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番外編-8- 平和的同時多発恋愛事件

   
         
(8)ルードリッヒ・エスコー

     

 誰もいない執務室。一人、溜まった資料整理のために登城していたメリル・ルー・ダイは、纏め上げたデータベースのチェックを行いながら、今日何度目かの溜め息を吐いた。

 何にせよ、不慣れな仕事に戸惑い手際の悪い自分に根気よく付き合ってくれて、言葉少な…極端に、と付け足しておく…ながら丁寧に指導してくれるあの人に感謝はしている。

 文字列の流れるモニターに映る、自信なさげな顔。アンのように目指すものがあるでもなく、支度された場所におどおどとやって来てじたばたと暴れるしかない自分。

 まさか、そんな自分に「好き」だと言ってくれる人が居ようとは…。

 しかも。

         

「好きって…えぇええ! って、にーさんそれは歓ぶ所でしょう!」

 まるで我が身に起こった事のように頬を紅潮させたアンに、しかし、メリルは当惑の答えを返す。

「嬉しくないんじゃないっていうか…びっくりしちゃって気持ちの整理がついてないっていうか…、でもね、アン」

 当惑の。

「好きだって言って、そのまま無言で帰っちゃったんだよ? ボクはどうすればいいのさ!」

       

 その瞬間を思い出し、メリルは一人で耳まで赤くなりデスクに沈んだ。

 親しくしてくれているのだろうとは思う。廊下で擦れ違えば薄い笑みを零して会釈し、何か判らないからと資料を持って尋ねれば迷惑そうな顔一つせず指導してくれて、少しは仕事に慣れて来たなと副長に褒められたと伝えれば、無言で微笑み頷いてくれる。

 だから、嫌いではない。

 嫌いではないから、どうしていいのか判らない。

 嫌いではないから…、いつか嫌われてしまって二度と会釈する事もないような位置関係になるのが、怖い、のか。

 乱雑に置かれていたキーボードを抱えてデスクに突っ伏したまま、メリルは紫がかった瞳を潤ませて鼻を啜った。もう、意味なく泣きたい気分だ。仕事が溜まっていなければ、今すぐ家に帰って自室に篭城したい。

 流れる文字列の中にエラーを発見したメリルは、無意識に読み込みを中止して不必要なデータを削除した。その間もくすんと鼻を鳴らしたり無意味にキーボードをカタカタ揺らしたりしたが、作業は停滞なく行なわれ読み込みは再開する。

 好き。だからどうなのかが判らない。と困惑した声で切々と相談したメリルに対してアンは、兄の望むすっきりした結果を与えてはくれなかった。

 弟は言う。

        

 どうしたいとか、どうなりたいとか、そういう問題なんかじゃなくてね…、ただ、今は「好き」だって判って欲しいって時が、誰にでもあると思うんだ、ぼくは。

        

 やや俯いて、微かな孤を描いた唇で内緒話をするように呟いた、アン。

 それじゃぁ無責任だと食い下がったメリルの顔を驚いたように見つめてから、少年はふと今度こそ明らかな笑みを零した。

 意味不明の。

 透明で深い笑み。

 残りのデータがエラーもなく読み込まれ、個人書式の臨界式ディスク書き込み確認のダイアログボックスがモニターの中央に現われて、メリルはのろのろと身を起こした。とりあえず、仕事を片付けようと気分を切り替える。悩むのはそれからだ。

 小隊長であるイムデ少年と副長ベッカー、それぞれのブラックボックスをシステムに接続し、ロックを解いて書き込みを命令する。使用している臨界式文字の圧縮率によって書き込み時間が変わるらしいが、毎度の事ながら、イムデのディスクよりもベッカーのそれは半分の時間で吐き出されて来た。

 スライドしたトレイから黒い円盤を取り出しつつ、メリルが苦笑にも似た表情を浮かべる。殆ど小隊長室に引き篭もってデータをいじくっているかゲームをしている(…)イムデ少年に代わって小隊に命令を下す立場にあるあの副長は、普段酷くだらけていてやる気ないが、実は優秀な魔導師なのではないかと思った。

 そういう空気は微塵もない人だけれど。

 魔導師系貴族として新興したばかりのラド家は、「既に」没落が決まっていると貴族会では噂が出ていた。それを小耳に挟んで来た長兄が迂闊にも「そんな副長の居る班で大丈夫なのか」などと言い、捻りもなく「何も知らないくせに余計な事を言うな」と思わず言い返して喧嘩したのは、たった二週間前だ。

 メリルは、急に可笑しくなった。

 アンの「あの一件」以降、兄と衝突する回数が増えたな、と。

「…ボクも、変わったのかな」

 知らず呟いて、ようやく書き込みの終了したイムデの臨界式ディスクを取り出し、さて次の資料はとデスクの引き出しを開けた途端、ノックもなしに、且つ、ぶち壊れるような勢いで執務室のドアが弾けたではないか。

