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番外編-8- 平和的同時多発恋愛事件

   
         
(15)ドイル・バスク

     

 執事ドイル・バスクがラド家に上がった時、一人息子のベッカー・ラドは王立中等院初年度生の十二歳で、しかし、初等院後期二年から学校に爪先も向けていない、不登校だった。

 元々そのベッカーの家庭教師兼世話係として派遣されて来たドイルは当時、若干二十二歳、王立大学院の教師課程を中退したばかりで、両親の残した借金を返済するために家財道具を売り払い最早住む場所もないような状態だったから、大学院時代の恩師が世話してくれた住み込みのこの仕事に飛び付いたのだが、正直、どこか居丈高で取っ付き難いラド夫妻は第一印象からして苦手だったし、昼間からカーテンを閉め切った薄暗い部屋の中で何やら得体の知れないものを弄り回しているベッカーを見た瞬間には、とんでもないところに来てしまったと後悔したものだ。

 執事頭が、今日から彼がぼっちゃんに勉強を教えてくださいますと一方的に言い、ドイルをその場に残して消えた後の気まずい緊張を、彼は今でも覚えている。

 何か、見てはいけない秘密を見てしまったような、そんな気分だった。

 置き去りにされて戸惑うドイルに背を向けていたベッカー少年は、午前と午後にそれぞれ二時間ずつ勉強するからタイムテーブルを作って明日また来るようにと、奇妙なほど落ち着いた口調で告げた。それ以外の時間は、執事長の指示に従えとも。

 酷く冷えた部屋に似つかわしい、酷く冷えた声で。

 翌日、言われた通りタイムテーブルを作ってベッカーを訪ねると、今度は学力査定試験を申し込まれた。なるほど、もう二年近くも学校に通っていないのならばどの辺りから授業を始めればいいか判らないからという事になって、ドイルはその日ろくに眠りもせずテスト用紙を作った。

 三日ほどかけて全てのテストを終え採点してみれば、初等院で習う殆どの範囲で及第点。中等院初年度生の教科書から抜粋した問題も、ベッカーは簡単に解いてしまっていた。

 加えて言うなら、ベッカー少年は「学業」に関する事柄ならばおおよそ、高等院初年度生辺りまでの範囲を全て理解していた。

 だから、ドイルは訊いた。

「誰に教わったのですか?」

「暇だから、独りで覚えた」

「では、…なぜ、学校に行かないのですか?」

「もう勉強する事がないから。行っても意味がない」

 暗い金色の瞳が、凪いだように静かに、ドイルを見上げていた。

 それから、十六年経った。

 ドイルは今でも思う事がある。

 なぜあの時変な意地を張って、ではあなたの学びたいものを教えますなんて無茶を言ったのか。料理人も執事も執事頭も辞めたあの時、どうして自分もこの薄暗い屋敷を見限らなかったのか。

 こういう、ワケの判らない事態が起こると、必ず思う。

 珍しく、主人であるベッカーが昼過ぎに出掛けておかしな時間に帰って来た日、暫くして、けたたましい呼び鈴の音に急かされ正面扉を開けてみれば、なぜか、ドレイク・ミラキと見知らぬスーツ姿の男たちが突っ立っていた。

「いらっしゃいませ」

 丁重に頭を下げてドレイクたちをエントランスに招き入れたドイルを、リリス以下がぽかんと見上げている。褐色の肌に見事なエメラルドグリーンの双眸に、ぴっちり撫で付けた豪華な金髪。

「ベッカーは?」

「お帰りでございます」

 先んじて、ミラキ邸エントランスの半分もないホールを突っ切り、広間とは名ばかりの応接室にドレイクたちを誘導しながら応える、ドイル。

「…今日の事よ、聞いてっか? ドイル」

「いいえ」

 暇潰しに掃除し過ぎて絨毯が擦り切れると、つい先日ベッカーに笑われたばかりの応接室に到着するのと同時に尋ねられて即答すると、ドレイクは自分の額に手を置いて天井を仰いだ。

