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番外編-8- 平和的同時多発恋愛事件

   
         
(17)ステラ・ノーキアス

     

 「確かにアイリー次長と電脳班の連中はやめてくれと言ったが、これまた微妙に厄介なのを連れて来たな、アンくん」

 約束の時間にオフィスを訪ねて来たアン少年と、アンの背後に普段通りの仏頂面で突っ立っているヒューを認めるなり、ステラは引き攣った笑いを浮かべて言い放った。

 とりあえずどうぞと室内に招き入れられたアンが、なんだか申し訳ないような気持ちになってすみませんと言いながら頭を下げる。言われてみれば、人生相談…本当かどうかは甚だ不明だが…の立会人としては、ハルヴァイトの次くらいに不適切な人物だったかもしれない。

 だが、しかし。

「厄介で悪かったな」

 後ろ手にドアを閉ざしてから大仰に溜め息を吐いたヒューが言い返すと、ステラが今度こそ明らかに、華やかに笑う。

「いや、いや。お前の心配も判らないでもないから、許してやるよ」

 棘はないが毒満点のステラの台詞に、ヒューは益々渋い顔をした。

「心配? って、なんです? ヒューさん」

 毎度の事ながらひたすら鈍い少年が、水色の双眸をきょとんと見開いて背後のヒューを振り返る。それになんでもないよと素っ気無く言い返した銀色は、勧められてもいない応接用のソファにさっさと逃げ込んだ。

 こうなってはヒューが口を割るとは思えなかったのだろうアンは、気分を変えてステラに向き直ると、昼の間に支度していた手土産のシフォンケーキを彼女に渡した。それぼくが焼いたんですよ、などと笑顔を振り撒くアンを眺めるステラの顔が酷く緩んでいるのに、お前それは立場が逆じゃないのかと、ヒューが内心でだけ突っ込む。

 昼に近い時間にようやく目が覚めてダイニングに顔を出したヒューを待っていたのは、やたら機嫌のいいジリアンが朝食兼昼食の給仕を買って出てくれるという薄気味悪いサービスと、ダルビンの指導でせっせとケーキを焼いているアンだった。

 それで、ジリアンはどうでもいいとして、だらだら食事しながら昨日ステラに呼び出されたらしいななどという話をアンとしていたら、用事が足りなかったので今日の夜もう一度医療院に行くんですよと、少年が笑顔で答える。

 そこでヒューは、ちょっと考え込んでしまった。

 果たして、アンを一人で行かせていいものか? と。

 少年が手土産と夕食のデザート用にといってシフォンケーキを五つも焼く間、ダイニングの片隅でうとうとしたり部下にからかわれたりしていた銀色は、結局、さして用事もなかったが、たまにはステラの顔でも拝んでやるかとアンの荷物持ちを買って出たのだが…。

 なぜなのか、少年は最後の最後までヒューの同行を渋った。

 まさか元・恋人…なのか?…が銀色に渡してくれと言って押し付けていった「恋文」を、なんとなく、あくまでもなんとなく、取り出すタイミングを逃して未だ懐に忍ばせている少年が色々と複雑な想いを抱えていると知らぬ当の本人は、大丈夫だ安心しろステラとおかしな事で言い争ったりしないから、と、まったくアテ外れの誓約を誠意なく口に上らせ、しかし、旧知の女医の顔を見た途端意味不明の言い合いを経て、現在に至る。

 つまり。全くダメな訳だ。

 殆ど予想通りの展開に溜め息も出ないアン少年と悪びれた風もないヒューをソファに残してお茶の支度を始めたステラが、人知れず口の端を吊り上げる。

 ステラが、キャロンとアンの婚約がなくなったと聞いたのは、例の「事件」から一週間も過ぎてからだった。渦中の女丈夫が相も変わらず偉そうに現われて「振られたんだ」と言った時分、こちらも偉そうに椅子に座っていた女医は一秒ほど呆け、それから、身体を二つ折りにしてデスクに突っ伏し、呼吸困難に陥るほど笑った。

