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番外編-8- 平和的同時多発恋愛事件

   
         
(18)アスカ・エノー

     

 上映スタッフの控え室兼機材置き場になっていたリビングもようやく元通りの落ち着きを取り戻し、今日は朝から大忙しだった使用人たちもやれやれと息を吐く頃、アスカは、エントランスに支度された臨時クロークを片付け始めた。預かった荷物を収めていた組み立て式のボックスを解体して台車に積み込み、階段下の倉庫に運び入れて元あった位置に戻さなければならない。決して大きい代物ではないが意外に立派な外装のせいなのか、人工樹脂製のパーツは酷く重く、ようやく全てを棚に収めた時にはもうすっかり息が上がっていた。

 一度は点けた室内灯を消し、台車をその場に残し慌てて取って返す、アスカ。衝立と長テーブルをエントランスに残した状態でハルヴァイトやミナミが帰宅したら、きっとリインに仕事が遅いとかなんとか小言を言われるに違いない。

 幼くして両親と死に別れたアスカを引き取ってくれたリインは、他の使用人に比べると格段に厳しく青年を躾けた。それに不満を覚えなかった訳ではないが、今では、根気よく全ての仕事を教えてくれた養父に感謝している。

 足早にエントランスを突っ切って衝立の元に戻ったアスカは、自分の背丈よりも大きいそれを解体しようとして傾け、一瞬、顔を顰めた。

 ぴしりと手首に走った、鋭い痛み。

 両親が不慮の事故で亡くなった時、もし、遠縁だというリインが現われて引き取ってくれなかったらと思うと、少し背筋が寒くなる。まだ十歳にもならないアスカが両親と共に住んでいたのは、スラムの中でも外苑プラント地区に近い、特に雑多で治安の悪い場所だった。

 白手袋に隠された手首の包帯を無視するように、アスカは表情を引き締めてまた衝立の解体に戻った。自分の不注意で負った怪我を、仕事の遅れの言い訳にするつもりはない。

 リインに引き取られた直後、アスカはそれこそ怯え切った小動物みたいに小さくなって、いつも部屋の片隅で震えていた。片親は事ある毎に少年を殴り、少年を庇う片親を殴った記憶が、その両親の死に遭遇しても消えなかったのか。

 きれいな服、暖かい食事。ここではもう誰も少年を殴ったりしないのだとようやく知ったアスカが部屋の外に目を向けて出来た最初の「友達」は、恐れ多くも、この先一生仕える事になるドレイク・ミラキと、アリス・ナヴィだった。

 斜めに傾けた衝立を左手で支え、蝶番を固定しているジョイントを外して三つに分解するのはなかなか骨の折れる作業で、おまけに、支えになるはずの左手首に走る痛みが集中力を欠くものだから、なかなか仕事が進まない。

 左手首を捻挫したのは、昨日の今頃だっただろうか。屋敷二階の客室清掃を申し付けられて山ほどリネン類を抱え階段を上っていた青年は、不注意で、崩れたシーツの端を踏み付け、段差を踏み外して踊り場まで転がり落ちてしまったのだ。

 上手く外れてくれないジョイントに苛立っていたアスカの表情が、不意に曇る。

 微かな衣擦れに気付いて振り返ったアスカを見上げていた紅玉色を思い出す。翳のあるその赤から平坦に、冷たく注がれる視線に酷く狼狽え、やっと作った笑みを見せて逃げるように階段を上り、結果、抱えていたシーツを床に落として、自分まで…。

 途中にいたジュメールを巻き込んで。

 今日一日、無理して作っていた平静が崩れ、アスカは支えているはずの衝立に縋り付くようにして俯いた。百パーセント自分の不注意で青年に怪我までさせてしまった事への後悔は、時間を追うごとに酷くなって行く。

