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番外編-9- ゴースト

   
         
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おずおずというよりもびくびくといった感じでそっと開かれたドア。普段ならば気にならないのだろうが、今日は都合悪くも蝶番がキィと小さな悲鳴を上げて、瞬間、特務室に詰めていた衛視たちが一斉に出入り口を振り返る。

「………ぁう」

細い隙間から顔を覗かせ、室内から注がれる視線全部とばっちり目を合わせてしまった少年…アンは涙目で声だか吐息だか判らない音を発し、一旦は開けたドアをそっと閉じて退場しようとした。

つうかどこ行くつもりだよ。と内心突っ込む、ミナミ。

無表情に呆れたままドアを見つめるミナミの視界を横切る、鮮やかな赤と黒。艶やかな肌と白手袋以外を見事なコントラストで纏めた赤色の美女が、閉じかけのドアノブを目にも留まらぬ速さで引っ掴み躊躇なく引き開けると、大方の予想通り、一度は退場を決意したはずのアンがドアにくっ付いて室内に転がり込んで来た。

「うーー」

「うーじゃないわよ、まったく。二日も意識不明で寝込んでその後三日も音信不通だったんだから、少しは言い訳くらいしなさい」

いや、それどの方向の怒りだよ、アリス…。

ミナミはそこで、またも内心突っ込んだ。正直既に頬がひくついてしまうほど限界で、気を抜いたら容赦ない一言が口を衝いて出そうだったが、ここはぐっと我慢する。

「あの…、ご心配おかけしました。本当に、も、もう大丈夫です! 医療院での検査結果も、問題なかったですし、えと、だから…普通に仕事に出てもいいですよって言われましたし…」

早口で勢い良く話したい空気を出しながらも現実的には時々突っかかりつつ、アンは仁王立ちするアリスの顔を見上げて額に冷や汗を滲ませ言った。いや、それとっくに医療院から報告来てるし。とミナミは再三、内心、突っ込んだが、なぜか固く口を閉ざしてテスクに頬杖を突き、素知らぬ振りで正面を見たままだった。

そのミナミを、アンがアリス越しにちらちらと窺っている。

アンが特務室に現れるのを待ち構えるようにミナミが腰を据えていたのは、他でもないヒューのデスクだった。本人は非番でなくどこかに出かけているというのは、ドア近くにあるボードに掲げられたネームプレートを見れば判るのだが。

否。

昨日の別れ際、ヒューも今日から登城だと言い置いて行ったので、城内に居る事は知っていたのだが、というのが正解か。アンとしては。

「それで? 意識が戻ってすぐ医療院を出たはずのアンちゃんは、その後どこに居たのかしら?」

腰に手を当てたまま長い髪を揺らして小首を傾げたアリスが、急ににこりと、それこそ後光が差し込むような美しさで微笑む。うわ怖ぇ! と、その笑顔を目にしてミナミは恐怖に震え上がったが、いつもの無表情だけは絶対に崩さなかった。

         

…全部知っているなどとアリスやジリアンにバレたら、さすがのミナミであっても今回は全て吐くまで許して貰えないだろうから。

      

まさか拷問(!)まではされないだろうが、今アンに注がれている、怪訝さ四割興味三割、で、残りの三割が「なぜヒュー・スレイサーはあんな無謀な行動に出たのか!」という方向性の疑問…これについては内容的に各方向から表現は様々であって、一概に質問が明確にそれを指すものではないに違いないとミナミは思っている…で構成された視線に耐える根性を、都市ファイランの天使と「見えない権力」どもに呼ばれている青年は持ち合わせていない。

と、最早完璧に無表情という表情をモノにしたミナミの横顔を、ハス向かいに位置するジリアンが瞬きもせずにじっと見ている。相変らずいつ見てもいつも同じような姿勢でデスクに着き、モニターから視線を外さず忙しくキーボードを叩いているはずの青年の手が停まっているのに、天使は内心だらだらと冷や汗をかいた。