 少年には好きな人が居るのだと、キャロンは言った。

 ステラは何も言わなかった。

 ただ、可笑しくて可笑しくて、ひたすら笑った。

 その、少年の好きな人が誰だか判るかとキャロンに問われて、ステラは目尻の涙を拭いながら答えた。

          

「さぁ。聞いた事はないな」

       

 聞いた事はない。蒼褪めて、今にも泣きそうな顔で俯いて、でも、会ってやるなと言った直後、無条件で「その男」を信用した少年の顔を思い出す。

 芳しい湯気をふかふかと躍らせる茶器をトレイに載せてソファに戻り、彼女の渡したナイフでケーキを切り分けるアンの正面に座ったステラは、あらぬ方を向いている銀色の脛を、はしたなくも、テーブルの下で蹴り上げた。

「…なんだ」

「いいや。まぁ、この程度で許して貰えたんだから、お前、私に感謝しろよ」

 肘掛けに頬杖を突いたままサファイヤ色の瞳を旋回させていかにも不機嫌そうに呟いたヒューにステラは、すっかり緩んだにやにや顔を隠しもせずに言うと、ソファの背凭れに身体を預けた。

「警備軍入隊前にキャロンが訪ねて来て、アンくんに振られたと言って帰っていったぞ」

 告げられて、瞬間、アンがナイフに載せていたケーキを落とした。

「「…………」」

 ぼて。と、別の容器に入れてきたクリームに沈む、ふかふかのケーキ。硬直したまま額に冷や汗を滲ませた少年の顔と、クリームで溺死寸前のシフォンケーキを見比べてから顔を見合わせたステラと、ヒュー。

「…ホントに、君は嘘が吐けないなぁ。こういう時は、そこの性悪みたいに平気な顔をするべきじゃないのか?」

 失礼にも手にしたフォークで指されたヒューが肩を竦めて天井を見上げるのと同時、アンはケーキナイフをしっかり両手で握って胸の前に構えると、首まで赤くなって何か言い訳しようと口をぱくぱくさせた。

「安心しろ。キャロンはしきりに君の「好きな人」とやらを気にしていたようだが、私は知らんと答えておいたから」

 空いていた手で小皿を取り上げたステラは言いながら、クリームに溺れているケーキに握っていたフォークをぶっ刺し救出すると、そのまま皿に転がしヒューの前に置いた。

「責任持ってお前が食え」

「………」

 どんな責任だと言い返してやりたい気持ちだったが、ヒューはそれを無理矢理飲み下した。他はどうだか知らないが、多分、ミナミとステラはアン少年ではなく、ヒューを見ていて事の真相に気付いたのだろうと思う。

 だからつまり、その二人に対するヒューの立場は非常に弱い。

 半泣きで鼻を啜りつつケーキの切り分けを再開するアン。恥ずかしいとか何とかそういう事ではなく、比較的厄介な部類に属するステラに色々見透かされていたという今後継続するだろう恐怖(…)に、最早打つ手はない。

「君「ら」がきちんと周囲に対して明確な意志表示をするまでは、黙っておいてやる」

「脅しか?」

 嘆息しつつもクリームで斑になったケーキを突いていたヒューが、開き直ったのか、いつもの調子でぶっきらぼうに問う。

「いいや。言わないから、黙っててくれという事なんだが?」

 こちらはきちんとクリームの添えられたケーキを笑顔で受け取ったステラが言うなり、アンは首を捻った。

「黙っててくれ? ですか?」

 残りのケーキに手早くナイフを入れた少年が、あとは皆さんでどうぞと言い置いてから箱を閉じる。

「―――そもそも、私がアンくんに来てくれと言ったのはなぜだったか、覚えてるか?」

 問われて、少年は頷いた。

「人生相談があるから、ですよね? ぼくじゃあんまり頼りにならなそうですけど」

「というか、自分の半分しか生きてないようなアンくんにお前が何を相談するのかが謎だ」

 シフォンケーキはいいがクリームは頂けないらしいヒューが、眉間に浅く皺を寄せて小皿を睨んだままぽつりと言った途端、ステラは傍にあったファイルボードをヒューの顔面に向かって投げ付けた。