 階段を転がり落ちたアスカを抱き留めたジュメールが軽い脳震盪を起こして倒れているのを見た時、アスカは悲鳴を上げる事も出来ずに蒼くなってその場に座り込み、物音に気付いて駆けつけて来たリインに引き剥がされるまで、青年の腕を抱えて硬直していた。その、喉に痞えた恐怖がようやく声になったのは、ばたばたと慌しく走り回る使用人たちの向こうから現われたドレイクに肩を掴んで揺さぶられた後だった。

 直立する衝立にこつりと額を当てたアスカが、憂鬱な溜め息を一つ漏らす。その後、急遽呼び出されたドクターに大事無いと診断されたジュメールが目を覚まし、リビングに顔を出す頃には幾分落ち着いていたものの、今でも、その瞬間を思い出すと手足が震える。

 一時間ほどして目を覚ましたジュメールは、なぜか、アスカに謝らせてくれなかった。それどころか、青年の怪我を案じ、それから…。

      

「ごめん」

     

 謝ったのだ、アスカに。

 何がどう「ごめん」なのかと問うた、その場に居合わせたドレイクとミナミに、アスカは判らないと答えた。本当に、何も判らなかった。なぜ、巻き込まれて頭まで打ったジュメールが謝ったのか、今でも判らないままになっている。

 さすがに、アスカの落ち込みようが酷かったからなのか、ドレイクとミナミはリインに青年を叱らないようにと言ってくれたらしかったし、いつもは厳しい執事長も、明日は通常通り職務に励むようにと、早めに自室へ帰るようアスカを促した。

 衝立の重さに負けてずるずるとその場に座り込みそうになりながら、青年は固く目を閉じた。意味もなく泣きそうになる。訳も判らず、あの真白い青年を傷つけたような気がする。

 きっと、嫌われたに違いない。

 そう思った瞬間、衝立を支えていた腕と身体を支えていた膝からすとんと力が抜けて、アスカはよろめいた。

「!」

 三つ折りにされた重い衝立がぐらりと傾ぎ、青年に圧し掛かろうとする。避けなければ。支えなければと思うのに上手く身体が動かず、迫る平面を凝視したまま息を飲んだ。

 思わず目を閉じて衝撃に備える。しかし、いくら待っても重いそれに押し潰される事もなく、アスカは恐る恐る目を開けた。

 まず目に入ったのは、背後から伸ばされている濃紺のシャツの袖と、白磁のように白い、指の長い手。

「………」

 それが倒れかけた衝立を支えてくれているのだとぼんやり考えながら、伸ばされた腕を伝って背後を振り返れば、そこには。

 青白い光沢を纏う、純白の髪。

「――…、倒れる」

 どこか物憂げな、紅玉色の瞳。

「あ…」

 驚いて、狼狽えて、衝立に置いていた手を胸に掻き寄せ抱き締めたアスカに投げかけられた、ぶっきらぼうで冷たい声。

 昨日の騒ぎで頭を打ち、今日は朝から医療院奥の研究室で精密検査を行なっていたジュメールが、いつの間にか帰宅していたのだ。

 呆然と立ち尽くすアスカをその場に置いたジュメールは、手際よくジョイントを外して衝立を三つに分解しひょいと肩に担いだ。

 検査半分日常生活の探り半分で結局一日ドクター・シールレート・アスクナンに捕まっていたジュメールが相当疲れた気分で屋敷に戻り、エントランスに踏み込むと、青年に気付いていないらしいアスカが衝立に押し潰されそうになっていた。こんな大きくて重そうなものを華奢なアスカ一人に片付けさせる気かと内心嘆息し、そのまま通り過ぎるのもなんだか申し訳なくて、…やめればいいのに、と自分でも思いつつ…、つい手を出してしまった事を青年は無言で後悔する。

 驚いた表情。

 胸に掻き寄せられた細い腕。

 どこへ行っても向けられるその、見慣れた光景に、なぜか…酷く落胆していた。

         