 どうぞと促され、頭を下げたきりのドイルの前を通過したドレイクは、適当な場所に腰を下ろしながら呆れたように溜め息を吐いた。

「とりあえず、ベッカー呼んでくれっか?」

 承知いたしましたと会釈して廊下に出、頭を下げたまま両開きのドアを丁寧に閉めたところでドイルは、ドレイクを真似て額に手を置き、天井を仰いだ。

「…なんで、リリス・ヘイワードが屋敷に来るんだよ…」

 なんだか、酷く嫌な予感がした。

          

               

 襟までぴっちりと糊の効いた小奇麗な白いシャツ。細長い足をますます細長く見せる黒いパンツ。やはり、身なりは悪くないのにどこかくたびれた印象だなと、ようやく現われたベッカーに会釈しながらリリスは思った。

「やっぱ来たか」

 だからどうという訳でもない。そう思ったから口に出した、程度の短い感想を口の中で呟きつつ、ベッカーは会釈するリリスたちに軽く手を挙げて座れと示す。

「まぁ、予想通りの結果ってトコだろうよ」

 ベッカーを差し置いて上座に据わったドレイクが、肘掛けに頬杖を突いて偉そうにふんぞり返り、にやにやと笑っている。それに一瞬苦笑ともなんともつかない薄笑みを向けたベッカーは、すぐ真顔になって短く溜め息を吐き、椅子の背凭れに身体を預けた。

「予想でもないでしょー。なんだってねぇ、「善意の第三者」ってのが一番美味しい位置なんだし」

 それを聞いて、今度はドレイクが苦笑する。

 色々と、思う所はあった。

 しかしドレイクはそれを完全に黙殺…見殺しに、かもしれないが…し、気分を変えて、リリスたちに顔を向ける。

「紹介、いるか?」

「いらんね。…なんなら、監督のプロフィール生年月日から言って見せようか?」

 不意に口の端を吊り上げて意地悪く笑ったベッカーが、暗い金色を動かし居並ぶ客人を見つめる。その遠慮ない視線に監督やセツは居心地悪そうにしたが、リリスだけは真っ直ぐに彼を睨み返していた。

 不穏な空気。

 ドレイクは必死に笑いを堪えつつ、それでは、とリリスたち三名に向き直った。

 ベッカーが電脳魔導師隊小隊副長だと告げると、セツと監督は少し驚いたような、気まずいような顔をした。しかしすぐ表情を改めたセツが何か言おうと口を開いたタイミングで、ベッカーが面倒そうに話し始める。

「別にさぁ、約束事…ミラキから訊いたろ? それ守ってくれんならおれはとやかく言わないから、安心していいよ。

 そもそもおれは屋敷を貸すって「言う」だけで、実際あんたらの面倒? 見んのはドイルなんだし」

 どうせ不規則勤務で週の半分以上屋敷に居ないベッカーは、セツにも、監督にも、リリスにも何も言わせないまま、ドイルが茶器を満載したワゴンを押して入って来るなり、飄々と席を立ってしまった。

「っつーワケで、話し合いとか挨拶とかの面倒事は、全部ドイルとやって」

 呆気に取られるリリスたちを残してひらひら手を振ったベッカーは、ワゴンの前で渋い顔をしているドイルに爪先を向けると、際限なく傷だらけのローファーを引きずるようにしてテーブルから離れて行った。言いたい事は判る。それが間違っているとも思わない。でも、他に言い様もあるだろうと、ドレイクは思ったが。

 直接顔を付き合わせる、いわば「現場」の者同士が話し合うのは当然か。どうせ「主人」などというのは、侍従の都合も顧みずふんぞり返って頷いているだけで、実際事が始まれば頼りにされず、しかし、責任は取らされる、と。

 ワゴンの傍に寄ったベッカーは、自分よりやや背丈の劣る執事の耳元に唇を寄せ、何事かを囁いた。それに嘆息で応え、手にしていた茶器を主人に押し付けたドイルが、足早にソファへと折り返して来る。