「貴様は黙ってろ」

「言い争いっていうか、喧嘩しないで下さいよー!」

 空中を走ったファイルを軽々受け止めてソファの座面に置いたヒューは、アンに睨まれて肩を竦め、そっぽを向いた。

「…面白いな、君たち」

「嬉しくありませんよ…」

 わざと肩を落としたアンを少し笑ってから、ステラが紅茶を一口飲む。

「まぁ、実際人生相談というのは口実で、私が君に振った役割は、目撃者…だろうな」

 何かを懐かしむような、想い出に浸るような翡翠の瞳で、淡い湯気を立ち上らせるカップの表面を見つめるステラ。

「目撃者ですか?」

 不思議顔のアンに問われて、ステラは苦笑した。

「私は、もう「嘘」を吐くべきではないと自分に対して思っている。でもな、アンくん。「はいそうですか」とあっさり受け入れる事も出来ない。だから…、きっぱりと、自分の気持ちに正直になってキャロンとの婚約を破棄した君に、最後を…看取って欲しいと思った」

 何の話なのか。言われたアンは当惑し、口を閉ざしてしまったステラから、傍らのヒューに助けを求めるような視線を送った。

 ヒューは、先よりずっと渋い表情で眉を寄せケーキを睨んでいる。だからきっと彼は何かを知っていて、しかし口に出せないのか、出さないのか、今すぐアンの助けになってくれそうにはなかった。

 少年は困惑する。

 彼と彼女は、何を、少年に求めているのか。

「……。一方的に協力を求めているのに内緒ばかりでは卑怯だろうから、ちょっと昔の話をしようか」

 カップをテーブルに置いて足を組み換えたステラは、苦笑じみた表情で言うと小首を傾げた。それに無言で頷いた少年の横顔は、少し緊張している。

「私は、両親を病気で早くに亡くしててな、それで、まぁ、月並みなんだが、医者になって一人でも多くの患者を救いたいと思った。努力して、本当に、この都市で女が医者になるのは楽じゃなかったからな、努力して努力して医師の免許を交付される直前まで行ったのに、医療院に「女医」の空きがなくて、すぐには医者になれないと言われたんだ」

 女性が居れば専門医が必要になるし、外科や内科の診断にしても、患者が女性であれば女性の医師も必要になる。殆どの女性が貴族に属する王城エリアでは、医療院に女性専門の外来と入院施設がありそこでは医師も看護師も皆女性なのだが、医師については定数が決められており、それ以上の免許は交付されない。

「私は別に、女性相手の医者になりたい訳じゃなかった。だから、それならすぐに医師免許を取れるのはどこかと訊いた。

 返った答えが、軍医だった」

 冷め始めた紅茶で喉を潤し、ステラが吐き出すように笑う。

「細かい事はどうでもいい。その後私は、希望通り警備軍医療部隊所属の軍医になった。知ってるか? アンくん、医療部隊には、護身訓練があるんだ」

 そもそも魔導師隊などという、警備軍内でも特殊な機関に属しているからか、アン少年はそれを知らなかった。

「いいえ…。始めて聞きました」

 両手を固く組み合わせて膝の上に置いたアンが、首を横に振る。

「有事の際出動し、しかし敵対する組織に医療活動を阻害されてはならないという名目で、射撃訓練と簡単な護身術の訓練が義務付けられている。当然、医者であっても軍に所属しようというのだからそれは問題ないし、あって当たり前だろう」

 そこまで言って一度言葉を切ったステラが、弱々しく微笑む。

「―――その、射撃訓練の最中に、暴発事故が起きた。巻き込まれたのは偶然同じブースに入っていた新規訓練生が二名と、教官一名。教官と問題の拳銃を握っていた訓練生一名は重症、後方で待機していた訓練生一名は大怪我だった」

 話を聞いたのがミナミであったなら、青年はすぐ様軍の事故記録をすらすらと述べ、ステラの言いたい事にも気付いただろう。しかしアン少年は表情を固くして頷き、話しの先を促すしかなかった。

