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番外編-8- 平和的同時多発恋愛事件

   
         
(9)ヒュー・スレイサー

     

 気迫の篭った掛け声があちらこちらで弾けては、水平には広いが天井の低い、つまりは少々狭苦しい印象の道場内に響き渡る。

 その只中にすっくと立ったその人は、たった今床に転がしたばかりの同僚に手を差し伸べて破顔し、それからやけに真剣な顔を作り直した。

「ところで、レスター。さっき連隊長の所に現われて居ついたあの黒服は、誰なんだ?」

 助け起こされて、強か打った背中をさすりながら顔を顰めていたレスター・ロブソンは、入隊当時から変わらず偉そうな物言いの後輩警備兵をきょとんと見上げてから、道場上座に設えられている雛壇に視線を転じ、ああ、と溜め息に似た声を漏らした。

「衛視だよ、衛視。陛下お膝元のエリートさんさ」

 自分よりデカい上に力のありそうな手に視線を戻して苦笑したレスターが、肩を竦める。連隊長から女性兵士が入隊して来ると聞いた時は、果たしてどうなる事やらと誰もが内心嘆息したものだが、いざ蓋を開けてみれば女性兵士とは名ばかり…いや、胸はそこそこ大きいしスタイルも抜群で目の保養にはなるけれど…の、大柄で偉そうで且つ射撃の腕も上級、更には護身術の達人と来ていた。最初は腫れ物にでも触るように接していた同僚が彼女に対してそんな気遣いは無駄だと気付くのに二週間も掛かった理由が、正直、今となっては判らない。

 つまり彼女、キャロン・ヒス・ゴッヘルは既に、馴染み過ぎなくらい連隊に馴染んでいるのだ。

「衛視…近衛兵じゃないのか」

「同じ制服でも、近衛兵は腕章つけてないだろ? でもほら、あの二人は左腕に真紅の腕章してる」

 まさか指差す訳にも行かないレスターは、軽く顎をしゃくって雛壇に鎮座する連隊長カイン・ナヴィと、その脇に座った黒髪と銀髪の漆黒を示した。

「黒髪の方は特務室詰めの事務官で…なんつったかな…」

 フィールド上で礼をし、壁際に退去して着座したレスターが顎に手を当てて考え込んでいると、彼を挟んでキャロンの反対側に座り込んだリリーという同僚が、「ジルだよ、ジリアン・ホーネット」と口を挟む。

「ほら、連隊長が情報室に居た頃の部下で、転属(トバ)される前はオレの上官だったんだよ」

「あの若さでか?」

 リリー・ラクリーが苦笑交じりに頷くのを気配で感じつつ、キャロンはジリアンを凝視している。

「だからこそ、衛視になれんだよ」

 結局、カインが転属してからやって来た上官に持て余されてトバされ、そこを陛下が直々に拾ったのだとリリーは付け足した。

「で? 後ろの男前は?」

 と、キャロンが言った途端に、なぜか周囲がどよめく。

「…なんだ?」

 訝しそうな顔で見回された同僚たちが、一斉に引き攣った笑顔を浮かべて首を横に振った。

「いやぁ、キャロン嬢が誰かを「男前」なんて言うの、始めて聞いたなってさ」

「でも、男前じゃないか」

 見ろ、とでも言うように顎を上げて雛壇を示したキャロンに、周囲も同意する。同意は…するが。

「王下特務衛視団警護班班長で一式武術の後継者、ヒュー・スレイサー。軍内で行なわれる武術競技会で、一般警備部時代五年連続優勝した後半年近衛兵団に所属してすぐ特務室に取り立てられた、王城一の武人だけど…なぁ」