 だから「その人」は気付いている。

 薄汚れた内側を白で塗り潰し、清潔な振りをしている「わたし」。

 距離を取り、その健やかさを微笑ましく眺めているだけだったなら、きっと「その人」も見逃してくれただろう、浅ましく穢れ切った「わたし」。

 しかし、不用意にも触れてしまったから。

       

「その人」には、ずっと、花のように健やかで綺麗なまま居て欲しいから。

        

 純白の鎧を、固く、閉ざしたい。

        

「どこ?」

 肩に担いだ衝立を軽く叩きながらジュメールが言うと、アスカは抱えていた腕を解き、慌てて階段を指差した。その裏側の、ドアを開け放したままにしてある倉庫だと若執事が言い終えるのも待たず、青年は薄暗い一画に爪先を向けて歩き出す。

 大階段の裏側に位置する倉庫の出入り口は、向かって左手の奥、丁度、離れと母屋を繋ぐ通用口の傍にあった。その付近、日中はエントランスの明かり取りから陽光が差し込んで問題ないのだが、夜ともなると階段が邪魔をして、壁に巡らせた照明が届かず薄暗い。

 それで倉庫の明かりも落ちているものだから、ジュメールの向かう先は酷く暗かった。これでは足元に何か落ちていても判らずに踏みつけて転ぶなと思った青年は、不可視モードで立ち上げた索敵陣で階段周辺をサーチし、全景をワイヤーフレームで構築して脳内展開した。

 階段の位置や照明の位置から進行方向を割り出し、視覚情報に障害物情報を書き込んで脳内処理する。見えている暗がりに薄い緑色の障害物やドアの形状が表示されたのを確かめてから、ジュメールは…やれやれと内心肩を竦めた。

 暗闇に口を開け、尚濃い闇を蓄えた倉庫に入ってすぐの辺りに、台車らしいものが放置してある。こんな場所にこんな風に無造作に置いていたら躓くだろうにと思いつつも、それを退けるのではなく躱して奥に到達した青年は、肩に担いでいた衝立を下すと、正しい置き場所かどうかも判らないままながら壁際に立て掛けた。

 なんとなく、これでいいだろうと思う。

 なんとなく、目を凝らしても朧な陰影しか見えない倉庫の中を見回す。

 なんとなく、この闇色が自分を塗り潰してくれないだろうかと、望んだ。

 強固な、純白。

 ああ、あほらし。とタマリ風に心の中で吐き棄て踵を返そうとした時、エントランスの方から短い悲鳴とも叫びともつかない声が聞こえて、青年は小首を傾げた。というかあの状況、且つ…間違いようもなくあの声はアスカのものだったから、今度は何をしでかしたのやらとつい苦笑も漏れる。

 しっかりしているようにして、おかしな所で抜けている。

 見ていると、なんだか胸の辺りがむずむずする。

「その人」は綺麗な花のようで。

 気を緩めると、つい…。

       

 触ってみたく、なるものだから。

        

 ジュメールは身体の脇に垂らした手を無意識に固く握り締め、倉庫入口に向き直った。

 おかしな事になる前に部屋に帰ろうと、淡い緑色で雑多な道具類が表示される暗闇を平素と同じ足取りで数歩進んだ所で、開口部に人影が差す。眩しい白手袋がドアの縁を掴み、暗闇に食い潰されたままの倉庫に転がり込んで来た、直後、ジュメールは「あ」と小さく声を漏らした。

 がっ! と、予想通りの硬い音。

「あ! ……っ!」

 真白い青年が、ああ…。と嘆息混じりに思う間もなくその人影…アスカは、ドア付近に放置されていた台車に躓いて前のめりになり、近付いていたジュメールの胸元に突っ込んだではないか。

 それで青年は、咄嗟に伸ばした右腕でアスカの身体を抱えるのには成功したが勢いに乗ったボディアタックには堪え切れず、若執事をくっつけたまま後ろに引っくり返りそうになった。