「その、後方で待機していたのが私だ。私の身体には、ここと」

 彼女は呆然とするアンから視線を逸らさずに、自分の左肩から乳房の上を通過する曲線を指先で描く。

「左足の太腿辺りに、大きな傷がある」

 聞いて、瞬間、アン少年は水色の瞳を殊更大きく見開いて、傍らのヒューを振り向いた。

 傷物の芸術品という言葉を思い出す。

 淡い桜色の唇が、震えた。

「それが原因で、決まったばかりの婚約を破棄された。まぁ、その時なんと言われたのかは、言った方の立場を考慮して伏せておくが…」

 軽い調子で嘯いてみたものの、アンは何か知っているのだろうとステラは思った。蒼褪めた顔でヒューの横顔を凝視し、それから、震える唇を噛んで俯いた少年の健やかさに、知らず苦笑が浮かぶ。

「…問題は、実はそこじゃない」

 そこでステラは真面目腐った顔を作り直し、姿勢を正した。

「本当の問題はここから先だ、アンくん。

 婚約を破棄されて、晴れて自由の身になった私は喜んで軍に返り咲いた。両親はいない、婚約という形で頭を押さえ付けていた柵もない、今度は腕の一本や二本千切れても誰にも文句は言わせないぞと大手を振っていた私の元に、ある日こんな話しが舞い込んだ」

 寝耳に水だった、とステラは溜め息みたいに前置きした。

「私の元婚約者が、家族に黙って退役し別のエリアに移住してしまった、ってな」

 退役? 移住?? アンは首を捻った。

「しかも、その時の捨て台詞が利いてる。自分に黙って勝手に婚約を破棄した両親にする相談などない。だそうだ」

 もしかして、ミナミが居たら突っ込み所だろうかと少年が真剣に悩む。

 と、いうか。

「―――じゃぁその、ドクター・ノーキアスの元婚約者という方は、両親が勝手に決めた婚約破棄が不満だったんですね」

 真顔で頷いた、アン少年。

「―――……」

 言われて、思わずステラは黙り。

「…は…ははは!」

 ヒューが笑い出した。

 なぜそこでヒューが笑い出したのか判らないアンは、慌ててソファに座り直すと、完全に硬直してしまったステラと大爆笑の銀色を見比べながら必死になって言い募った。

「だって、え? そうじゃないんですか? ドクターとの婚約をですよ? 本人に相談もなく破棄したから自分も遣り返したって、わざわざ言い残したって事は、それが気に食わなかったからでしょう?」

 ああそうか俺の意見なんか聞き入れる気はないんだなだったら俺も聞いてやらない。と?

「…いや、うん、アンくん…」

 語尾を笑いで振るわせつつも名前を呼ばれて、アンはなぜか涙目で銀色を睨んだ。

「君の言う通りかもしれない。ああ、そうだな…。きっと、そうだったんだ。

 ステラ」

 ようやく笑うのを止めたヒューは、憮然とした顔付きでソファに沈んだステラの顔を真っ直ぐに見つめ、少し意地悪く口の端を吊り上げた。

「お前の人選は正解だったな。多分、事の真相はアンくんの言う通りだ」

 だから、「彼」は。

 親子関係を崩壊させ、それでも気が済まなくて、機会が訪れたから…その発端は不幸な事故だったけれど…さっさと王城エリアを見限り行ってしまった。

 そして。

「…また機会が巡って来た…。やり直すきっかけは―――」

         

 狂暴なしあわせを振り翳す、それは天使。それは悪魔。

 最強、最悪の。最凶。

                

 不意に黙り込んでしまったヒューの薄笑みをきょとんと見上げていたアンは、すぐに短く息を吐いて色んな事柄を諦めた。何の話ですかと訊いても適当にはぐらかされるか、たまにしか見せない完全無欠の笑顔だけで切り返されるのがオチだ。