 ぎょっとして椅子から腰を浮かせたメリル。

 そのメリルに、見開いた…熱っぽいペパーミントグリーンの双眸を向けて来る。

 タマリ・タマリ。

「ありゃりゃ。お留守じゃなかったのねん、第九小隊(ここ)」

 一旦は全開になったドアに体当たりして閉じ、更にはノブを両手でしっかり掴んで固定したタマリが、へらりと笑う。留守だったらドアは開かないでしょうとメリルは思ったが、時置かず、タマリがへなへなとその場に座り込んでしまったのに驚いて、言うには至らなかった。

「タマリ魔導師!」

「…あー、うんうん。なんでもねぇのでお気になさらず。んでさ」

 なんとかかんとか伸ばした手でドアをロックしたタマリが、苦しそうな息を吐いてからメリルに顔を向け、床に座り直す。どう見ても熱があるか、体調がすこぶる悪い風なのに、ふざけた口調だけが変わらない。

「悪ぃんだけど、ちょっと部屋空けてくんない? なんか不都合起こったら、アタシがむーちゃんかベッカーに謝っとくからさ」

「でも、タマリ魔導師をそんな状態で放って行くなんて…」

 近付いて来ておろおろと周囲を見回すメリルの気弱そうな顔を見上げたタマリは、床に手足を投げ出したまま力なくはははと笑った。何が可笑しいのか。笑われたメリルは微かに眦を険しくして、ぐったりと俯いたタマリの少女っぽい顔を覗き込もうと、動かない黄緑色の正面に膝を置いた。

「もう話しすんのも面倒臭ぇのよ、アタシ…。だから、とっとと部屋空けてどっか行ってくんねぇ? ああ、だいじょーぶだいじょーぶ。ここでアタシほったらかしたって、誰もあんたを怒ったり、責任取れとか言ったりしないから」

 額に冷や汗を浮かべて俯き、浅い息の合間に消え入りそうな声を混ぜたタマリの可憐な唇を飾る、明らかな笑み。貼り付けたような笑顔。紛い物の表情。

 それを見た、瞬間、メリルの中でぷちりと…スイッチが入る。

 なぜか、だ。今日に限って、かもしれない。いつもなら弱々しくも、はいそうですか、と退場するだろうメリルはしかし、弱ったタマリの吐いた強がりに対して猛烈にハラを立てた。

「ボ…ボクが怒られるとか怒られないとか、そういう問題じゃないです! ボクが何をしてもしなくても、怒りたい人は怒るしそうでない人は関心さえ示しません、どうせ。だから、そんなのはどうでもいいんです。

 ボクは、具合の悪そうなタマリ魔導師を心配してるのに、そういう風に言わなくちゃ判って貰えないんですか? 心配してますって言わなくちゃ、手を貸してもダメなんですか? ボクは、ボクの心配しかしちゃダメなんですか!」

 気が弱いと噂のメリルの剣幕に、思わず、タマリはぽかんと口を開けて顔を上げた。なぜか涙目で、しきりに癖の強い金髪の毛先を弄り回してそっぽを向いているのが癇癪を起こした子供みたいだったが、ここまでストレートに心配しているといわれてしまっては、さすがのタマリも迷惑だと言い返せない。

「えーと…ルー・ダイ事務官?」

「なんですか」

「…ちょっと、落ち着こ?」

「ボクは冷静です!」

 嘘だよ、それぜってー嘘。とミナミばりに内心突っ込んだタマリを、小柄なメリルが肩を貸して立ち上がらせる。色々抵抗してみたがどうやら限界間近らしいタマリの身体はぐにゃぐにゃと力なく、元々病弱で体力のないルー・ダイ家の次男はその重さに負けてよろめいた。

「危ないから、危ないって! タマリ、一人で歩けるから!」

 目と鼻の先にある応接セットのソファまで移動するのに、まるで重病人が二人で支えあっているみたいに一歩一歩慎重に進む、メリルとタマリ。途中タマリはさして効果があるとは思えないながら弱々しくもがいてみたが、彼を引きずるようにして進むメリルはがんとしてその腕を解こうとはしなかった。

 ようやくソファに辿り着いて座面にタマリを寝かせたメリルは、肩で息をしながらも執務室備え付けのシンクに駆け寄り、ポケットから取り出したハンカチを濡らして絞ると、されるがまま呆然と寝転んでいるタマリの傍に戻った。

 不意に額を撫でたひやりとした感触に、タマリが小さく肩を震わせる。でもその冷たさが、過熱した頭を冷ましてくれているような気もした。

 目を閉じて、ふっと短く息を吐いたタマリの顔を不安げに覗き込んでいたメリルは、彼の表情から笑みが消えて、こちらもようやく、肺に溜まっていた息を吐く。なぜなのか、あの笑顔ではだめなのだと反射的に思った。あんな笑顔に騙されて撃退されるような自分なんて、…許せない。

