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番外編-7- ステールメイト

   
         
(30)四日目 0:00

     

 固く重い足音が、冷たいコンクリートの壁に反響する。

 何かをずっと忙しなく考えているような、ただ、自分の靴音だけを数えているような、奇妙な意識の剥離を胸の内側で感じながら、アン少年…最早、そう呼ばれる年齢ではないのかもしれないが…は、冷え切った金属製の手摺に指先を掠らせ、一段一段ゆっくりと階段を登っていた。

 酷く疲れた気がする。…あれだけの「騒動」があったのだから、疲れて当然か。それでも気持ちが…幾らか…軽いのは、やはり、自分にとっての問題が解決したと思うからだろう。しかも、それが正真正銘の物別れに終わったのならもっと陰鬱な気分だったかもしれないが、結果は、悪くなかったはずだ。

 最小限の犠牲。

 しかしアンは、ルー・ダイ家から貴族院に出される事になる「絶縁状」が、事態を収めるのに必要な「犠牲」だったとは、今も思っていない。

 父と母と兄たちに対する、申し訳ない気持ちが先に立つ。

 アンは…ルー・ダイ家を棄てたのだ。

 足元に仄灯りを落とす薄暗い照明の間を縫って階段を伝い、ようやく四階に辿り着く。艶のない灰色の鉄扉はここでも重く、冷たく、通り抜けようとするアンをまた少し疲れさせた。

 深夜を過ぎたからだろう、しんと静まった廊下に人影はない。宵の口なら交代途中の衛視が出入りしていたり、非番の連中があちこちに集まっていて騒がしい特別官舎も、さすがにこの時間になると物音もなかった。非常事態ともなれば深夜だろうが明け方だろうが緊急招集で叩き起こされ、それから不眠不休で任務に就く事もある衛視たちの休息を邪魔してはいけないと、アンは極力足音を忍ばせ自室に向かって進んだ。

 色の薄い金髪が、濃い青色の闇にきらきらとした軌跡を描く。

 水平に動く視界を見ているようで何も見ていない水色の瞳に射す、微かな陰り。

 今日で全てが綺麗に片付いたと、アンは思わない。

 別に、キャロンとの婚約が…嫌な訳ではなかった。

 家族を落胆させるのは忍びなかった。

 ヒス・ゴッヘル家の「体裁」を考えなかった訳でもない。

 廊下の天井に等間隔で埋め込まれた常夜灯が、淡い光の円を床に描いている。ひとつ、ふたつ、みっつ…とその円に踏み込んでは纏わり着いて来る光の粒子を振り払い、振り返りもせず、少年は滑るように進んだ。

 最後の円は、アンの部屋の前。

 淡い、光。

 微か銀を散らすドアノブに手を置き、アンは桜色の唇に仄かな笑みを浮かべた。

          

        

 回答はいらない。

 ただ、本当に、すきだった。

        

          

「我侭か…」

 金属質な銀色に添えた手を見つめる。

 小さくて弱々しい手。何も掴めない。判っている。それでも…。

 掴もうと伸ばす事は、いつだって、誰にだって、出来るものだ。

 自分の手であればこそ。自分勝手に。伸ばす事も。握り締めて伸ばさぬ事も、選べるだろう。

「結局それも、我侭だよなぁ」

 吐く息と一緒にそう呟いて、少年は手元に落としていた視線を正面に戻した。

 瞬間、アンの水色がクリーム色のドアを捉えるのとほぼ同時に耳を撫でた、「閉じる」音。重い鉄扉の立てる篭った金属音に誘われて、廊下に点在する常夜灯の描いた仄白い円を手前からひとつひとつなぞるようにゆっくりと首を巡らせ、蒼い闇に散る光の粒子を透かした先に少年が見たものは。

 忽然と。

 銀色。

「…………」

 足音さえも厭う静寂に塗れ、囁く衣擦れだけを引き連れて、普段より幾分ゆっくりとした足取りで薄暗い廊下を来る銀色を、アンはじっと身じろぎせずに見つめていた。周囲に溶けるはずの漆黒が蒼い闇に際立ち、真紅のラインが一層鮮やかにその身を飾る様は、ひととき…ほんの数日目にしていなかっただけなのに、酷く少年の気持ちを掻き乱す。

