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番外編-7- ステールメイト

   
         
(29)三日目 23:43

     

 「俺は何もしなかった。何もせず、関わり合わず、先に…退いただけだ」

          

          

 非常階段で遭遇したヒューにそう言われたのだと、ハルヴァイトはかなり渋い表情でミナミに教えた。その頃には気分的に立ち直って(?)いた青年が、アスカの用意して行ってくれたロゼのスパークリングワインを舐めながら、ふうん、と気のない返事をしたのに、鉄色の眉がまた少し中央へ寄る。

「結局わたしには、幾ら考えても班長が「何をしたのか」判らなかったんですが、あなたは…何かご存知なんですか?」

 まるで、自分は判らないのにミナミが知っているのはおかしい、とでも言いそうな恋人の口調を、グラスを持ったままの青年は淡く笑った。

「ご存知って程でもねぇけどさ…」

 薄っすら水滴の浮いたグラスをテーブルに戻したミナミが、投げ出していた足を片方だけソファの座面に引き上げて抱え、膝の上に顎を載せる。

 ハルヴァイトから逸らされたのではなくグラスの内側で踊る水泡から離れない視線が緩み、やや伏せ気味の長い睫が白い頬に薄く影を落とす。天井からの光を受けた金髪の先端がきらきらと囁くのを眺めているうちにハルヴァイトは、刹那の不機嫌などどうでもいいような気がして来た。

「もう、随分前から、…もしかしたら、アンくんよりずっと前からヒューはさ、なんつったらいいんだ? 好きとかそういうんじゃなくて、アンくんがこれまで…、色々苦労して来た分まで、普通に、しあわせにさ、なれたらいいなって、…ヒューなんだからそんな角のねぇ表現じゃねぇにしても、思ってたみてぇなんだよな」

 ひとつひとつ言葉を選び、それでもどこか遠慮したような青年の言い方に、ハルヴァイトの口元が綻ぶ。これは予想であり予測であり、結果から引き出された経緯であると同時に、ミナミの希望でもあるのだろう。

「…実際俺、訊いた事あんだよ、ヒューに。アンタらが特務室に上がる準備してた頃にさ。アンタとヒューの行動パターンに似たトコあるよなって話をスゥさんとした後で、ヒューに、アンくんが傷つくのは嫌なの? って」

 好きなのかとは言わなかった。守りたいのかとも訊かなかった。ハルヴァイトとヒューの取る行動が「似ている」と思ったから、ミナミはそう尋ねたのか。

「そん時はロクな答えも貰えなかったけど、俺は、そうなんだってずっと思ってた。それから色々…あったりして、いつの間にか、アンくんはヒューの事頼りにしてんだなって思って、俺は…勝手にさ、アンくんにしあわせになって欲しいから、ヒューにはちゃんと、答えて貰いたかった」

 ミナミだからこそ判った真相。

 あの銀色もまた、健やかな少年とは触れ合わない距離にありながら、澄んだ水色を誰よりも愛しんだ。

 悪魔が、天使に、そうしたように。

 そこで一度言葉を切ったミナミが乾いた唇にグラスを当てるのを、ハルヴァイトは黙って見ていた。これは解答編。難解な方程式の答えを知っているのは、全てを観察し記憶し溺れるようなしあわせを望む、綺麗な恋人だけだ。

「…でも」

 微かに濡れた桜色の唇から漏れる、沈んだ声。

「ヒューは、アンくんの婚約を当初から知ってて、それにアンくんが抵抗してねぇのも知ってたから、…答えるワケには行かなかったんだ。俺にも、アンくんにも、さ」

 全ての経過を知っている訳ではなかったが、どこかでふたりの間に何か、危うい探り合い? または無意識の意識を確認する事柄が起こったのだとミナミは思った。それがつまりミシガン・トウスとの再会においてヒューが「知った」ものであり、セイル・スレイサーの告白を受けてアン少年の「気付いた」ものであり、ルニの気紛れで崩壊した「建前」だったのだろう。

「それがなんで、何もしなかった事が何かした事になるかって、そこがアンタの判らねぇトコなんだろ?」

 それまでテーブルの上、細い指先で触れただけのグラスに落ちていたダークブルーがふと持ち上がり正面の鉛色を見据えると、ハルヴァイトが無言でひとつ頷く。

「今回の婚約解消に掛かる部分だけ見たら判んねぇよ、幾らアンタの情報処理能力が半端でなくてもな。

 ヒューは今までずっと、…陛下に、衛視辞めて道場戻りてぇって言い出す直前まで、アンくんとの距離…つったらいいのかな、関係としちゃ極親しい友人だけど、「それ以上」は踏み込むのも踏み込まれるのも拒否してたんだよ。何かあって、…それがなんなのか俺は知らねぇけどさ、アンくんがヒューを避け始めてからも、ヒューのアンくんに対する態度も対応も、変わらなかったみてぇだし」