 さすがに、二日連続で頭を打つのはどうかと妙に冷静に思う。

 しかも、これでまたアスカに怪我などさせたら、今度こそ若草色の青年が執事長の小言を頂くハメになるだろうとも。

 だからというよりは殆ど反射神経なのだが、ジュメールは空いていた左手で真横に走る棚板を掴んで転倒を避け、しかしその勢いを殺せずに、結果、踏ん張っていた踵を滑らせてその場にどすんと尻餅を突いてしまった。

 がたりばたりと棚に並んだ備品が騒々しくざわめき、手前に積んであったテーブルクロスらしい白い布が傾(なだ)れて、折り重なったジュメールとアスカの頭上に圧し掛かる。綺麗に折りたたまれていたはずのそれにぐちゃぐちゃとした皺が描かれ、灰色に、暗く、黒く翳るのを紅玉色の双眸で捉えてしまった真白い青年は、落ちて、我が身の上に伏せた青年の亜麻色を埋め尽くそうとした白を荒々しく掻き分け、じっと身じろぎせずに居る若執事を引き剥がそうとした。

「アスカ」

 離せと言いたかったのか、怪我はないかと問いたかったのか。ジュメールは刹那迷い、アスカは。

 白手袋に包まれた両手で青年のシャツをしっかりと握り締めて顔を上げ、瑞々しいオリーブ色の瞳で真白い青年を見つめた。

 呼吸さえ憚られるような緊張が、いっときの騒々しさが去った暗闇に落ちる。額に乱れた髪を纏い付かせたアスカは、ジュメールが次に繰り出すだろう言葉を拒むように、今にも消え入りそうな震える声でごめんなさいと言った。

「ごめんなさい、ジューくん…。ごめん、なさい」

 動揺とか、後悔とか。

 そういうものではなく、本当に哀しそうな、辛そうなアスカの声。今だ脳内に展開され視界に割り込んでいる薄緑色の文字の示さない青年執事の表情と気持ちが判らなくて、ジュメールは硬直した。

 判らない。なぜ、アスカに、謝る必要があるのか。

 広がって折り重なったテーブルクロスの白に半ば埋もれたまま、再度胸元に伏せてしまったアスカの亜麻色を凝視し真白い青年はひたすら困惑した。その困惑に意識が全部攫われてバックボーンによる索敵処理命令が崩壊し、視界から緑色の文字列が吹っ飛んだのにも気付かないほどに。

 気付かないほどに。

 開けっ放しの倉庫のドア、その向こうに、すうと淡く白い人影が滑るように現われたのにも。

 アスカもジュメールも、本当に気付かなかった。一旦は直接離れに帰宅したミナミとハルヴァイトが、ドレイクに呼ばれて母屋エントランスに到着していたのに。

 ミナミとハルヴァイトが通用口から母屋に入った時アスカは既に倉庫に駆け込んでおり、二人が目にしたのはぽつんと取り残された長机ひとつだった。それで、当然ハルヴァイトは机など無視して通り過ぎようとしたのだが、ミナミは、きっとそれは誰かが片付けている途中のもので、その誰かはまた別な用事で呼び出されたか倉庫に行っているのだろうから、片付けてやれよとハルヴァイトに言ったのだ。

 そう言う割には自分で運ばない辺りがミナミらしいとかなんとか言いつつ渋々長机を畳むハルヴァイトに先行して倉庫の明かりを点けようとミナミがそこに爪先を向けた途端、目的の場所から盛大な物音がする。暗がりからまろび出た小さな悲鳴と人の気配に、ミナミはなんとなくアスカだなと思った。

 誰がどこで何を引き起こしていようがミナミに危害さえ加わらなければどうでもいいのか、ハルヴァイトは周囲の騒音に動じた風なく長机を畳み終えると、呆気に取られて倉庫を眺めているミナミの傍らに並んだ。それで青年が、色んな意味で内心溜め息を吐きながら、慌てるでもなく倉庫へと向かって歩き出す。まさか中で気を失っている訳でもあるまいが、妙な緊張と静けさに微か首を捻りつつ開口部を覗けば、そこでは…。