「だから、それは…その…っ…」

じりじりと後退りしながら涙目でアリスを見上げているアンの弱々しい声をBGMに、ジリアンとミナミの無言の探り合いも続く。

こちらに意識を向けているのに絶対目を合わせようとしないミナミの頑なさに、ジリアンは内心諦め気味の溜め息を漏らしていた。

結局、五日前の騒動は徹底的には緘口令が敷かれ、「エリア内における突発的発生事件の追跡、捕獲訓練」などと言うどうとでも都合よく取れる名称を与えられ、当惑から来る眉間の皺を隠さない一般警備部総司令の宣言で有耶無耶にされた。もちろん、関わった一般警備部第二十一連隊と警備部隊の面々が「それ、嘘だし…」とハラに抱えていたとしても、そこはそれ下級士官の哀しいかな、お上に逆らえる者は皆無だ。

しかも、実質一人に掻き回されて最後に美味しい所(?)を特務室室長クラバイン・フェロウに攫われた二つの隊の隊長どもは、甘んじてその曖昧な決定に従う事にしたらしい。カインはさて置き、ギイルが黙ってそれを受け入れたのはジリアンに取って多少の驚きだったが、ヒューがクラバインに落とされた下りをキャロンから聞いた時には、なんとなくそれもアリかなと思ってしまったものだ。

ジリアンは無表情に見えない冷や汗を額に滲ませているミナミから、笑顔のアリスに威嚇され続けているアンにさらりとした視線を流し、またデータの入力作業に戻った。停滞なくキーボードをかたかたと鳴らしつつ、何かを振り切るようにひとつだけ息を吐く。

全ての原因は、アンにある。これは、間違いない。そして、登城するなり室長室に連行されたまま姿を見せない、という事は、またも頑として言い訳を拒むあの銀色は、あの「少年」のために、ひいてはアンのためだけに、行動したのだろう。

彼はきっと、「幽霊」だった。

それはきっと、凡人には理解出来ない領域の…。

「―――アイリー次長、幽霊って、信じます?」

なんとなく訊いてみたくなって、ジリアンは手を休める事なくモニターにでも話しかけているように呟いた。

「…幽霊って、そういう表現じゃなくてさ、魂…「スピリット」だってんなら、俺は、信じるよ」

ヒューのデスクに頬杖を突いたままふんわりと微笑んだミナミの顔に、アリスもアンもジリアンも、つい、見惚れた。

         

        

「ヒュー・スレイサーに、果たして、アン・ルー・ダイを連れて逃げる必要があったのか?」

       

問われて以後溜め息すら漏らさないヒューの涼しい顔と、デスクに肘を置いて組み合わせた両の指を忙しなく組み替えながらこめかみに血管を浮き上がらせているクラバインの横顔をちらりと窺って、避難よろしく窓際のソファに逃げ込んでいたウォル…恐れ多くも陛下であるのだが…は、人知れずうんざり気味の吐息を漏らした。

正直、またかと思う。

唇の端を引き攣らせながらも懸命に笑顔らしい表情を作るクラバインの、しかし、銀縁眼鏡に覆われたまったく笑っていない目が怖い。

言わない。言いたくないとなったら喉元に銃を突きつけても口を割らないだろうヒューをここまでしつこく問い詰めるのは多分特務室でクラバインだけだろうとどうでもいい事を考えた後、ウォルはなんとなく可笑しくなって小さな笑いを漏らしてしまった。クラバインもクラバインならヒューもヒューか。あの、いつ何時でも冷静沈着を崩さず見た目を裏切らない地味な存在でどんな状況にあっても周囲に溶け込む、実は特務室いちの食わせ者をここまで完璧に苛立たせ、ついでに、平凡な市民の面の皮を引っぺがして豪腕で知られる一式流師範代の顔に出来るのは、あの銀色くらいだろう。

