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番外編-8- 平和的同時多発恋愛事件

   
         
(14)スーシェ・ゴッヘル

     

 散会まではまだ間がありそうなのに、ミラキ家執事長であるリインに正面エントランスでお客様の見送りを言いつけられたアスカは、手にしていたトレイを別の執事に渡して会場を後にした。誰も見ていないと知りながらも丁重に頭を下げて扉を閉め、ようやく、ほっと胸を撫で下ろす。

 職務に忠実で真面目。主人ドレイクから直々に離れ…ハルヴァイトとミナミ…の面倒を見るようにと言い渡されるほど執事の中ではリインの次に重用されていながら、この青年、意外なところで抜けているものだから、何か失敗しはしないかと随分緊張していたのだ。

 今日も塵一つ落ちていない廊下を抜けて正面エントランスに到着したアスカは、クローク代わりに設けられている衝立の中を覗き込んで、思わずきょとんと目を瞠った。

「…イルくん、何してるの?」

 オリーブ色の目を縁取る長い睫がぱちぱち瞬くのを上目遣いに見ていたイルシュが、小奇麗なスーツに包まれた肩を竦めてあははと笑う。その間に衝立を躱して内側に入ったアスカは、しかし、やっぱり不思議そうな顔をしたままだった。

「人手不足で、おれもお手伝い。予想よりお客さん集まっちゃったからって、ランランもヨーキーも給仕に回ったから」

 始めはクロークの係りに回されていた同僚たちがそういえば会場に居たな、などと今更ながら思い出し、アスカは微笑んで頷いた。

「ごくろうさまです」

 それから暫し、アスカが受付表と荷物の預かり番号を照合し場所を確認した頃、テーブルの下に備え付けてある小さなモニターの中で、大広間の扉が開く。気の早い、か、気の短い客がもう帰るのだろう。

「あれ? ラド副長、来てたんだー」

 支度された椅子に座ってあらぬ中空に視線を据えたまま、イルシュが首を傾げる。

「ラド副長…って、ラド卿ベッカー様だよね? …ってイルくん…、勝手にモニターに割り込んじゃダメだよ」

 伸ばした腕で頭を撫でるように小突かれて、イルシュはぺろりと舌を出した。実は魔導師には能力発揮に制限があり、非番の日に居住区内でその能力を駆使してはいけない事になっているのだが、そんな法規は誰も守っていない。

 ベッカーから預かっているコートを背後のハンガーから探し出す、アスカ。お客様がいらしたら立ち上がってお名前を窺うようにとリインにきつく言い含められていたらしいイルシュがようやく椅子から腰を上げて、すぐ、毛足の長い絨毯に上等の靴の踵を擦るようにして進んで来たベッカーが、衝立の内側に居る少年に気付いて微かに片眉を吊り上げる。

「こんにちは、ラド副長」

「…そういやぁ、スゥも来てたってコトは、非番なのな、第七小隊」

 イルシュのにこにこ顔をげんなり見下ろしつつ、ベッカーは吐く息のついでに呟いた。

「タマリさんもオーバーヒートしちゃってるし、今は「あっち」も暇だし、2・3日纏めて休んでもいいやって、ガリュー班長が」

「あんまり嬉しくない休みの出され方だねー、そりゃぁ。まぁ、仕事しなくていいんなら、理由なんかどうでもいいんだけどさぁ、おれも」

「そーいや、昨日タマリさんが無人のはずの第九小隊執務室に乱入して捕獲されたんだけど、知ってる? ラド副長」

 アスカの広げたコートに腕を通しながら、ベッカーは首を捻った。

「知らんね」

「んじゃぁ、大事に至らなかったから報告しなかったのかな、ルー・ダイ事務官」

 温い笑顔でアスカに礼を述べたベッカーが、改めてイルシュに顔を向け直す。

「メリ、居た?」

「居たよ。資料作ってた」

 あっそ。と素っ気無く言いつつも、少し考えるような色を含んだ金色が天井を見つめる。

「―――今日は?」

 問われて、イルシュが難しい顔をした。

「明日ナイ・ゴッヘル小隊長がお家に遊びに来るから、今日のうちに資料作っておかないと、って昨日言ってたと思う」

「…んー、ま、そんならいいでしょ。またな、サーンス」

 始終覇気なく、しかも妙に緩いテンポでイルシュと会話したベッカーが、またもずるずると踵を鳴らし、先んじて両開きの扉を開放し頭を下げて待つアスカの前を通過して行った。