「―――……。さすがの俺でも、これには突っ込めねぇだろ…」

 ぱちり、と倉庫内のスイッチを指で弾いてから、ミナミはさも残念そうに唸った。無表情で。

 唐突に明るくなった事でギャラリーに気付いたジュメールがぎょっとして顔を上げ、しきりに瞬きする。まさか暗い倉庫内でアスカと真白い青年がもつれ合ってひっくり返り、その上にテーブルクロスが散乱しているとまで想像していなかったのだろうミナミも、ぱちぱちと瞬きしていた。

「もしかして、邪魔した?」

「……別…に」

 ミナミ登場にも怯む事無く…というか、実は完全にパニック状態だったのかもしれないが…ジュメールの胸元にしがみ付いたきり顔も上げないアスカの後頭部をそれぞれが胡乱に見遣りながら、おかしな会話を交わしてみる。ミナミはミナミで一体この状況にどう対処すればいいのだろうと考え、ジュメールはジュメールで一体この状況をどう釈明すればいいのかと考える。

 刹那の、静寂。

 ミナミのダークブルーが、真白い青年を見つめていた。

「…とりあえず、放っておけばいいんじゃないんですか?」

 果たして、二呼吸ほどの短い時間恋人の横顔を見ていたハルヴァイトが、倉庫開口部の外側に長机を立てかけてから面倒そうに言う。彼は室内を覗いたりしなかったが、先に何が起こって現在そこがどういう状況にあるのか、おかしな物音がした時点から「判っていた」。

「あ、そうか。うん、そうかもな」

 そんな平凡な選択肢に今更気付いたような事を言って頷いたミナミが、相変わらずの無表情を保ったままハルヴァイトに向き直り、一歩踏み出そうとした。

 揺れる金色。崩れない無表情。「下界」の喧騒などまるで与り知らぬとでもいうような「天使」の横顔を凝視していたジュメールの紅玉色に、刹那再来する、当惑。

「天使」

 暗闇の中にも映える亜麻色を無意識に抱き締め、汚れ切った様々なモノを純白で塗り潰して「出来ている」と自分を疑わない青年は、最も長く聞かせられていた「彼」の呼称を口にした。

 それに驚いたのだろうアスカがはっと顔を上げてジュメールを見つめ、ミナミが動きを停める。

「……俺は…」

 天使じゃないと言いかけたミナミの白い顔がゆっくりと旋回し、未だ暗い倉庫の中に座り込んでいる真白い青年を見返した。

 射竦めるのは、観察者のダークブルー。

 だから。

 その、全てを見透かす深海の青にジュメールは許しを乞うた。

「誰にも、言わないでやって」

 懺悔する。純白の鎧を固く閉ざし、二度と、その人に穢れた我が身で触れたりしないから、だから。

「アスカは、悪くない」

 その奇妙な言い回しに、ミナミは首を捻った。

「…つうか、俺さ、アスカがまた何かドジ踏んでそこですっ転んだの言いふらすように見えんの?」

 いやいや心外、とでも言うようにがっくり肩を落としたミナミが、どこか不満げな空気を纏って、なぜか、正面に居るのだろうハルヴァイトに顔を向ける。

「なんでわたしを睨むんですか…」

 などと、睨まれても機嫌のいい…ミナミに関しては最早寛大を通り越しただの莫迦だと最近噂の…ハルヴァイトが笑いを含んだ声で言い返すと、すかさずジュメールが「違う」と否定した。

 一度は逸れたダークブルーがまた自分に戻ったのを確かめてから、真白い青年は首を横に振りながら再度「違う」と言った。そうではない。しかしながら、胸に沸いた後悔のような、罪の意識のような、つまりは正体の知れない複雑過ぎる感情を上手く表す言葉が判らなくて、ジュメールは困ったように息を吐いた。