 許されない。

 ソファの手前にぺたりと尻を落として座り込んだメリルは、目の上に載せたハンカチに手を置いて大人しくしているタマリを見つめているうちに気付いた。

 アンが言った。

 判って欲しい時、という意味。

「…小隊の方に連絡して誰かに来て貰いますか? タマリ魔導師」

 言いつつメリルが、タマリの額に張り付いた黄緑色の髪を指先で払う。

「それとも、もう少しここに居ますか?」

「………」

 返らない答え。

 メリルは口元を緩い笑みで飾り、床に手を突いて立ち上がった。

「小隊執務室に誰かを呼びに行って来ますから、ボクが戻るまでじっとしていてください。きっと、みんな心配してます」

「メリちゃんてさぁ」

 スラックスの埃を払って長上着の裾を翻したメリルが答えないタマリに背を向けてすぐ、小さな声が溜め息のように漏れる。

「キレたら、アンちゃんと似てるわ」

「―――こんなふがいなくても、一応、兄ですから」

 微かに振り返り、笑いを含んだ声を返したメリルがドアに近付くと、その、ロックされた扉のすりガラスの向こうに、誰かが立っているらしい陰影が浮いた。

 ドアを塞ぐような…。

 メリルはドアの前で一度立ち止まり、深呼吸して、ロックを外しそれを引き開けた。

 佇む、鮮やかな青。

 ゆっくりと顎を上げ、二メートル近い高さにあるその人の仏頂面を見上げてから、メリルは丁寧に頭を下げた。

「先日は…ありがとうございました。嬉しいです」

 一瞬緊張したらしいその人…ウロスの気配がほっと緩んだのを感じて、顔を上げたメリルも薄く微笑む。

 答えを望まず、ただそうだと告げたい気持ち。

 始まりと。

 継続と。

 節々に。

 溢れるように。

 誰しもの胸の内に湧き上がるだろう。

 柄にもなく、見上げるような大男が髭に覆われた頬を緩め、少し照れた様子で剃り上げた形のいい頭に手をやる。なんだかそれが新鮮で、無愛想に見えるこの人もこんな風に困ったりするのかと思って、メリルはまた少し笑みを濃くした。

「………、今度、ランチでも」

 短く問われて、青年が恥ずかしげに頷く。

「喜んで」

 ようやくそこで、廊下を突っ走って来るのだろう派手な足音に気付いたメリルが紅色に染まった顔を上げた途端。

「――おめーら、アタシが具合悪ぃつってるのに、何をいちゃついてんだよ」

 ソファに寝転んで腹の上に手を組んだ、ミイラみたいなポーズのタマリが、メリルの背後で憮然とした声を上げた。

 慌てて何か言い訳しようと高速で振り返ったメリルの潤んだ瞳が捉えたタマリは、声音と打って変わって、なんだか少し嬉しそうににやにやと笑っている。それで今頃になって見られていたのだと思い出した青年が細い首まで赤くなって顔を伏せ、今にも床に座り込みそうになったのを、咄嗟に腕を伸ばしたウロスが支えた。

「いーねー若いモンは」

 完璧に拗ねた声で言い放ったタマリがごそごそと身じろぎ、ソファの中で横を向き背中を丸める。弱々しい背中。どうしよう、と当惑したような顔を上げたメリルにウロスは黙って、廊下の先を見ろと視線だけで促した。

 足音。

 駆け込んで来る人影。

「…? エスコー衛視…でしたっけ?」

 確かめるように見上げて来た青年に頷いてから、ウロスが軽く手を挙げる。

「ご迷惑をおかけしました、メリル事務官。今、持って帰ります」

 なんとなくいつも笑ったような印象のある人だと思っていたルードリッヒの、嫌に真剣な表情に気圧されてはいと答えたメリルの前で会釈し、しかし歩調を緩めず執務室に踏み込んだ青年は、ソファの手前でようやく足を停めた。その背から発散されている怒気に、メリルがうろたえる。

「タマリ」

 背中越しのルードリッヒの声は、酷く怒っているようだった。

「…ごめん」

 まるで床に転がすように漏れた、タマリの弱々しい声。

 ウロスは、正直仰天した。無言で。

「…? タマリ?」

 それがただならぬ事だったのか、怒り心頭だったはずのルードリッヒまでもが俄かに心配そうな声を上げ、ソファに歩み寄って背を丸めたタマリの顔を覗き込む。

 不意に伸ばされた、細い腕。

「疲れた」

 身を屈めたルードリッヒの首に巻きついたそれに手繰り寄せられて床に膝を置いた青年が、少女のように華奢な身体を両腕でしっかりと囲う。

「だったら、こんな騒ぎ起こす前に言いなよ」

 呆れた溜め息を含んだ声で返しつつも、壊れ物でも扱うかのように丁重にタマリを抱き上げて、その小さな頭を自分の肩に押し付ける、ルードリッヒ。

「―――疲れた…」

 耳元で漏れた、小さな声。

「うん。大丈夫だよ、誰も見てないよ。

 ぼくが」

 遅れて現われたスーシェとケイン、ブルースと、イルシュに停まれと手で示すウロスの気配を間近に感じながら、メリルはなぜか、酷く哀しくて泣きたいような、切なくて、しあわせな、複雑な気分になった。

      

 ぼくが、きみを、まもってあげるよ。

      

 それは、答えを望まない、望めない、愛の囁きみたいに聞こえた。

  

   
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