 瞬きの少ないサファイヤ色も。

 常夜灯を照り返す銀髪も。

 どこかしら不機嫌そうな…端正な顔も。

 何も、変わりないはずなのに。

 それなのに、いいや、だからこそ、か? 少年は突如現れた銀色…、ヒュー・スレイサーから目を逸らさなかった。戸惑っているのか、緊張しているのか、どこか少年じみた愛らしい顔に浮かんだのは、凍りついたように硬い表情だったけれど。

 目を逸らさない。

 目を背けない。

 気の弱い事を言って、誰かの背中に隠れているようにして、すぐ泣かされたり泣いた真似をしたりするくせに、肝心な時には絶対退かない。

 アン・ルー・ダイという少年は、いつもそうだった。

 ドアノブに手を置いたまま硬直した少年を囲む淡い光のすぐ外側で、ヒューが不意に足を停める。手を伸ばせば届くかもしれない。否。それは…その「間合い」はミナミとハルヴァイトの距離であって、未だ「始まらない」ヒューとアンのものではない。

 そこに在る「あなた」に手を伸ばし微笑んで許される恋人たちの距離には未だ遠く、しかし。

「わたし」が小さくて弱々しい手を伸ばした時、「あなた」がその手を取ってくれようとするならば、あの指先が「わたし」に触れる距離だろう。

 我侭でなく。

 回答を。

 求めてもいいのだろうか。

「…どこに、行ってたんですか」

 アンは、固かった表情を幾分緩めて桜色の唇に仄かな笑みを載せると、廊下の真ん中に佇むヒューに身体全体で向き直った。

「君の知らない場所だ」

 答えてくれたのかはぐらかされているのか微妙に判り難い言い方に、アンがわざと眉を寄せて咎めるような顔をする。それを薄く笑ったヒューの睫がゆっくり瞬くのを、少年はずっと見ていた。

「…特務室……辞める気でいるって…聞きました」

「ミナミか?」

「はい」

 囁くような少年の声が、酷く震えている。

「正確に言うなら、「辞めるつもりだった」」

 さらりと告げられた台詞にも、アン少年は驚かない。過去形だ、くらいは思ったかもしれないが、それ以上は何も感じなかった。

「だが、辞める理由がなくなった」

「だから、戻って来たんですか?」

「そうだ。おかげでとんでもない罰を貰って、それなのに二週間も謹慎しろと言われたがな」

 呆れた溜め息交じりに言ったヒューが、わざと大袈裟に肩を竦める。とんでもない罰? その上で謹慎二週間…。という事は、罰と謹慎は別か?

 それに、辞める理由が、なくなった?

 少年は、大きな水色をきょとんと瞠り、首を捻った。

「さっぱり意味が判りませんけど?」

「別に、判ってくれなくていい」

 小さく笑ったヒューに言い置かれて、アン少年が短い溜め息を吐く。ちゃんと会話しているのに、意志の疎通がなっていない感覚。

「俺は君に何か話したくて来たんじゃないしな」

「………」

 ヒューはそこでもさらりと、そんな冷たい台詞を言って退けた。

 一瞬アンの足元、常夜灯の作る淡い光の縁に落ちたヒューの視線が、またひたりと大きな水色に据わる。

「君は、後悔しないのか」

 唐突にも思えるその質問ひとつでアンは、ヒューが今日少年の身に起こった「全て」を承知しているのだと直感的に悟った。誰がそれをこの銀色に伝えたのかと戸惑ってもいいようなものだが、それもまた、…氷細工のように溶けてしまいそうな笑顔が脳裏に閃き、一瞬で解決する。

 しあわせを振り翳す、最強最悪の天使。

「判りません」

 少年は細かな銀色の燐光を散らすサファイヤを見上げ、きっぱりと言い切った。

 判らない。判る訳がない。アン少年はただ我侭に、「好きな人が居る」という理由だけでキャロンとの婚約を一方的に破棄しただけなのだ。その好きな人が誰だとも、その人とどうなりたいとも、そもそも、「好きだ」と…告げてさえいないのだから。

「後悔したくないなとは、思います」

 言ってからアンは、少し考えるような顔をした。何か、酷く言い訳がましい事のような気もしたが、これだけは、絶縁という形で自由をくれた家族や、キャロン、全て承知の上でハルヴァイトの明かした臨界の法則は他言しないと誓約してくれたスーシェに報いるためにも、きちんと言っておかなければならないと少年は思う。