「ところでさー、アスカ。おれ、もう部屋帰ってもいい?」

「いいですよ。お疲れ様でした」

 重いドアを閉ざして振り返ったアスカに、イルシュが笑ってみせる。

「16:30からの「格闘技選手権決勝」中継見て、19:00過ぎたら出掛けるんだー」

 大きく背伸びしながら言うイルシュに頷いて見せながらアスカは、もうそんな時間なんだなと思った。

           

           

 ベッカーが退場して暫く。大窓に掲げられた紗のカーテンの向こうに広がる天蓋越しの空が薄く赤紫色に染まり始めた頃、それまで殆どを壁際の椅子に座ってスーシェと雑談したり、近付いて来て挨拶する貴族と笑顔で話したりしていたドレイクが、リインを呼び寄せ耳打ちする。

 もみあげの辺りに白いものの混じり始めた壮年執事は、素晴らしくいい姿勢で腰を折り主人の話を聞いてから、軽く一礼して離れて行った。そのきびきびした動作を見送ったスーシェが、心底関心したように呟く。

「ベッカーじゃないけど、ホント、ミラキの所の執事長は立派だよね」

「主人がこんなで苦労してんだろうに、って?」

 にや、と意地悪く唇の端を吊り上げたドレイクにスーシェは、偶然それを目にしてしまった賓客も惚けるような華やかな笑みを向けた。

「それも込みで」

「…言っとけ…」

 わざとのように白い眉を寄せてみたものの、実際、リインを褒められて悪い気はしないのだろうドレイクが、すぐ相好を崩して椅子から立ち上がる。そろそろ散会の時間だから、最後の仕上げに取り掛かるのだ。

 未だ貴族連中に囲まれているリリスとジャン、オルロ監督の三名それぞれに声を掛けたリインが会場の上座に設けられた肘掛け椅子に彼らを案内すると、囁くようなざわめきに締められていた室内に、探るような静寂が訪れる。

 その静寂が部屋の隅まで行き渡るのを待って、ドレイクは賓客に軽く頭を下げた。

「この短時間で慌しくもありましたが、本日ご列席の皆様方には、俳優、監督の作品にかける意気込みを感じていただけたものと思います」

 肘掛け椅子の中で姿勢を正したリリスたちをドレイクが手で示すと、どこからともなく拍手が沸き起こる。それに腰を上げて頭を下げ、笑顔で答えつつもムービースターは内心苦笑していた。

 これが一般居住区の会場だったなら、拍手だけでなく歓声もあるし、観客は口々にリリスやジャンの名前を呼ぶだろう。しかしここは上級居住区であり観衆は全て貴族だから、つまり、そういう品のない真似はしない。

 だから、なんだか「他人事」をお行儀よく眺めるだけ、という感じがしてならなかった。

 それでも崩れない笑顔でジャンと目配せし合い、再度椅子に腰を下ろす、リリス。ドレイクは彼らが着座したのを確かめてから、重たい曇天の瞳を賓客に向けた。

「さて、本会の趣旨をご理解頂けた所で…」

 そこで表情を引き締めたドレイクは、この会が撮影現場となる屋敷を提供してくれる貴族を募るものだと改めて言い直した。機材の搬入もある、大勢のスタッフの受け入れもある、スケジュールも一日や二日のものではないと調書を読み上げるように淡々と述べるに従って、徐々に室内の空気が沈んで来る。

 ドレイクの話を聞いていたセツは、なぜミラキ卿はそうデメリットばかり並べ立てるのかと内心はらはらしていた。本来ならここで言われるべきは、あのリリスやジャンの他にも名の売れた俳優たちが大勢屋敷を訪れる事や、広報の一環として大々的に家名を公表される事、プレミアム試写会に招待される事などの、いわば美味しい部分ではないのかと抗議したい気持ちにさえなる。

 きっとその制作会社代表の気持ちに気付いているだろうに、ドレイクは構わず撮影期間内に想定される「不自由」を思いつく限り並べた。それを輪の外から眺めていたスーシェは、どんどん蒼褪めるセツの引き攣った横顔と賓客の渋い表情、それから、呆気に取られているリリスの顔を眺め回し、つい、吹き出してしまったが。

 それで観衆の目がスーシェに移ると、彼は女性的な白皙に殊更華やかな笑みを乗せ、肘掛け椅子に座したまま小首を傾げて見せた。

「いや、すまない…。しかしながら、ミラキ卿の心遣いを理解なされぬ皆様が大勢いらっしゃられるようなので申し上げれば、華やかなムービーの影にこうして人知れず奔走する名もない立役者があるように、メリットとデメリットは表裏一体、それをご理解頂きたいという事でしょう。良い事ばかりではない。悪い…屋敷を提供してくださる皆様にとって、負担になる事も当然ある。それを熟知した上で、尚メリットが上回るとお考えであればよし、もし軽い気持ちで引き受け、途中で嫌になったからやっぱりやめた、などという浅はかな考えであれば、始めから手など挙げるな、というところか」