 けしかけるミナミにのらりくらりと切り返し、体裁を取り繕い、判っていたから、アン少年の望む通りの位置を保とうとしていた。

「…つまり班長は、「それまで何かしていた」のに、今回は「何もしなかった」、という事ですか?」

「拒否しなかった。アンくんの事も考えなかった。仕事も役割も重責も、それまでヒューの周りにあったもの全部に対して、「何もしなかった」ってコトなんだと思う」

 言って、ミナミは閃いた。

「何もしねぇで退くってのは、ヒューにしてみたら、一手だけ攻撃したのかもしんねぇけどな」

「………なるほど」

 それでハルヴァイトにも判った。

 四日前。アンの婚約が急展開する直前、非常階段で顔を合わせたルードリッヒとヒューの交わした奇妙な会話の意味が、ようやく。

 忘れていたのは、決してアンとヒューの関係がこの数日で構築された訳ではないという事。それ以前もあり、ハルヴァイトの知らない日常…というか、他人の日常になど興味ないのだから、知らない事の方が多いだろうが…を経て、成るべく事象が顕現したと考えるならば、幾ら全知全能紛いの悪魔がない「知識」を捻り出そうとしても、ヒューの吹っかけて来た難解な方程式の解答は出ない。

 と、いう風に言えばいいものを。だ。

 まさしく惨敗か? ハルヴァイトはグラスに残っていた、溶けた氷ですっかり薄くなったスピリットを喉に流し込んで頭を冷やし、その上で、ソファの背凭れにぐったり身体を預けた。

「この解答はどうあってもわたしだけでは出ない。しかし、ミナミの知っている過去の事実を繋げば話は別、という意味だったんでしょうね、「ミナミに言え」というのは…。始めからそう言ってくれれば、わたしだってこんなに悩まなかったでしょうが…」

 いや、過去の事象に気が回らなかったハルヴァイトも悪い…かもしれない…けれど。

「お前意外と頭悪いなって言われましたよ? わたし」

 不満全開で鋼色の髪を掻き毟ったハルヴァイトの顔をきょとんと、酷く子供っぽい顔で見つめた後、ミナミはいきなり吹き出した。

「そんなに笑う事ないじゃないですか、ミナミ!」

 謝るつもりなどないのか、それとも言葉が出ないのか、恋人に剣呑な表情で咎められても、青年は抱えたクッションに顔を埋めて華奢な背中を震わせながら、声を殺して大爆笑していた。

 本当に、ハルヴァイトはおかしな所で抜けているとミナミは思った。というか、再確認。アンの婚約に掛かっては周囲の…。

 と、そこまで考え、ミナミは唐突に笑うのを止め顔を上げた。

「ってちょっと待て」

「はい?」

 抱えていたクッションを身体の横に置き、ハルヴァイトの膝にも届かない低いテーブルに手を突いて身を乗り出す、ミナミ。その、相変わらずながら微妙に咎める色を含んだ無表情を、睨まれた悪魔がきょとんと見つめ返す。

「アンタさ」

「はい」

「アンくんが婚約解消した理由、判ってたっての? 始めから」

 理由? と小首を傾げて難しい顔をしたハルヴァイトが、手にしていたグラスをテーブルに置いた。

「好きな人が居るからだと、今日聞きました」

「…………。今日?」

 今日、その事実を聞いた人は意外に多いだろうと、ミナミがなぜか、冷静に、思う。

 曖昧。もやもや。言い知れない、「何か」。

「でもアンタ、ヒューの事は…」

「わたしは、一度も「班長のために」何かした覚えはありませんけど?」

 唖然とする、ミナミ。

 こんな時でさえ全く空気を読んでいない、ハルヴァイト。

 擦れ違う、思惑?

「…わたしは、ルー・ダイ家とヒス・ゴッヘル家の姻戚関係が両家の思惑にそぐわない、無駄な行為だと説明して見せただけで、姿の見えなくなった班長に対しては、全く…何もしてません」

 ミナミはその場で頭を抱え、ぺしゃりと床に座り込んでテーブルに突っ伏した。

「し…信じらんねぇ…」

 つまり? ミナミは最初からアンの婚約とヒューの失踪を結び付けて考えられる位置にあったから、片方を解決するために両方に介入した。しかしハルヴァイトはそのふたつを、結果的には結び付けて考えられるものだったと気付いたが、当初はその関係を想像もしていない状態で片方にだけ介入し解決しようとし、彼の決めた通りの結果を出した。