 羨望ともなんともつかない溜め息と共にレスターが言い、その後をリリーが引き継ぐ。

「相当キツい性格って評判。なのに、あの容姿だろ? 身体空く暇ないってハナシだぜー」

 それに含まれた意味がすぐには判らなかったらしいキャロンが、やや不思議そうな顔で小首を傾げる。

「そういうトコ、キャロンは鈍いよなー。恋人ですよ、こいびと! 仕事仕事でしょっちゅうお城に居るくせに、頻繁にとっかえひっかえしてるんだってさ」

 うらやましー。と、ただ今恋人募集中の同僚どもが道着の裾を噛んで涙ぐんでいるのを尻目に、キャロンは再度雛壇に視線を向けた。

「…そうは見えない。わたしには」

 真夏の蒼穹を思わせる青い瞳で、先から静かに座っているだけのヒューを見つめ、キャロンが呟く。

「そういう、軽い男には見えないな」

 誰に聞かせるでもなく言い足して、何か自分でも不可解な溜め息を漏らした、瞬間。

 ふと、俯き加減だった端正な顔が上がり、切れ長の双眸からフィールド全体に注がれていた視線が、微か、水平に動いた。

 ぴたりと。

 目を逸らす暇(いとま)もなく、キャロンの青を見据える、サファイヤ。

 息の詰まるような緊張。

 キャロンは、全身の筋肉を硬直させた。

 一瞬遠のいた喧騒。まさに射竦められたというにふさわしい刹那。時置かず、弾けるような声たちと床の軋みが戻って、キャロンは浅く息を吐いた。

 なんだったんだ、今のは。と当惑し、知らず額に浮いていた汗をぐいと腕で拭ったキャロンの視界を、ルバートという長身の同僚が酷く緊張した面持ちで横切る。フィールドを挟んだ向こう側、雛壇に近い場外を停滞なく歩き進んだ彼は、丁度カインの正面で停まると踵を揃えて敬礼し、それから、傍らに座すヒューに向き直った。

「懲りてねぇなぁ、ルバートのヤツ。今日も医務室に運び込まれる覚悟かぁ?」

 ははは、と笑ったレスターの襟首を引っ掴んだキャロンが、よろめいた青年を引き寄せ耳元で小さく問う。

「ルバートは何をしてるんだ?」

「わわわ! スレイサー衛視に手合わせ申し込んでんの。あの人は場内格闘訓練の責任者でもあって、特務室が人員補充するとき発言する権利があるから、いつでも手合わせを申し出ていい事になってんだよ。つまり、審査して貰っておけば、もしかしたら推薦してくれるかもしれないって、そういう事!」

 ふーん、と尋ねたワリには関心なさそうに言い放ち、キャロンはレスターの襟を放した。

 彼女が姿勢を正してすぐ、雛段に正座していたヒューが上体の振れも少なく立ち上がる。入って来た時は余りにも自然過ぎて、静か過ぎて気付かなかったが、なるほど、武人らしい素晴らしく姿勢のいい人だとキャロンは思った。

 カインに一礼し、雛壇を降りて、また一礼。一般兵士の着用する道着ではなく漆黒の長上着のままフィールド外周に辿り着き、す、と上半身を微かに傾ける。

 流れるような動作。

 キャロンは、視線だけでなく全身が惹き付けられるような気がした。

 緊張した面持ちのルバートがフィールドに踏み込むと、周囲の隊員たちは皆潮が引くように離れた。自分の訓練も大切だが、この機会を逃さず、ヒューの動きを見極めようというのか。

 だから、狭苦しかったはずの正方形には、道着姿のルバートと、長靴を脱いだだけのヒューだけが残される。

「…一瞬で終わるから、瞬きしないで見てろよ、キャロン」

 向かい合った二人が軽く一礼するのと同時、レスターが小声で囁いた。

 腰を落として右足を引く、基本通りの構えを取ったレスターに反し、ヒューは軽く左に肩を開いただけでその場に立っている。無造作とも思えるその姿勢を目にしてキャロンは、これは手強そうだと感じた。

 蓄えた力を発散するように踏み込んだルバートの腕がぐんと伸び、佇むヒューの胴体を狙って水平な打撃が繰り出される。拳(けん)の引き裂く空気の悲鳴まで聞こえそうな緊張。固唾を飲んで見守る群衆の只中、まるで、握った拳と銀色との間に横たわっていた空気に押されるように、漆黒がゆらりと揺れて微か後ろに流れた。

 蹴りだ。そう感じたキャロンは、反射的に視線をヒューの足元に移した。

 背後に倒れる恰好で傾いだヒューの膝が軽く跳ね上がり、上空を通過しかけたルバートの腕を真下から突き上げる。勢いがあればもしかしたら骨さえ蹴り砕くだろう膝の一撃はしかし、腕との接触直前にスピードを緩めた。