 肩をそびやかす訳でもなくさらりと言って、スーシェはリリスに視線を当て微笑んだ。

「借りる方も貸す方も、お互い相手を慮りますように」

 まったく、なんて面倒な役割を押し付けてくれたんだと思いつつも、スーシェは笑顔を崩さなかった。

「これはこれは、一番良いところをゴッヘル卿に攫われましたが…」

 などと嘯くドレイクを刹那睨み、スーシェは足を組み換え素知らぬふりを決め込んだ。見知らぬもの同士を引き合わせるだけならまだしも、その後長期に渡って屋敷に出入りする事柄を頼もうというのだから、騒ぎの種は最初から極力取り除いておきたいドレイクの心情…というか、多分、ミナミとハルヴァイトが「リリスのお願いを聞いてやってくれ」と言って来た事の方が確実にウエイトが高いだろうとは、思ったが。

 何事もなかったかのように話し続けるドレイクの声を聞きながら、スーシェは嘆息する。これは、悲劇を発端にした喜劇か。最早その手に握るものなど何もない「兄」は、唯一残った「弟」のためになら、ファイラン洛中を敵に回しても平然としているだろう。

 だからといって、貴族連中を脅す必要はないのに。とも、思う。

 ミナミが居たら面白かったのに、などと失礼な事を考えるスーシェを余所に、会場は未だ静まり返ったままだった。メリットもあればデメリットもある。今更ながらそれに気付いたのだろう賓客が二の足を踏んでいる気配が室内を一層重く感じさせた。

 一通り話し終えたドレイクが口を閉ざす。曇天の瞳が周囲を探るようにきょろきょろする貴族たちを眺め、不安げなスタッフを眺め、最後に、横に並んだリリスたちに向けられると、ジャンは複雑そうな表情で苦笑したが、リリスは。

 ムービースター。

 それ以前に、「世界の一つ」であろうとする、セイル・スレイサーは。

 にこりと微笑み、軽く頭を下げた。

 その屈託ない笑顔に薄笑みを返したドレイクは、スレイサー一族のこういう所は好きだと思った。「彼ら」は折り重なった人の形作る世界を贔屓目で見たりしない。善意にだけ甘えようなんて微塵も思っていない。

 暫し待ち、会場に微かなざわめきが戻ったのを機に、ドレイクはまた口を開いた。

「さて、熟考いただけたようですので、そろそろ散会いたしたいと思いますが…、どなたか、屋敷を提供してくださる方はございませんか?」

 しん、と一瞬で静寂の戻った室内に放たれた、問い。

 応えは、返らない。

 しかしリリスは平然とし、スタッフは落胆し、リリスの傍らに在るジャンは無言で、肘掛けに置いていた手を握り締めた。

 刹那、無人になってしまったかのような会場の気配に、監督であるウェズス・オルロが意を決し、椅子から腰を浮かせようとした。それを素早く手で制したドレイクは、苛立ちに頬を高潮させた青年監督の肩をぽんと叩いてから、ドアの正面に佇んでいたリインに軽く手を挙げて見せた。

「皆様、本日はご足労願いまして、誠にありがとうございます。

 本会の目的であった撮影場所として提供されました屋敷は」

 静かに、滑るように、大広間の扉が開け放たれる。

「ラド邸に決定いたしました」

 途端、誰もが虚を突かれたような顔をした。

「リイン、皆様をお送りしろ」

 鷹揚に微笑み、唖然としたスタッフにも客にも何の説明もしないでさっさと上座を離れたドレイクが、くすくす笑っているスーシェの脇にどさりと座り込む。

「周囲を敵に回す才能、あるんじゃないのかい? ミラキ」

「あ? リリスがウチに来てくれんのは嬉しいけど迷惑被んのはごめんなんてムシのいい話し、あっかって」

 だから自分は当然の事を言ったまでで、批判される筋合いはないとでも言いそうなドレイクの横顔を、スーシェがまた笑う。

「横暴だよ」

「横暴結構じゃねぇか。さっさと提供者が決まっちまって、んじゃぁ、それとは別にリリスを招待したい、なんて言い出されてみろ、俺ならバカ言うなで済むけどよ、まさかリリスがイヤだーって断われねぇだろが。それによ、この場合のメリットは、デメリットを承知で手ぇ挙げたヤツにだけ還元されりゃいいんだよ」