 全てのパーツを提示しただけで。

 後は当事者に勝手にやらせたようにして。

 テーブルに倒れ伏したまま唸っているミナミの後頭部を眺めるハルヴァイトは、所詮ハルヴァイトな訳で、実は相当早い段階からこの二つの、唐突に持ち上がった「事象の顛末」に関係があると気付いていた、とは、ミナミに言わなかった。事実、この…思い通りの結果を出したにも関わらず最後の最後でヒューに惑わされた悪魔は、アン少年が告げた婚約解消の理由をルー・ダイ邸で聞くまで、あの銀色がなぜ姿を消したのか判らなかった、というか、気にもしていなかったのだから。

 だから、余計に気になったのかもしれない。アンの婚約が解消され、ヒューが姿を現したという事実に含まれる関係が。

 ミナミの説明を受けてもまだ釈然としないのは、ヒューが、「目的など」なかったと言った事。

「もう誰に対してハラ立てていいのか判んねぇよ」

 いつの間にか頭を抱えていた腕をテーブルの上に伸ばしていたミナミが、ぼそりと呟く。

「もしかしてその「誰」には、わたしも入ってます?」

「決まってんだろ…。つか、でも、一番余計な事したのは俺かもって思うけど」

 いつまでもテーブルの前に正座しているのも間抜けだと思ったのか、ミナミは言いながらもそもそと身を起こし、またソファに座り直してウォル贈呈のクッションを抱えた。

「…アンくんはさ、結局、嘘とか言い訳とかなしで、ホントの事ちゃんと言って、婚約出来ねぇって誠実に断ったから、ヒス・ゴッヘル家の人も、アンくんの家族も、判ってくれたんだよな?」

 やや翳ったダークブルーで一瞬だけ恋人の顔を見たミナミが、すぐ視線をテーブルの上に落とす。

「ヒューは、何もいらねぇし、括るモンなんか欲しくねぇって、俺に言ったんだよ。だからヒューは最初から、アンくんがどうなっても、ヒューが衛視でなくなっても、投げ遣りな言い方すりゃどうでもいいって事で、でも、多分…」

 テーブルの上には、既に発泡しなくなった淡い薔薇色の液体を半ば残した背の高いグラスと、溶け残った氷の浮くタンブラーが、それぞれひとつずつ。

「「何もしなかった」事で出た結果は、それがなんであっても受け入れるって覚悟だったんだって、俺は思う」

 言い置いたミナミは短く息を吐き、ようやく顔を上げた。

「アンタは、周りを巻き込んだ」

 静謐なダークブルーが、恋人を映す。

「でも、周りの人間に、意図的に何かさせたワケじゃなく、周りの人間が「何か」するように、関わるように、気付くように…仕向けただけだ」

 その深海の内側で、ハルヴァイトが穏やかに微笑む。答えはない。答える必要もない。

 全ては、悪魔の中で解決した。元よりあの銀色に「目的」などなかった。完全後手。あえて言うならば、「何もしない」と決めた事で明らかになった「事実」と、その事実がもたらす「結果」を甘受するのが、目的だったのか。

 そこに数列は存在しない。

 方程式ですらない。

 在るのは、真円の世界。

 これを、在りのまま。と、言うのかもしれない。

「なのに、俺はさ…」

 天井からの柔らかな白い光を透かした、ダークブルー。深海の蒼色。金色の睫に煙ったそれがゆっくりと、酷く緩慢に瞬きするのを、ハルヴァイトは見ている。

 皺の浮くほど固く抱き締めたクッションの四隅で、山吹色の房がさらりと揺れた。

「卑怯な奥の手使ったつもりで、でもやっぱ中途半端で、結局…」

「ねぇ? ミナミ」

 悪魔は、天使を見つめている。

 なぜ、彼の腕の中にあるのは、物言わぬ無機物なのかと思った。

「例えばあなたが自分をどう思っていたとしても、あなたがアンのために行動しようとした事実、班長のために行動しようとした事実、陛下のために行動しようとした事実は、結果に対して無駄ではなかったとわたしは思います」

 あの細い腕が抱き締めるのは、自分ではないのだろうか?