「本当に、君には驚かされてばかりだ、アンくん。どうだろう、へそ曲がりの格闘技バカなど今すぐ速攻で見限って私と結婚しないか?」

「っていうかそれってプロポーズですかっ!?」

「ああそうだ、しあわせにするぞ。だから私の所にお嫁さんに来い」

「ぼくがお嫁さんて、ソレ間違ってますよ!」

 ひー! と悲鳴をあげたアン少年が手足を縮めて、ソファの座面に小さくなる。

「それじゃぁアンくん、私がお嫁さん向きだと思ってるか?」

 うわ答え難っ! とミナミ風に内心突っ込みつつ、アンは傍らで笑っているヒューの腕にしがみ付いた。

「何とかしてくださいっ、ヒューさん!」

「…俺を巻き込まないでくれ」

「ほらみろ。やっぱりそんな薄情な男はやめた方がいいぞ、アンくん」

 殆ど放り出すようにして柔らかいローファーをテーブルの下に脱ぎ捨て、ソファの座面に正座してヒューに向き直ったアンが、…無意識にだろう…、深緑色に銀糸で細かいストライプ模様を入れたシャツごと彼の腕を抱え込み、意味不明の唸り声を発する。それで、器用にも少年に左腕を預けたままシフォンケーキと格闘していた銀色は、バカ笑いのステラをちらりと上目遣いに窺ってから、わざと大仰に嘆息しつつフォークを置き、背筋を伸ばしてアン少年に顔を向けた。

「何とかしろと言うがな、アンくん」

「なんですかっ!」

 勢い込んで怒鳴り返されたヒューが、つい苦笑…ではなく、意地の悪い笑みを零す。

「君を嫁に貰われると俺が困るからやめてくれとでも言えばいいのか?」

「………―――――」

 じ、と瞬きしないサファイヤで見つめられ、アン少年はヒューの腕を抱きかかえたままその場に硬直した。

 まさに水を打ったような静寂に、室内が凍り付く。

 さすが、片親とすぐ下の弟をムービースターに持ち、映画関係者…ぶっちゃけた話、銀幕のスターも含まれるのだが…と付き合った経験も一人や二人ではない上に、失職したらいつでも来てくれて構わないと複数のプロダクションから声が掛かっているだけはあり、且つ、中等院の学生だった頃端役でアリシア・ブルック主演の映画にほんの少しだけ出演した経験がある――というか、どちらかと言えばあの特務室にあって暗躍を常にしているからなのかもしれないが――ヒューだけあって、あからさまに揶揄する台詞を素晴らしく現実味のある抑揚で言ったものだから、今回ばかりはアンでもすぐは言い返せなかった。

 嘘か本当か判らないのだ。その、「いかにも過ぎる」言い方が。

 数秒間の痛いような緊張。

「ふ…はっ、ははははは!」

 ステラが、いきなり吹き出した。

 呼吸も忘れて固まったアンの蒼褪めた横顔とやたら真剣なヒューの横顔をいっぺんに見てしまったステラの爆笑に、ふと銀色の口元が緩む。

「笑うな、ステラ」

 アンから目を逸らさずに言うヒューに答える余裕もないらしいステラが、ソファの座面に倒れ込んで笑い続ける。それで、ようやくからかわれているらしいと気付いたアン少年の小さな顔が俄かに上気し、抱えていた腕を投げ付けるように開放されて、ヒューはなんとなく五指を開いた自分の手に視線を落とした。