 手加減したのではない。

 キャロンの唇が孤を描く。

「降参なしか…」

 自分に挑んで来る気概に敬意を表しているのか、ちょっと痛めつけて降参させるつもりなどあの銀色にはないのだろう。

 確実に腕の真芯を捉えた膝が再度浮上し、水平に奔らせていた勢いを上空に跳ね上げられて、ルバートは前傾していた上半身ごと押し戻されるようによろめいた。片やヒューは余程バランス感覚が優れているのか、重心を背後にずらしたが倒れもよろけもしない。

 漆黒に映える銀色が、ひらりと閃く。

 ヒューは浮いた爪先を垂直に落とし床を捉える動作で、同時に小さく踏み込んだ。それに伴い沈んだ上半身。ルバートは歯を食い縛って転倒を堪え、頭上に浮いた拳をそのまま叩き下した。

 ヒューの膝が折れ、ついにフィールドに到達する。そのまま、先から残していた左足で床を蹴り離した銀色は、斜め右に傾いだ体(たい)を右肩に引き寄せるようにして転がった。

 あの長身が嘘のように縮み、前転。ルバートが叩き下しの勢いに負けて前傾した身体を立て直すまでの刹那でヒューは、既に彼の背後に回り立ち上がっている。

 バランスを崩しながらも強引に身を捻り足払いを掛けようとしたルバートの首筋に落ちる手刀、一撃。呻きも叫びもしないまま、急激に勢いを失った道着の塊が床にぐしゃりと潰れた。

 それを見届けて。

 ふ、と息を吐き。

 長上着の裾を捌いて、一礼。

 しんと静まり返った室内のあちこちで、苦い吐息が漏れる。

 フィールド外周を埋めていた隊員がそそくさと倒れたルバートに近付き回収するのを目端に捉えたまま、キャロンは無言で立ち上がった。

「キャロン?」

「ん? ああ、なんでもない」

 彼女は、訝しそうな声を上げたレスターに軽く手を挙げてから、フィールドと外周を隔てる白線を踏まないように注意しながら歩き出した。三々五々領域内に戻る隊員たちの緊張が、さっきまでとまるで違う。

 見せ付けられて、実感するのだ。あれが、到達点。

 先より硬い掛け声を掻き分けるようにして進むキャロンは、雛壇から目を外さなかった。動き回る隊員の向こうに見え隠れする、赤い髪と黒い髪。そのふたつからやや離れた場所にあの銀色が据わったのを確かめてから、ゆっくりと息を吸った。

 目が離せない。

 あの、苛烈な銀色は。

 フィールドを囲む白線の外側を半周回ったところで、キャロンはようやく雛壇の前に到着した。ルバートのしたようにカインに敬礼し、不思議顔の上官に微笑みかけてから、身体全体で…ヒューに向き直る。

「い?!」

 と、おかしな悲鳴を上げたのはカインだった。

「王下特務衛視団警護班班長、ヒュー・スレイサー殿とお聞きした」

「…ああ、ご覧の通りな」

「お初にお目にかかる。わたしは、一般警備部第二十一連隊第六班キャロン・ヒス・ゴッヘル」

「知ってる」

 蒼褪めて奇声を発しようとしたカインを羽交締めにし、且つその口を手で塞いだジリアンが、雛壇の奥まで後退。ばたばた暴れる…どうやら恋人?…を情け容赦なく締め落とした青年を横目で確かめつつ、ヒューは素っ気無く答えた。

「是非、手合わせ願いたい」

 軽く頭を下げたキャロンの台詞を聞いてしまった周囲の隊員が声にならない悲鳴をあげるものの、ヒューは軽く肩を竦めて…立ち上がったではないか。

 室内を、言い知れない恐慌が席巻した。

 カインに意識があったら泣いて停められたかもしれないが、残念ながら彼は今横暴な恋人の膝枕で完全に白目を剥いている。

「手加減しないが、いいか?」

「それで構わない。特別扱いされるのは性にあわない」

 きっぱりと返った答えに、ヒューは苦笑した。

「警護班(ウチ)の部下でも手加減を要求してくるのに、随分剛毅な事だ」

「手加減してくれと言ってやってくれる相手になら頼んでもいいが、スレイサー衛視には無駄だろうから、やめておく」

「同僚に、やめておけとでも言われたか?」

 笑いを含んだ声で問いながら一礼し、フィールドに入る、ヒュー。

「いいや」

 向かい合い、睨み合い、キャロンは薄く微笑んだ。

「そんな温い人ではなさそうだと、わたしが思った」

 双方、一礼。

 なぜかヒューはそこで小さく、及第点だな、と呟いた。

            