 なんとなく釈然としない空気を纏いつつ退室して行く賓客を見送りもせず、ドレイクは偉そうに足を組んで椅子にふんぞり返ったまま、にやにやしながら言った。

「人生棄ててるね、君」

「俺もアンちゃんみたく絶縁して貰えねぇかな?」

「…ミラキ、それをぼくに言うのかい? その、絶縁に失敗した、このぼくに!」

 眦を険しく吊り上げたスーシェに睨まれたドレイクは慌てて椅子の肘掛けにしがみ付き、迫ってくる白皙から狭い椅子の中で目いっぱい逃げた。

「いーじゃねぇかよ、スゥの場合は失敗したって! デリ、着いて来ただろうが」

 ちらちらと様子を窺う賓客など完全に無視して言い争うドレイクとスーシェを見つめ、しきりに長い睫を瞬いていたリリスが、不意に肘掛け椅子から飛び出す。

「ミラキ副長!」

 こちらも多少混乱しているのか、リリスは、いつもセイルとして現われる特務室でそうしているようにドレイクの名を呼びながら彼の膝元に駆け込んだ。

 と、当然、実はそんなにふたりが懇意だと知らされていなかったスタッフやジャン、監督までもが、ぎょっと目を剥く。

「ラド邸って…それ、どういう意味?」

 落ち着いて座れとリリスに椅子を勧めてから、ドレイクはセツと監督、ジャンにも手招きした。

「元々よ、ベッカー…って、ラド卿はな? 屋敷の提供者が誰も現われなかったら貸してやってもいいつって、とっとと帰っちまってたんだよ。それでまぁ、ほぼ予想通り、屋敷の中を荒らされるのを嫌ったんだろう連中が誰も手を挙げなかったから、ベッカーんトコを借りるって事になった。

 あいつんトコはよ、今、執事と自分の二人暮らしで、煩く言う家族はいねぇ。ただし、これが守れなかったら屋敷は貸さねぇって決まりが、ふたつだけある」

 先までの丁寧な口調ではなくいかにも砕けた、つまりは素で話し始めたドレイクに、一瞬緊張していた空気が和んだ。

 リインに追い立てられるように賓客が退室し、別室で待機していたスタッフが撤収作業のために顔を出したのを目端に捉え、ドレイクはようやく立ち上がり全員を周囲に呼び寄せた。一人ひとりの顔を見回すようにゆっくりと旋回する、曇天の双眸。偉そうに腕を組み、軽く首を傾けたドレイクが、まるで部下に指示を出す上官のような表情で言い放つ。

「ベッカーの私室と執事ドイルの私室以外は、どの部屋を何に使っても構わねぇし、内装に手を加える際もドイルを立ち会わせれば自由にやっていい。これが、ひとつ」

 そこで一旦言葉を切り、何かを確かめるようにまた旋回する灰色。それに威圧された訳でもあるまいが、スタッフたちは一様に無言で頷き了承の意を示した。

「それから、見学者は屋敷に入れるな、ってのが、もうひとつだ」

 言われて、リリスは首を傾げた。

「撮影してる所を見せるなって事?」

「いいや。屋敷に他人を入れるなって事だよ」

 それで今度は、誰もが顔を見合わせて首を捻る。

「こーんなに…って、もっと大勢「他人」が出入りするのは、いいのに?」

 リリスが言った途端、セツが慌ててムービースターの袖を引く。場所が決まりそうなのだから、余計な事は言うなというのか。

 その、制作会社代表の蒼褪めた顔を見て、ドレイクは笑った。

「あいつよ、ああ見えて社交的な引き篭もりだから、用事もねぇ人間が屋敷うろついてんのはイヤなんじゃねぇか?」

 なにソレ。と目端の吊り上った目を瞠って呟いたリリスの顔を下から眺めていたスーシェが、内心苦笑を漏らす。

 それから、嘆息。

 ベッカーが「貴族」と付き合うのを嫌っていると元同僚はよく知っていたが、何も知らない一般市民にそれを説明してやろうとは思わなかった。

「とりあえず、撤収班だけ残して、リリスとオルロ監督とハノア代表は俺と一緒にベッカーんトコ行くぞ」

 ついでに、ドレイクはやっぱりお節介だな、とも、思ったが。

「で? スゥはどうする? 一緒に行くか?」

「行かないよ。ぼくはミラキみたいにお節介じゃないから」

 素っ気無く言ったスーシェが、これ以上騒ぎに巻き込まれるのは御免だとばかりに、大仰に肩を竦める。

「というか、巻き込まれ型災害が得意なのは、デリのはずだったのにな…」

 最近似てきたんだろうかとうんざり呟いたスーシェを、ドレイクとリリスが笑った。

  

   
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