 ミナミは、暗闇にぼうと浮き上がる純白と微かに揺れる亜麻色を見つめたまま、無表情に待った。

 待つ。

 見つめる。

 彼は、全てを見透かししあわせに取り憑かれた、最強最悪の天使。

 つい下がった紅玉色に、暗い光を落とす亜麻色。どうしていいのか判らないのだろう、ただ見上げて来るだけのアスカから伝わる当惑に、青年は意を決する。

「その人」には、ずっと、花のように健やかで綺麗なまま居て欲しいから。

 天使に、告白を。

      

 俺の中は汚れたもので一杯で、ただそれを白く塗り潰してキレイなフリをしてるだけで、みんなそれを知ってる。だから、そういう浅ましい、浅はかな俺にみんなが汚いものでも見るような眼を向けるのは、当然だししょうがない。

 でも、アスカはそうじゃない。

 俺に触ってしまったくらいで、アスカは汚れない。

 俺はそう思う。

 俺はそう思うけど、みんながどう思うのか、俺には判らない。

 だから。

 誰にも、言わないでやって。

        

 赤い瞳が、真っ直ぐにミナミを見ていた。

「………」

 ミナミも、見ていた。

 床に座り込んだジュメールのシャツをしっかり掴んで離さない白手袋の作る陰影が、深く、キツくなったのを。

「―――…、ジューくんがさ、自分をそういう風に思うの、仕方ねぇってんでもねぇし、しょうがねぇってんでもねぇし、…成り行き上、今はどうしようもねぇんだって、俺は…、ジューくんと似た場所に―――境遇じゃなく、な? 似た場所に在って人間らしく扱って貰えてなかったから、そう思うんだよな」

 身体ごとジュメールと、ジュメールの胸元にしがみ付いたきりのアスカに向き直ったミナミは、相変わらず抑揚少なく話し始めた。

「でもさ、ジューくんが自分を汚れてるってそう思うのはジューくんの勝手で、俺が、今はどうしようもねぇって思うのも俺の勝手でさ、だから、世の中がジューくんをどう思うのも、どう見るのも、結局みんなの勝手なんだよ、きっとさ」

 判るようで判らない感覚。世の中の全てが自分を排斥しようとしている妄想。もしかしたらここでジュメールに、本当の意味で何か進言出来るのはミナミではなくハルヴァイトなのかもしれないが、当の悪魔は黙ってミナミを見つめているだけで、口を開こうという気配さえ見せていない。

 だからミナミは話し続けた。ひとつだけ、到達したい答えがある。

「…俺は、な? あくまでも俺は、今のジューくんは…間違ってるって、そう思う」

 意味の判らない唐突な謝罪。

 それに当惑し、問い質す事も言い訳も封じられ、傷付いたのは誰だった?

「ジューくんはさ」

 ではなぜその誰かは、ただ通り過ぎてもいいような些細な擦れ違いに、傷付いた?

「まず、アスカに、自分は汚れてるけどいいかって、訊かなくちゃなんねぇんじゃねぇ?」

 言われて、それまでミナミに据えられていた赤い瞳が自分の胸元に落ちる。

 瑞々しい、健やかな花のように清潔で清楚な、その人は。

「ぼくは…ジューくんが汚れてるなんて、一度も、そんな風に思った事、ない」

 震える声で、ようやく搾り出すように、呟いた。

 瞬間、ミナミの口元を飾る柔らかな笑み。自分を汚れていると強固に思う者に必要なのは、まず、それでもいいと言ってくれる人か、汚れてなどいないと判らせてくれる人。もしかしたらそのアスカの一言がジュメールの「世界」を変えるかもしれないと少し嬉しい気分になったミナミの耳に、不意に飛び込む…。

