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EX+1 ほろ苦ストロベリ

   
         
(7)

     

しあわせは儚いのだと、いつか読んだ本に書いてあった。

しあわせは時が経てば感じられるのだと、どこかの歌手が歌っていた。

ぼくは。

『あの両親』に捨てられてから、もうすぐ十年になります。

       

       

生徒役員会が開催された翌日から。

マキは、中庭のベンチに姿を見せなくなった。

      

       

「だから、こりゃぜってーおかしいだろ」

抱えていた昼食をベンチの中央にばらばらと転がしたリックは、いかにも不機嫌そうに言いながら背凭れに身体をぶつけるようにしてどさりと座り込んだ。

「……確かに、どうもおかしい」

乱暴に扱われたせいですっかり形の歪んでしまったサンドイッチと、受け取る人もないのに毎日買われてくるカルシウム飲料に憐れみの視線を据えたまま、ジンはようやく口を開いた。

「だって突然だぜ、突然。そんで、もう三日だ。例えばクラスに友達が出来たとかさー、そういう理由だったらオレたちだって別に文句は言わないんだから、何か一言あってもいいだろ!」

リックが時折発揮する子供っぽい表情で正面を睨んでいるのをちらりと横目で見たジンが、サンドイッチではなく今日も持ち主不在が決定したカルシウム飲料を手に取る。

「…もしそうなっても、「一言」はないな」

「はぁ!?」

一日目、二日目と…マキの姿がないのに傾いていた機嫌が最低ラインを割り込んだのか、リックはジンの素っ気無い受け答えにまで喧嘩腰で言い返して来た。元来の甘めに緩んだ目尻を目一杯吊り上げて身を乗り出した幼馴染を片手で制しつつ、少年が大袈裟に溜め息を吐く。

「友達が出来たから教室でランチを摂る事にしたなんて、マキくんがわざわざ言って来る訳ないだろう? リック。その、新しく出来た友達と一緒にここに駆け込んで来るかもしれないが、「言いに」なんて来ない」

きらきらの笑顔でいかにも嬉しそうに、新しい友達を自慢しに来るかもしれないが。

「ああ……そっか。そうだよな」

急に勢いを失くしたリックが、疲れた声で呟き、自分の膝に頬杖を突く。もう温くなり始めたカルシウム飲料を飲みながら、ジンも、出来ればそんな憂鬱な顔をしたいと思った。

「もしかしてオレたち」

「…ん?」

「色々強引過ぎて、マキちゃんに嫌われた?」

「…さぁ、どうだろう」

「でもなぁ」

「―――…」

赤煉瓦の歩道に囲まれた人工芝の上で笑い合う生徒たちを眺めながら、リックが溜め息を漏らす。ジンと二人きりだった時は周囲など気にも留めていなくて気付かなかったが、中庭にはいつも同じような顔振れが集まっていた。

「楽しいなんて、言ってくれたんだけどなぁ」

「…何が」

「オレたちと一緒に居て楽しいかって訊いたら、ちょっとほっぺ赤くしてさ、うんていつもみたいに頷いて」

数十年も前の記憶を呼び覚ましている年寄りみたいな顔で遠くを眺める、リックの横顔。

「―――慣れって怖いよなぁ」

「だから、何が」

嫌われたのかもしれない。もう、あのささやかな幸せときらきらの笑顔はただの思い出かもしれない。ジンが極力考えないようにしている事を目の前に次々突き付けてくるリックに内心苛立ちつつ、ジンは平静を装って問いかけた。