 ヒューにだからこそ、かもしれないが。

「ぼくは、一方的な我侭を通してルー・ダイ家から絶縁を申し渡された身です。対外的に、ですけどね。でも本当は、ぼくが…、家族を棄てたんです」

 全てを、削ぎ落し。

「正真正銘、ぼくは自分の我侭で家族を見限ったんです。魔導師という階級も、貴族という地位も全部、今すぐでなく、気が済んだらさっさと手放して、一般市民になってのうのうと暮らす道を選択したんです」

 言われて、ヒューは唖然とした。

 少年が自分を卑下しているとは思わない。しかし、この言い方はどうだろうか。無体を押し付けて来ていた兄を恨むでもなく、絶縁という形で少年を護ったようにして言い逃れを作った両親に失望するでもなく、ヒス・ゴッヘル家のこれまでの不適切な対応を咎めるでもなく。

「…………。君は…」

 呟いてヒューは、しかし、これ以上言う事などないと気付く。

 色の薄い、華奢な少年。青年、かもしれないが。目の前の彼こそ、「世界」の形を正しく理解し、その「世界」に存在する一点の「自分」を中心にしているようにして、全てを、この世を、有象無象とした人間たちの作る「現在(いま)」に「自己」が在ると、感じている。

 全ての人よ、うらむなかれ。

 あの「事件」で嫌と言うほど聞かされたこの一節を誰よりも先にヒューに教えたのは、アン少年だったはず。

「後悔先に立たずです。でも、実際ぼくは色んな事を後悔して来たし、これからもすると思いますけど、…せめて、ぼくの選択が誰かの後悔の原因になるような、そういう…失礼な真似だけはしたくないです」

 言い終えてすぐ安心したかのように短い息を吐いたアンが、無意識に身体の前で固く握り締めていた両手に気付いて、少し困ったように眉を寄せる。自然と浮かんだその苦笑を見下ろし、ヒューもまた…溜め息を吐いた。

「……判った、降参だ」

「はい?」

 水平に動いたサファイヤ色が頭上から逸れたのに、笑みを消したアンが不思議そうに小首を傾げる。何が判ってどう降参なのか、どうも今日は会話が成立してないなぁなどと少年は、やたら暢気に思ったりした。

「無駄に歳なんか食うモンじゃないな」

 ヒューの漏らした諦め交じりの独り言に、少年はますます困惑する。

「いや、でも、無駄も何も、歳なんて普通に取るものだと…」

 何か言わないと落ち着かなかったのだろうアンは困ったようにそう呟くと、偉そうに腕を組んだままあらぬ方向を睨んでいるヒューの視線を追い掛けて、暗い廊下、壁の一点に顔を向けた。別に何がある訳でもない、周囲と変わらぬサンドベージュの壁紙にまたもや首を傾げる。

 何をしたいのか、このひとは。と少年は思った。

「訊いてもいいか」

「え? あ…はい…」

 掛けられた沈んだ声に慌てたアンが、未だ薄暗がりに佇むヒューに顔を向け直すと彼は、いつの間にか、どこかへ向けていた視線を少年の顔に戻していた。こういう時まで気配も物音もないのに内心苦笑しつつ、大きな水色をぱちりと瞬く。

「なぜ、土壇場で婚約を破棄するつもりになった」

 判っていた。判っている。だからこそヒューは、アン少年の前から退場しなければならなかったのに、なぜ、その決定は…覆されたのか。

 問われて、瞬間、アンは微かに桜色の唇を震わせ、ふと俯いた。

 言い訳はある。長々と説明し、だらだらと言い逃れするだけの準備も。しかもこの銀色は、当初アンが、兄に逆らわずキャロンとの婚約を履行しようとしていたと…気付いていたはずだ。

 だからこそ、四日前、それまで燻っていた「何か」は刹那で始まり、瞬く間を経て、終わった。

 それなのに。

 アンに捻りのない我侭を通そうと決心させたのは、結局ミナミだったのか。少年の提示した理由は確かに、キャロンが言った通り単純で稚拙だったかもしれないが、何にも勝るその「理由」を口に上らせるのには、きっかけと相当な覚悟が必要だったろう。

 意味がないと言われたようなものだ。誰もしあわせになれないと言われたのだ。それでどうして従う理由があるのか?