「ミナミ様」

 感情を押し殺した…固い声。

 いつ何時でも無表情を貫く…このところ、恋人の暴挙に対してだけは適用外になりつつあるのだが…青年らしからぬ大仰な仕草で肩を跳ね上げたのを見てしまったハルヴァイトが、つい吹き出す。と、こちらは気付いていながら彼…ミラキ家執事長リイン・キーツの接近を許した都市ファイランの悪魔の頬にミナミの剣呑な視線が刺さり、彼は微笑ましい気分ながら神妙な表情を作り直して、無言でホールドアップした。

 はいはい、お叱りは後ほどゆっくりと。という感じか。

 そんな恋人同士の遣り取りに素知らぬふりを決め込んだリインは、停滞ない足取りでミナミに向かって進みながら、黒い瞳を倉庫脇に立て掛けられている長机に移した。

「夕食の支度も揃い、旦那様が食堂にてお待ちでございます」

「あー、はい…。今行きます、今!」

 あたふたと答えつつもミナミは、ガンとしてその場を離れようとはしなかった。何せ、今青年がそこを退けてしまったら、きっと、倉庫の中で完全に硬直しているジュメールとアスカが見つかってしまう。

「ところで、ミナミ様」

「何!」

 つかつかとミナミに、ではなく、倉庫入口付近に放置されている恰好の長机に近付きつつ、リインは極力静かな声で問うた。

「エントランスの片付けを申し付けてあったアスカの姿が見えないようですが、何かご存知でしょうか」

 ご存知も何もねぇよ。とミナミは内心突っ込んだ。

 怖くて、言えなかったが。

「…俺がちょっと、用事…、うん、用事頼んで…それで…」

 無表情に慌てふためくミナミをぼんやり見つめ、ハルヴァイトは…。

「慌てるミナミもかわいい」

「つうかそんなアホな事言ってる間になんとかしようとか思えよ、あんたは!」

 ふむ。と腕を組んで呟いた恋人に、ミナミが速攻で突っ込む。

「ハルヴァイト様とミナミ様はいつも仲睦まじく、リインも喜ばしい限りでございます」

「どこが!」

 ついに長机に手を掛けてそれを持ち上げつつ穏やかな表情で言ったリインにも、ミナミ、思わず突っ込んだ。

 それににこりと微笑みかけた壮年は、ミナミの努力も空しく長机を片付けようと倉庫に向き直り…。

「―――――。」

 ばっちり、無言で額に冷や汗を滲ませたジュメールと目を合わせてしまった。

「ジュメールくん」

「…何か」

 薄暗い倉庫内に反響する怒気を含んだリインの声に、テーブルクロス塗れのアスカがびくうと背筋を硬直させる。

「アスカが、また、何かご迷惑を?」

「またかよ」

 健闘空しく全てが露見してしまったからか、ミナミが溜め息混じりに呟く。

「いや…別に、迷惑は掛けられてないと、思う」

 例えばアスカが自分で放置した台車に躓いて転倒しそうになり、それを偶然中に居たジュメールが抱き留めて一緒に転んでも本人が迷惑だと思わなければいいんだなと青年は、率直に答えてみた。

 しかし、静寂。

 ジュメールは、最高に居心地悪いこの状況をどうやって脱し、且つアスカが叱られないで済むか必死になって考える。

 考えた。

 何もいい考えなど浮かばなかったけれど。

「アスカは、悪くない」

 その短い言葉から受けるのは、庇うという感覚ではなかった。ジュメールの抱えた複雑な内情をゆっくりと解き、外の世界の在り様を見直すための一歩目をようやく踏み出そうとする青年に手を差し伸べるべき若執事を都合の悪い状況に追い込むのはよくないと反射的に判断したミナミは、咄嗟にハルヴァイトを振り向いていた。