それでお互い一歩も引かずに睨み合うものだから、ウォルは相当本気で肩を落とした。

いわゆる「幽霊騒動」をウォルが聞いたのは、結局、意識を失ったアンを医療院に強制入院させた後、ほぼ全ての問題が解決し、「残されるべくして残された問題をハルヴァイトが強引且つ我侭に引き受けて丸投げ」してからだった。

その報告を受けてからが、頂けないのだが…。

クラバインは、騒ぎの張本人たるヒューを厳重に処分すると言う。

しかしミナミは不問の一点張りで、まず、ここで些細な衝突が起こった。

特務室のトップの意見が分かれているならば、決定は当然のようにさらに上官、陛下へと委ねられる。迷惑な話だけれど。

もしかしてそれも、クラバインとミナミの企みなのではないかとウォルは思ったものだ。何せ、クラバインはヒューの所業が如何に警備軍内の秩序を無視していたか懇々と説いて彼を納得させようとし、ミナミは、こう言ってふわりと笑っただけだったのだ、その二人の温度差に、何か企みを隠しているのではないかと疑って、何が悪い。

         

「必要じゃなくてさ、ヒューにあったのは、理由なんじゃねぇのかな。だから、ヒューはアンくんを連れて逃げた、ってコト。で、な? 俺はさ、もしヒューの立場にいたのがクラバインさんでも、陛下でも、ジルでもギイルでもさ、ヒューと同じような状況で選択迫られたら、やっぱ、逃げるつうか、「幽霊」の望み、叶えてやろうとすんじゃねぇ? って思う。……、それが、あの人だったら別な行動になるんだろうけどな」

         

ヒューを庇うというよりも彼の行動を黙認しようとするミナミの発言に、ウォルはちょっと首を傾げた。それから、暫し。一時保留していたヒューの処分を決めなければならない今日、この時まで、陛下はミナミの言葉を考え続けている。

アン少年が「幽霊」に取り憑かれたら、誰でも、その望みを叶えてやろうとする? 二十年前に鬼籍に入った技術者との約束を守ろうとする美談だからか? ないとは言えないかもしれないが、それこそ、そんな美談の片棒を担ぐなんてあの銀色にこそ一番似合わなそうなのに?

無言で睨み合うクラバインとヒューの恐ろしく緊張度の高い気配を感じながらミナミの台詞をぐるぐると頭の中で回していた陛下はそこでふと、奇妙な事に気付いた。

やや小振りなソファの中でゆったりと足を組み替え、白くて細い指先を顎に当てたウォルが、薄っすらと眉間に皺を寄せる。ミナミは果たして何を陛下に訴えたかったのか? ヒューが抱えていたのは「理由」だと、彼は言った。

そう。「アンを連れて逃げ、周囲を騒がせても構わないとヒューが判断した」理由。

クラバインでも、ウォルでも、ジリアンでも、ギイルでも、「そうするだろう」理由。

しかし、ハルヴァイトは違うという、理由?

「ガリューなら、違う行動を取る? そもそも、アレが何か行動を起こすのはアイリーが絡んでいる時だけなんだから、アンくん……」

ぶつぶつと口の中で一人ごち、陛下は不意に口を噤んだ。

その行動に差異はあれど、ハルヴァイトだってなんらかの行動を起こすだろうとミナミははっきり言った。それなのに彼は、「アンが幽霊に取り憑かれたら」という前提を繰り返さなかった。ただ、「ヒューと同じ状況に置かれて選択を迫られたら」と言っただけだ。

だからウォルは仮定する。

もし、「ミナミ」が幽霊に取り憑かれたら? と。

明確な「何か」が判った訳ではないけれど、無意識に緩んで来る口元を引き締めようともせず、ウォルは膝の上に置いていた腕をソファの背凭れに片方だけ載せ、折り曲げたそれに側頭部を預けた。ミナミの提示したテストケースのうち、確実に判るのはクラバインだけで自分については酷く微妙だと思ったが、噂によれば「特務室の眼鏡」にも、電脳班に振り回されてやつれ気味だと自己申告している警備部隊の隊長にも、「大事な人」が居るという。

だ、と、したら?