 誰もしあわせにならない。

 そしてアンは、キャロンをしあわせには出来ない。

 結局。

 アンは足元の暗がりに落としていた水色をゆっくりと瞬き、ぽつりと答えた。

「好きな人が、居るんです」

 みんなしあわせであればいい。

 みんなしあわせであればいい。

 みんなしあわせであればいい。

 みんなしあわせであればいい。

 みんなしあわせであればいい。

 みんなしあわせであればいい。

 みんなしあわせであればいい。

 無理かもしれないけれどダメかもしれないけれど無駄かもしれないけれど望む事が許されているのならみんなしあわせであればいい。

「そう、言いたかっただけです」

 叶わないと判っていてアンに気持ちを伝えたセイルのように、ただ、言いたかった。

 俯いた少年の晒す細いうなじの表面で、色の薄い金髪が微かに暗い光を放つ。ヒューが初めて電脳魔導師隊執務棟で見た時から少しも変わっていないようにして、アンも確実に大人になっているのだろうと、口を閉ざしたままの銀色は思った。

 いつまでも、弟たちと同じラインに居てくれない。

「…大切な人がいて」

 何もしないままではいられない。

「しあわせであって欲しいと思った」

 少し困ったように言ったヒューを、アン少年が見上げる。

「俺だけでなく、みんながそう思ってる」

 常夜灯の灯りを透かす、水色。

「――――――君をしあわせに出来るのは…」

 逸れない、冷たく澄んだ厳冬の青空のような瞳が薄く微笑む。

「それがいつかの」

 アンは、いつもと同じに軽い調子で答えた。

「ヒューさんだったらいいですね」

 色の薄い少年の水色を飾る長い睫の先端に、光。

 あの日、この場所で、戯れに指先でなぞった唇の意味は、とうに伝わっていたというのに。

「それもだから、ぼくの我侭…、………っ?!」

 瞬きの隙間だったと思う、まさに刹那、黒を真紅で飾った長身が動いたとアンが認識するよりも速く伸ばされた手が少年の細い腕を掴み、無造作に引き寄せられていた。

 とん、と何かに倒れ込んで、無意識に息を詰める、アン少年。冷えたはずの胸に再来するのは、当惑か、困惑か、それとも別の意識なのか。視界を埋める、廊下に巣食う蒼い暗がりよりも黒い布地の感触に、アンは止めていた息を吐きながら、ぎゅと細い眉を寄せた。

 今ではない。今では、いけない。それは、ヒューだって判っていたはずだ。何か告げるでもないけれど、判っていてくれているはずだと思うのこそ、アンの我侭なのか?

 キャロンとの婚約を一方的な理由で解消し、対外的にルー・ダイ家から絶縁を申し付けられた恰好のアン。内情としては円満…だったかもしれないが、これを機に警備軍への入隊を希望するというキャロンの進退は未だ決まらず、だからアンの中でこの騒動は、解決したのではない。

 解決編は始まったばかり。

 みんなしあわせであればいい。

 それを見届けたら、ちゃんと、自分もしあわせになる努力をするから。

 ちゃんと。

 すきだと言うから。

 戸惑うように上がったアンの手が、ヒューの袖を掴む。無理に引き剥がすでもないけれど、微かに抵抗するような素振りを見せたそれを無視して、銀色はひとつ呆れた溜め息を吐いた。

「…非常に複雑な心境だ。もしかして俺は、物凄く信用されてるのか? それとも、実はどうでもいいと思われてるのか? まぁ、この場合そんなものこそどうでもいいんだがな、アンくん」

 床に朧な輪郭を描く常夜灯の下、一度は天井に向けた視線をアンの薄い肩に落としたヒューは、襟足に掛かる柔らかい金髪の先端を指でさらりと流してから、丸めた少年の背を全てから護るように、隔絶するように、両腕で囲った。

「一年、誰のものにもならないでいてくれ。

 俺が、君に、家族を返す」

 耳元で囁くように告げられてアンは、固く目を閉じ、ヒューの胸元に額を擦り付けて、消え入りそうな小さな声で、「はい」と答えた。

 約束はたったそれだけ。

 アンが俯いたまま、色々あってちょっと泣きそうです、と酷く恥ずかしそうに言いながら黒い長上着を握り締めると、答えて銀色が、泣くなよ、俺が困る、とどうでもいいように笑う。

 ぎりぎり、ライン上の危うい関係。

 それでも、晒した額に薄い唇が触れたのに誘われた少年が戸惑うように顔を上げれば。

          

        

 あの日、この場所では届かなかったくちづけが。

        

       

 アテのない約束を確かめるように、アンの淡い桜色に、そっと触れた。

   

2005/12/20(2006/03/07) goro

    

   
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