 微笑む、悪魔。

 悪魔に全てを赦そうとする天使が必要だったように。

 天使に全てを愛してくれるという悪魔が必要なように。

 今、真白い青年には花のような色彩に溢れたその人が必要だ。

「ところで、リイン」

 他人のお願いなど望む結果まで判っていながら利く気もないハルヴァイトはしかし、相手がミナミだからなのか、何をどう解決して欲しいのかという確認もなしに口を開いた。

「なんでございましょう、ハルヴァイト様」

 長机を手近な場所に立て掛けて向き直って来たリインに視線を投げるでもないハルヴァイトは、吹き抜けになっているエントランスの天井に口を開けた明り取りの窓を見上げ、偉そうに腕を組んでいた。

「アスカを叱るのが上司としてのあなたの責務だと思うのは勝手なんですが、出来ればわたしは早々に夕食を済ませ、アスカ…とジュメールくんを連れて出かけたいんですよ」

 つうかなんだそりゃ。とミナミは思った。とりあえず怒れるリインからアスカを引き離すのはいいが、それでは時間を引き延ばすだけで解決にはなっていない。

 果たして、恋人の不満げな内情が伝わったのか、そうでないのか、ハルヴァイトはふと口元に意味不明の笑みを浮かべて、天井を指差した。

「流星を見に行こうと思って」

 言われて、思わずハルヴァイトの差した天井を見上げてしまったミナミが、ああ、と声を漏らす。

「上級居住区の光度制限だったよな、今日」

「でも、ファイラン私邸のあるこの周辺は警護のためにあまり灯りを落とさないでしょう? ですから、完全消灯地域に指定されている外苑付近まで足を伸ばしませんか?」

 なるほど、それなら距離も遠いから、徒歩では無理だ。となれば当然、ハルヴァイトとミナミはアスカに頼んで移動用の小型フローターを出して貰わなければならない。

「それにですね、確かに倉庫で躓いたのはアスカの不注意ですが、クロスを床にばら撒いたのはジュメールですよ」

 これまたムカつくくらい涼しい顔で言い放ったハルヴァイトの横顔を、リインとミナミが怪訝そうな表情で見遣る。

「原因はアスカです。それは事実。しかし、ジュメールには幾つもの選択肢があったにも関わらず、彼はアスカが怪我をしないという優先事項を譲らず、結果的にアスカを抱き留めて棚のクロスをひっくり返す事になった」

「なんだよその、見て来たような言い方は…」

 問いのような突っ込みのようなミナミの台詞に誰しもが内心同感だと唸ったが、ハルヴァイトは薄く笑って見せただけだった。

「まぁ、どうでもいいんですよ、その辺は。結果はミナミもリインも見ている通りなんですし。

 それで結局わたしがどうしたいかと言うなら、わたしはミナミと出掛ける予定を変えるつもりはないので、アスカとジュメールはさっさと倉庫を片付けて正面口に車を回し、リインはハヌーン料理長に二人の夕食をバスケットに詰めるよう言いに行き、ミナミとわたしはドレイクと夕食を摂りながらリリス・ヘイワードのムービーがどうなったのか聞く。と、そういう事です」

 ハルヴァイトは言い終えると軽く肩を竦めて、あらぬ方向に投げていた視線を水平に動かして、鉛色の瞳で佇むリインを見た。

 邪魔するな。と。

「申し訳ございません、ハルヴァイト様。至急そのようにいたします」

「はい、よろしくお願いします」

「っていうか、…あんた、それ、さ」

 果たして、コレを言っていいものかどうか、ミナミは迷った。

 墓穴か? 墓穴なのか!

 完璧な礼でハルヴァイトとミナミに謝意を示したリインが顔を上げるのと同時、未だ倉庫の中でアスカを抱えたままのジュメールが、溜め息混じりに漏らす。

「デートの予定が狂うのは、嫌なのか…」

 こんな、些細な事で。

「言うな、ジューくん。俺以外がそれに突っ込むな。つか、真顔でそんな恥ずかしい事ぺらぺら喋んな、あんたも!」

 無表情に耳まで真っ赤になって悲鳴を上げたミナミをそれぞれがぽかんと眺め、それから、なんだか可笑しくなって、笑った。

  

   
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