 さすがにベッカーと同じ場所に腰を下ろしはしなかったものの、ドイルはテーブルの間近で手早く自己紹介した。握手はなく、丁寧に頭を下げた執事に気圧されてソファから腰を浮かせたセツが居心地悪そうに頭を下げているのを、ベッカーの背中が笑っている。

「まず、屋敷の間取りをご覧頂いてよろしいでしょうか、旦那様」

 振り返ったドイルの発する「旦那様」部分に含まれた棘に気付いたドレイクは、必死になって笑いを堪えた。

「はいよ」

 手ずから淹れた自分とドレイクのお茶だけを持ってソファに向き直ったベッカーが、腑抜けた答えを返す。それでは、と促された監督とセツ、何か言いたげなリリスが執事に連れられて応接室を出ると、ついに、当代ミラキ卿が吹き出す。

「おめー、どこまで行ってもその調子か」

「体裁なんか取り繕ってもしょうがないからさぁ」

 今更。と、ベッカーが疲れたように付け足す。

 知らぬ仲ではないからか、ドレイクはそれ以上何も言いはしなかった。周囲に関心がない訳でもないのに突っ込んで関わろうとしないベッカーの態度はお世辞にもいいとは言えないが、そうなってしまう背景が判らないでもない。

 ただぐだぐだと流されているようにして、強情に、無関心を装う。

 そう広くない屋敷を見て回ったリリスたちが応接室に戻った時、ドレイクはもう居なかった。テーブルに残された茶器の底に一口残った薄い琥珀の液体はまだ冷め切っておらず、ベッカーの前に置き去りの二杯目は、殆ど減ってもいない。

「一応ですね、シナリオの内容をバスク執事にお知らせするようにお話しました。それによって使用させて頂く部屋の…」

 いらないとは言われたものの、主人が何も知らないのでは都合が悪いと思ったのだろうセツが、しきりに額の汗を拭きながらスケジュールの調整や期間について説明する。それをベッカーは聞いているのかいないのか判らない緩い表情で受け流し、最後に、いいよ、なんでも。と素っ気無く応えた。

 それに、なぜかリリスが微か頬を引き攣らせる。何か…我慢の限界がすぐ目の前にあるような表情だった。

 ドイルの淹れてくれたお茶を慌しく頂いたセツと監督は、どんどん傾いて行くリリスの機嫌に怯えるように肩を竦めて目配せし合い、引き攣った笑みで「そろそろお暇しましょう」と言い、縋るように佇む執事を見た。

「んー、じゃぁ、ま、良い物が出来るといいね、つうコトで」

 腑抜けた儀礼的な言葉。

 だらしなく椅子に沈んだまま、既に陽の落ちた窓の外に投げられていた眠たげな金色がすっと流れて、固い空気を発するリリスの顔を捉える。

 ふと、温い金色を掠めた苦笑。

「ミラキ邸まで皆さんを送って差し上げろ、ドイル」

 ラド邸からミラキ邸までは、上級居住区内部を走るフローター専用道路を使っても三十分はかかる。片や中心部、片や、一般居住区で言えばスラムの上空あたりにあるのだ。

 背凭れ越しに軽く振り向いたベッカーに言いつけられてドイルが一礼しようとした、まさに刹那を突いて、リリスはテーブルに身を乗り出した。

「一つだけ教えて頂きたいのですが、ラド副長」

「…まぁ、答えられるコトなら断わる理由もないんだけどねぇ」

 噛み付くような勢いで言われて、ベッカーが肩を竦める。

「なぜ、屋敷を貸してくださる気になったんですか」

 問われて。余りにも真剣な顔で訊かれて。

 ベッカーはつい、笑ってしまった。

「誰も貸してくれなかったら、困んでしょ?」

「困ります」

「だったらさぁ、別に感謝してくれなくていいけど、ああ良かったなまた映画が作れて、って、そういう風に思っとけばいいんじゃないの?」

「良くありません」

 即答だった。

 セツは慌て、監督は悲鳴を上げかけ、ドイルが唖然とする。

 リリスはそんな周囲の阿鼻叫喚など素知らぬふりで、金色の光を内包した碧の双眸でじっとベッカーを睨んでいた。呆れたように、吐き出すように笑ってからぴしゃりと自分の顔に掌を当て、くつくつと薄い肩を揺らす正体不明の「警備兵」を。