           

 ルバートの時とは趣の違う緊張が道場を押し潰す。

 最早息を詰めてどころか呼吸も忘れて食い入るように見つめるギャラリーなど構わず、二人は同時に重心を下げ腰を落とした。

 先とは違って基本に近い迎撃の構えを取ったヒューを警戒しつつも、キャロンは一気にその懐まで踏み込んだ。上体を揺らさず摺り足で接近し、間合いを詰め切った瞬間、左右の腕を極小の時間差で突き出す。

 霞むように伸ばされたキャロンの右手が長上着の合わせ目を掴んで捻(ねじ)り上げ、左手が奥襟を取るのとほぼ同時に腰を捻り、突っ込むような勢いでヒューの胸に当てられた右肩。瞬間銀色は口の端を吊り上げて、頬を掠る道着の袖を下から掴んだ。

 いい度胸だと思った。

 キャロンの、膝から沈んだ上半身。捻る力に巻き込まれて前傾したヒューの身体が、その背に密着する。黙っていれば無様に床を転がるだろう投げ技を仕掛けられたと既に気付いていた銀色は、腰を使った投げの動作が来る直前、左足で掴んでいた床を意図的に蹴り離した。

 キャロンの意思ではないタイミングで浮いたヒューの長身。更には、真横に転がろうとする力。既に投げの体勢に入っていた彼女は不安定な重心を揺さぶられて、ヒューの襟を掴んだまま斜め前方に倒れる。

 下手をすれば顔から突っ込みかねない状態だったが、しかし、完全にバランスを失ったキャロンの身体はきりもみするように半回転し、ズダン! と派手な音と共に床に叩きつけられたヒューの上に、仰向けに転がった。

 天井でちらつく照明を一瞬呆然と見つめ、すぐにはっとして飛び起きるものの、ついと差し出された爪先を足裏と床の間に差し込まれ、掬われて、どすんと尻餅を突く。

「さすがに、投げ技はないと思ってたんだがな」

 何の勢いもつけずにひょいと上半身を起こしたヒューが、乱れた銀髪をかき回しながら可笑しそうに呟く。薄い唇の端を飾った意味不明の…胸の冷えるような笑みを見つめて、キャロンは問うた。

「ないと思っていたのに仕掛けられて、でも、これか?」

 これ、とは。

「これ、ね」

 勝者もなければ敗者もない、つまりは相打ち、またはただ縺れ合って床に転がっただけの結果が不満だと、キャロンの目が言う。

 床に座り込んだまま睨んで来るキャロンに端正な横顔を晒したまま、ヒューは眩しい銀髪をさらりと撫で付け、顎を上げて、笑った。

「上等じゃないか?」

 言い置いて自分の膝に手を突いて立ち上がり、長上着の裾と乱れた襟元を正したヒューが、今だ床に座ったきりのキャロンに一礼し、背を向けて遠ざかって行く。一体何がしたかったのか。ヒューはそのまま、落ちたカインを抱えたジリアンに手を挙げて見せると、黙って道場から出て行ってしまった。

 途端、わっと起こる歓声。

 駆け寄って来たレスターたちが、あのヒュー・スレイサーを床に転がしたのがどうこうと興奮した様子でまくし立てるのを聞きながら、キャロンは握った拳を床に打ち付けて歯噛みした。

「手加減などしないと言ったくせにあの男、最後の最後で、あれはなんなんだ!」

 怒気満点の呟きを耳にして、レスターとリリーが顔を見合わせる。

「投げが崩れたわたしは、あのまま自分だけ床に叩きつけられるハズだった! あの男なら、倒れるわたしになど巻き込まれず着地して体勢を立て直せただろう!? それなのにあの男、最後の最後でわたしの腕を掴んで自分の上に落としたんだ!」

「…いや、やっぱそれってほら、キャロンに怪我とかさせたら連隊長の首が飛ぶとかさ、特務室には連隊長の妹さんも居るとか、そういう柵? があったんじゃないかと…」

「ムカつく! あのスカした二枚目面、機会があったら絶対ぶっ飛ばしてやる!」

 と、フィールドの中央に胡坐をかいて座り、固めた拳を突き上げて吼えたキャロンの勇ましい背中を眺めつつ、ジリアンは、面白そうなのでヒューには黙っていようと心に決めた。

  

   
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