「ヒューさんっ!」

 アン少年涙目で絶叫。

「真面目にやってください!」

 ヒューは自分の手に落としていた視線をアンの小さな顔に戻し、笑わずに答えた。

「俺は大真面目だ。だから、ステラ。俺は何も言わないから、お前も黙っててくれ」

 旧知の女医に話しかけているようにして、ヒューのサファイヤは困惑と怒りのない交ぜになった少年の表情から逸らされない。

「俺「達」は誰にも何も言わない。だから、お前「達」も誰にも何も言ってくれるなよ」

 ギブ・アンド・テイクの秘密。

「どちらも、まだ、時期尚早ってトコか」

 ふと目を眇めて薄く笑んだ銀色を、アン少年が大きな瞳で見つめている。厳冬の快晴を思わせる、色の薄い澄んだ水色。

 ステラの知る限り、ヒュー・スレイサーの恋人志願者の大抵は彼に守られる事を当然のように思っていたし、時に彼の安寧となる事を望んでいた。

 ただただ「守る」という意志だけを抱えた男。

 無言で暫しヒューを見つめていたアンが、ふと息を吐いて諦めたように肩を落とし、テーブルの下に投げ出していたローファーを爪先で引き寄せる。

「まったくもー。どうせからかうなら、もうちょっと判り易くからかってくださいよー」

 俯いた小さな顔。色の薄い金髪から覗く耳が、まだ少し赤かった。

「黙っていても何か言っても、結局文句を言われるワケか、俺は」

「日頃の行いが悪いんです」

 敢えて与えられる「安寧」など、必要としない、男。

 肩を竦めて格闘途中のケーキに向き直ったヒューの顔と、拗ねたアンの横顔を交互に見遣ってから、ステラは柔らかく微笑んだ。

 この、完全無欠を目指すダメ男に必要なのは、守る必要のない誰かだと、旧知だからこそステラは思う。

 だから、こそ。

 笑い疲れて喉が渇いた、と大仰な溜め息の後でカップに残っていた紅茶を飲み干してからステラは、渋い顔付きでケーキを口に運んでいるヒューを散々笑った。それでも、なんだかんだでしっかり食ってやる辺り随分甘いなと意地悪く言ってみれば、銀色はそっぽを向いて素知らぬふりを決め込み、アン少年がそんな奇跡みたいな事はいまだかつて起こっていないと、やっぱり耳まで赤くなって力説する。

「いや、本当に面白いな、君たちは」

「…面白くありませんてば…」

 いやもう十分ご馳走様だ! などと二杯目の紅茶をアン少年に差し出しながらステラが言うなり、酷く硬いノックの音が室内に木霊する。

「…―――」

 途端、ステラが黙った。

「…大丈夫だ、安心しろ、ステラ。約束は守る。そうだな、うん、何の心構えもないアンくんのために具体例を述べておくなら」

 不意に口の端を吊り上げたヒューが、手にしていたカップをテーブルに戻して立ち上がりつつ、不思議顔で見上げて来るアン少年に小首を傾げて見せる。

「四年か五年前に突如移住したきり音信不通だった元婚約者が訪ねて来てやり直そうと言い出した瞬間に立ち会ってしまったり、もしかしてステラに求婚しても黙っていてやれよ? アンくん」

 言われて、アンは大きな目をますます見開き、指の関節が白くなるほど力一杯ティーポットを握り締めたステラの俯いた顔を見つめてしまった。

 何の事? ではない。

 誰の事? は…少しあったが。

 驚いたけれど。

「…おめでとうございますくらいは、言ってもいいんですよね? ヒューさん」

 もしヒューの言う通りだったとしたら、それは、とても喜ばしい事だとアン少年は思った。

「さぁ、実は、どうなんだろうな」

 深緑色の背中で答えたヒューが無造作にドアを開け放ち、その向こうに佇んでいた「その人」に少々意地の悪い笑顔を向ける。

「―――…、こんな時分にこんな場所で、一体何をなさっていらっしゃるのか…スレイサー衛視…」

「…にゃっ?!」

 背の高いヒューの影になって完全に見えないその人の抑揚の少ない冷たい声を耳にするなりアンがおかしな声を上げ、慌てて自分の口元を両手で押さえた。

 っていうか、それ、アリ! という心境で。

「頼む、アン君、どうせならもっと派手に容赦なく驚いてくれ…。その方がきっと落ち着く」

 形成逆転し、最早言い訳もしたくないという顔でうんざり肩を落としたステラを呆然と眺めるアンの耳をさらりと行き過ぎた、ヒューの台詞は。

「デートの途中にお茶を頂きに寄っただけだ」

「っていうかそういう嘘をすらすら言わないで下さいっ、ヒューさん!」

 それで思わず少年は高速で突っ込み、ドアを塞ぐように立っていたその人は、ヒューの顔を見上げてしかつめらしく言い放った。

「…嘘だかなんだか知らんが、これは黙っていた方がよろしいのか?」

「そう、出来れば内緒にしててくれ。ステラとは、話がついてる」

 言ってドアの横に退去したヒューの向こうから現われた、予想通りの人の姿に、アン少年は喜んでいいのか恐縮していいのか、はたまた小一時間説教される覚悟を決めるべきか、非常に複雑な気持ちになった。

  

   
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