「あんまり、難しく考えんのやめようぜ」

 指の隙間から漏れた、溜め息交じりの声。

 金色の目。

「ミラキじゃない「ある人物たち」に恩を売っておきたかった。つったら、信じる?」

 今度は、微か笑いを含んだ、面白がるような声。

 瞬き一回にも満たない時間硬直したリリスからごく自然に視線を逸らしたベッカーは、顔に当てていた手をばたりと膝に落として、また一つ、疲れたように溜め息を吐いた。

 それっきり会話もなく、無言で頭を下げたリリスが始めにソファを立つと、セツと監督も慌しくベッカーに挨拶し部屋を辞す。短い廊下を経てエントランスに到着し、フローターを正面に回して来るからと通用口からドイルが消えてすぐ、セツは、相変わらず額に浮いた汗をせっせと拭きながらリリスを叱る口調で何かを言い募ったが、当のムービースターはそれを殆ど聞いていなかった。

 急に押し黙ってしまったリリスを訝しがりつつも、ドイルに促されたそれぞれがフローターに乗り込むと、今度は監督が、窓からラド邸の外観を眺めつつ脚本(ほん)を少し書き直そうとか、少し汚れた絨毯を持ち込もうとか、たった今あの屋敷の応接室を占めた言い知れない緊迫など忘れたように、興奮して話し始めた。

 右から左に通り過ぎる、言葉。

 リリスは、一般居住区で見るのよりも格段に鮮やかな星空をガラス越しに見つめ、ぎゅ、と奥歯を噛み締める。

 バレていると感じた。

 彼は、「知っている」。

 フローターが、滑るようにしてミラキ邸正面玄関前に到着すると、出迎えのアスカが後部のドアを恭しく開け放ち、監督、セツと順番に降車する。それで、最後に残ったリリスの沈んだ表情をバックミラーで見てしまったドイルは、仕方なく口を開いた。

「嘘ですよ」

「え?」

 唐突に言われて、リリスがはっと顔を上げる。

「あれは、嘘です」

 何を言われているのか判らないのだろうリリスの惚けた表情からフロントガラスの向こうに広がる星空に視線を移し、ドイルは薄く微笑んだ。

「…旦那様は、そういう駆け引きに向かないんです」

 それでようやくドイルの言葉の意味に気付いたリリスは、助手席のヘッドレストに掴まって身を乗り出した。

「じゃぁ、なんで? ぼくはただ…」

 どうしてなのか、知りたかっただけだ。

 あの、全てに倦んだような、疲れたような、諦めたような人が、何かを成そうとする自分たちに手を差し伸べる気になった理由が、ただ、知りたい。

「ああ言えば、あなたが口を閉じると思ったからです。実際、そうなりましたし」

 なかなかリリスが下車しない事を訝しんだアスカが、軽く身体を折って運転席を覗き込むと、ドイルは手を挙げて少し待てと示した。

「言いたくないんです」

 十六年前から。

「じたばたしたくないんです」

「……」

 ドイルの断定的な言い方に、リリスが微か眉を寄せる。

「判らなくて当然です。ですから、どうぞ、旦那様には関わらずにいて差し上げてください。そうすれば、不快な思いをする事もありません」

 まるで独り言のように呟いてからドイルは運転席を離れ、後部ドアを開け放って、丁寧に頭を下げた。

「お疲れ様でした、リリス・ヘイワード様」

 質問される事も答える事も閉じてしまったドイルの背後、ビロードの闇の上で、流れ星が一つ、刹那で燃え尽きた。

  

   
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