「クラバイン、アイリーを呼べ」

振り返りもせずにぴしゃりと言った陛下に尻を叩かれて渋々立ち上がったクラバインが

衛視室のドアを開け放つと、まるで待ち構えていたかのようにミナミが立っていた。どうぞと促されて入室して来た青年が、いつも通りの涼しい顔で佇むヒューにちらりと平坦な視線を向けただけで何も言わず、陛下の待つソファに歩み寄る。

「僕の勘の良さに感謝しろ、アイリー」

「命令口調かよ」

不意に相好を崩してにやにやしながら言ったウォルの白皙を、ミナミがダークブルーの双眸でじっと見つめる。

「あんな判り難いヒントしかくれなかったくせに、そこで突っ込むな」

わざと作った剣呑な黒瞳でじろりと睨まれて、ミナミは無表情のまま恐々と肩を竦めるフリをした。実際はこれだって予定調和か? 既にウォルとミナミの中で「それ」は決定事項となり、今更騒ぎ立てる程の発見でもない。

紛い物の険しい表情を消したウォルは、ほんの少しウキウキした気分でにこりと微笑み、ミナミに座るように自分の正面を指差した。

「ガリューといいスレイサーといい、どうしてもう少し大人しく出来ないのかな」

背凭れから外した手を再度膝の上に組み、ウォルは口の中で囁くように言って小首を傾げた。まるで、これで合っているか? とでも言われているような感覚に、ミナミの無表情が小さく崩れる。

「系統が一緒らしいから、しょうがねぇんじゃねぇ?」

それはどんな系統だと、ウォルが声を立てて笑う。その様子にクラバインはさも不審そうな顔をしたが、和やかに話す二人に背を向けたままのヒューからは、なんとも言えない微妙な空気が洩れていた。

銀色の発する複雑な気配を感じ取って、ウォルはソファから身を乗り出してミナミに顔を近付けた。多分そうなると判っていたのだろう青年もちょっと前屈みになって、陛下の赤い唇に耳元を寄せる。

「つまりスレイサーは、「アンくん」に涙目でお願いされたのを断わりきれなかった、ってコトでいいの?」

「と、俺は思うけど?」

「じゃぁ、それでいいんじゃない?」

「陛下がそれでいいんなら、いいんじゃねぇ?」

ナニゆえかお互い疑問系で話すも、ウォルはずっとにやにやしていたし、ミナミの口元もほんのりと笑みを形作っている、奇妙な光景。会話が聞こえないからこそクラバインは益々怪訝な顔をし、ヒューは…。

雑多に散らかったクラバインのデスクを睨んだまま、背中に嫌な汗をかいた。

自分に取って都合の悪い相談がなされている。と、銀色は感じ取っている。というか、ミナミが登場した時点で言い逃れは出来ない。最悪。しかも、クラバインには聞かせないで陛下だけを懐に抱き込んだ青年の狡猾さに無条件で降伏しそうだと、ヒューは額に冷や汗を滲ませて思った。

最悪というか、最早恐怖。これでヒュー・スレイサーは、一生、ミナミだけでなくウォルにも頭が上がらない。決定事項として。

何か絶対色々バレてると内心肩を落としつつも涼しい顔を崩さないヒューの背中に、笑いを含んだ陛下の声が弾ける。

「スレイサーは退室して通常の職務に戻れ」

「陛下!」

事実上処分なしをさらりと告げたウォルに、クラバインが噛み付く。しかし都市ファイランの頂点におわす若く美しい国王陛下は、肩に流れるベルベットのような黒髪をさらりと揺らして、首を横に振った。

「クラバイン、多分、正しいのはお前だ。でも、僕はスレイサーが間違っていたとも思わない。規律を守る事は秩序の維持の為に必要だと、僕にだって判ってる。

でも、それだけじゃないだろう? この世の利権を握っているのが人間である以上ね」

ウォルはそう言って、意味ありげにウィンクした。

  

   
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