「アンは、臨界の特定法則を知った上でそれを誰にも明かさず、好きな人が居るという理由で婚約を破棄しようとした。

 だからといって、それは別にあなたのもたらした情報を無視したのではなく、その切り札があったからこそ、本当の事が言えたんじゃないでしょうか」

 捻じ伏せる事が出来るから。

 そうする事が出来るのに。

「あくまでも憶測の域を出ませんが、と前置きしますが。アンは、あなたから臨界の法則を知らされるまで、本当に、兄上の言いなりになってキャロン嬢と結婚するつもりだったのかもしれません。しかし、それが双方にとって「しあわせでない」と判ったから、もしかしたらね? 最終的に自分の我侭を通す形で、それを破棄したとも考える事が出来ます。

 まぁ、…ここまで来て後悔しても反省しても始まりませんよ。どちらにせよ、アンはキャロン嬢との婚約を破棄しルー・ダイ家と絶縁しましたが、行方不明の班長は無事発見された訳ですしね。大団円とは行かないまでも、この騒動は、一応、決着してしまったんですから」

「つうかそのなんでもいいけど結果オーライみてぇな言い方どうかと思うよ、俺は」

「それも今更でしょう?」

「…開き直んなよ…。………ってーか、アンタさ」

 と、そこで、クッションを抱えて小さくなっていたミナミが、急に立ち上がった。

「…俺にゃ何もすんなとかって偉そうに言っときながら、自分は…」

 別に本気で怒っていた訳ではないが、ミナミはとりあえずそう言って、正面の恋人を無表情に睨んだ。なんというか、ハルヴァイトに「普通に慰められて」ちょっと気分が浮上したなどとは、素直に認めたくない。

 ミナミの中で今回自分は卑怯にも、暗に、周囲を黙らせる手を使えと少年にけしかけたようなものだった。しかし少年は潔白に正当な理由で婚約の破棄を申し出、悪魔は、その禁じ手をあっさりと晒して、自身が周囲を黙らせた。

 暗躍したつもりが、何の役にも立っていない。

 だから少し落ち込んだ。

 なのにハルヴァイトは、ミナミの行動も無駄ではなかったと言う。

 それで現金にも、ついでに言うなら柄にもなく? 嬉しいなどと思ったのが、単に恥ずかしかっただけかもしれないが。

 ミナミに睨まれたハルヴァイトが、わざとのように肩を竦めて見せる。

「わたしがした「何か」も結局、あなたと同じです」

 それから冷然と微笑んだ悪魔は。

「あなた以上の事は、何もしてません」

 光の差し込まない鉛色の双眸に金と蒼とで飾られた恋人を閉じ込めた。

 青年は思う。この関係に優劣はない。ミナミはそれをアン少年に提示し、ハルヴァイトはそれを周囲に示した。そこにあるのは範囲の違い、それだけ。

 それだけで。

「……みんな、しあわせになれたらいいと、俺は思うよ」

 言ってミナミは抱えていたクッションをソファに置き、テーブルを回り込んで、微笑むハルヴァイトの傍に寄った。

「後はどうするのか、これからどうなるのか決めるのは、アンであり、班長であり、結局、わたしたちではありませんけどね」

「それでも…」

 それでも。

「諦めて欲しくねぇってさ」

 囁きの後、ごく自然に差し出された白い手。綺麗に切り揃えられた爪の先から見下ろしてくるダークブルーに視線だけを振り上げたハルヴァイトは、薄く微笑んで、小首を傾げた。

 無言で触れてもいいのかと問われて、戸惑うようにミナミが頷く。

 ゆっくりと動いた腕の先端、ハルヴァイトの長い指が、壊れ物でも扱うような繊細さで青年の指先を下から掬い上げ、優しく包む。

 その、少しの意識の違いがもしかしたら「しあわせ」の正体なのかもしれないと、ミナミは思った。

 何かが狂ってしまった青年。

 壊れている。

 それでも、「触れたい」のではなく「触れて欲しい」と思う時がある。

 そのひとならば。

 ミナミを怯えさせないようになのだろう、ハルヴァイトは酷くゆっくりと青年の手を取り、引き寄せて、自分の傍らに座らせた。衣擦れだけが溜め息のように囁き、ミナミの華奢な身体を抱き留めたソファの表面が微かに沈む。

 繋いだ手の暖かさを感じながら、ミナミは…ふわりと微笑んだ。

            

           

 みんなしあわせになればいい。

 今すぐでなくても。

 みんなしあわせになればいい。

            

 ぼろぼろに、ぐずぐずに、べたべたに壊れた自分が、今しあわせだと思う程度には。

       

      

 頬に射していた白く柔らかい灯りが翳り、ミナミが瞼を伏せる。すぐ額に降った乾いた唇の感触に安堵の吐息を漏らした青年が、膝に置いたハルヴァイトの手を軽く握り締めると、微かに笑う気配を感じた。しかし今日ばかりはそれを咎める気にもなれず、拗ねたようにうな垂れて恋人の肩に身を預ければ、揺れた金糸の掛かる頬、閉じたままの瞼を、啄ばむようなくちづけがなぞる。

 触れては離れる感触に、ミナミは恥ずかしそうに一度身を縮めて、それから。

 掬い上げるようなキスに促されて顔を上げ、伸ばした腕をハルヴァイトの首に絡めた。

  

   
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