何か飲み物を」 「…お食事は如何なさいますか?」 「いらない」 言いつつ歩きながら、白手袋、真紅のベルト、漆黒の長上着を次々アスカの腕に押し付ける、ハルヴァイト。 「旦那様がハルヴァイト様に何かお話したいそうで、母屋の方にお越しくださるようにと、言い付かっておりますが…」 「明日にするよう伝えておけ。今日はまだ忙しい」 大股でリビングを通過したハルヴァイトの後ろを小走りで追っていたアスカの背が寝室の前に停まり、灯りも点けない室内から、ますます不機嫌そうな声。それでどうやらこれは非常事態だと判断したのか、青年執事は戸惑うような顔でもう一人の主人、ソファに座り直してクッションを抱え、無表情に緊張し小さくなっている…ように見える…ミナミを振り返った。 「…とりあえず、言う通りにしてやってくんねぇ? ミラキ卿には、俺も今日じゃねぇ方がいいつってたって伝えてくれたら、多分大人しく引き下がると思う」 判りました、とアスカが硬い声で答えるのと同時に、着替えを済ませたハルヴァイトが寝室から現れる。白いVネックのアンダーシャツにペールピンクのニットジャケットに、鉄紺色のボトム。恰好だけはいかにもラフなのだが、纏う空気が最悪に棘を含んでいたのに、さすがのミナミも小さく肩を寄せる。 ここまで完璧に苛立っているハルヴァイトは、結構珍しいとミナミは思った。 綺麗な恋人の内情など知らない鉄色が、青年の正面、大窓を背にしたソファに荒っぽい動作で据わり、これまた荒っぽく足を組む。何をそんなにイラついているのか。殆ど瞬きしない鉛色に見つめられたミナミは死ぬほど居心地の悪い思いをしながらも、やっぱり無表情に、肘掛けに置いた腕、その先端の長い指でしきりにこめかみを叩く恋人の姿を、じっと見つめていた。 ハルヴァイトの脱ぎ散らかした衣類をクロゼットに仕舞いこんだアスカが一度リビングを辞し、不機嫌な主人に言いつけられた純度の高いアルコールと、ミナミにはロゼのスパークリングワインを運んで来てテーブルに支度しまた退場するまでハルヴァイトはぴくりとも動かず、ただミナミを、…無表情に蒼褪めて緊張した恋人を…、見ていた。
綺麗な恋人の望む通り、誰も彼もしあわせに。 誰も、彼も、勝手に、しあわせに、なるがいい。
と、思うのだが?
ややあって、ついにハルヴァイトは盛大な溜め息を吐いてから、拗ねたような顔をミナミから逸らした。 「…てか、アンタ、なんかあった?」 それがなんだか妙な反応に思えたミナミが、小首を傾げながら問う。 そう、ハルヴァイトは別に何かに対して怒っていたのではなく、単に、苛立っていただけなのだ。 単純に、幾ら考えても解決しない、判らない事に。 もっと単純に、「意外と頭が悪い」と言われたのが気に食わなかったから。 考えてみた。 「何もしなかった=何かした」という方程式の解答を。 「帰宅する直前、班長に会ったんですよ」 最早何か考えるのも面倒になったのか、ハルヴァイトは言いながらテーブルに置かれたスピリットの瓶を取り、表面の溶けかけた氷の入ったタンブラーに透明な液体を注いだ。 「つかアンタ、食事もしねぇでそんなの呑むな」 無駄だと思いつつ突っ込んでみたミナミの台詞は薄笑みだけで綺麗に流され、青年がひとつ短い吐息を漏らす。 燃料だと思えば腹も立たない。と自分に言い聞かせる、ミナミ。 「んなワケねぇっての」 で、自分で自分に突っ込んでみたり。 「それでですね」 「って俺の独り言は最初から最後まで無視かよ」 ミナミは、さっきまで叱られるかもしれないとかなんとかちょっとびくびくしていた自分が、急に間抜けに思えて来た。どうせハルヴァイトなど、いつもこうだ。周囲だけでなく、綺麗な恋人さえも、時に彼の「世界」には…存在しない。 刹那だけ、そのひとの世界は、全て文字列に変わる。 「………」 胸の奥が冷たくなるような感覚に、ミナミは一瞬息を詰まらせた。その気配に気付いたのだろうハルヴァイトの鉛色が水平に動いて、青年のダークブルーを捉える。 何か問うように小首を傾げられて、しかしミナミは、なんでもない、と頭を振り、正面に置いていた視線を抱えたクッションへと落とした。
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