「うぜぇ周囲の視線なんか、マキちゃんが傍でにこにこしててくれるだけで、もーどうでもいい感じになってたんだよな、オレ。癒されてたっていうか」

「…………」

ずずっ。と最後の一口を啜ったジンが、カルシウム飲料のパックを握り潰す。

「ジンだって、そうだろ」

「……」

「お前があんな普通に笑ってんの見たの、ガキの時以来だったぜ?」

「楽しかったよ」

黙っているのが辛くなったのか、ジンもリックと同じに正面を睨んだまま、ぶっきらぼうに言い捨てた。

「ガードしなくて良かったから。迂闊な事を言って付け上がらせて、友達面されるんじゃないかとか、そういう心配もいらなかった」

だから多分。

「…マキくんは、誰にも、ここで僕たちと何を話したか、何をしてふざけていたのか、自慢しなかった」

だから多分。

「僕たちの家の事も、将来の事も、何一つ訊かなかった」

だから、多分。

リックが不意に顔を伏せ、赤錆色の髪を両手で抱え込んだ。

「なんか今、失恋した気分」

乾いた笑いと笑えない台詞を鼻で笑い飛ばし、ジンは天蓋を見上げる。

同感だと言いそうになって。

「は…」

ジンは、わざとらしく短く笑った。

         

        

翌日。

いい加減底にめり込んでしまうのではないかと思うほどリックの機嫌は傾いていたが、二人はどうしても実技クラスにマキを訪ねる気にはなれなかった。

いや。おかしいとは、思う。

何度か、教室を移動する途中で実技クラスの前を通ったが、マキは二人に気付かないようだった。見るたび少年はぽつんと座席に座っていて、ぼんやり窓の外を見ている背中しか、二人には見せてくれない。

その不自然さに、ジンは悩まされていた。

何か、おかしい。

今日もまた懲りずに中庭のベンチにやって来たジンは、買い出しのリックが戻るまでの短い時間に考えた。

マキが姿を見せなくなったのは、あの生徒役員会の次の日からだった。役員会の日の昼食時に別れるまで、少年に変わった所はなかったはずだ。では、あの日に何かあったのだろうか? どこで? そもそも、どうして自分たちはああも頑なに…。

と、そこまで考えて、ふと首を捻る。

マキは、何時だってジンとリックの視線に気付いた。それこそ廊下を行き過ぎる間際にちらりと見遣れば、すぐに視線が合って笑顔が送られた。

だとしたらやはり今は、頑なに視線を合わせないようにしているという事なのだろう。

マキの笑顔が視界から消えて、一週間。

ジンにも、限界が来ていたのかもしれない。

「あの…ジンさん?」

「…―――なんだい」

足元を睨んでいた視界に革靴の爪先が入り込んで、ジンは慌てて顔を上げてから、あからさまに落胆した声を絞り出した。そこに立っていたのは希望の人物ではなく、確か、教養クラスBの成績上位者だったなと、あやふやな記憶の中から探り出す。

似合わない大きな黒縁眼鏡に、鬱蒼と目に掛かるブルネット。次に擦れ違ったら気付かないような、地味な顔立ち。そのくせ変にプライドが高くて、以前、中等部全体を纏めるならBクラスにもジンとリックの親しい友人が居るべきじゃないかなどと訳の判らない事を言って後を付いて回り、結局、リックに追い払われた筈だ。

いつまで経っても借り物のように、身体に合っていないブレザーの裾をもじもじと弄る眼鏡少年の手に黄色い包みが抱えられているのを見て、ジンは怪訝そうに眉を寄せた。

「ぼくの名前、覚えてますか?」

「いいや」

一瞬の逡巡もなくばっさり斬り捨てられて、眼鏡少年が頬を引き攣らせる。

「び…Bクラスの、リフェール・プラドです」

「ああ、そう」

「前にも一度、じ…自己紹介しましたよね?」

「そうだったかな」

にべもなく、正直、もうどっかに行ってくれと言わんばかりの冷たい口調で突き放されても、眼鏡少年は怯まなかった。

「ら…ランチを、ご一緒してもいいですか?」

抱き締めた黄色い包みと緊張気味の顔を見比べて、ジンは大袈裟に溜め息を吐いてやろうと息を吸い込んだ。そもそも、こんなに緊張して、しかも同学年なのに敬語を使ってくるような相手と昼食など摂っても楽しくないとうんざりしつつ顔を上げた途端、眼鏡少年は前のめりになって「あの!」と声を張り上げた。

「最近、ジンさんとリックさんが…その…、実技クラスの転入生に避けられてて、寂しそうだと聞いたもので」

はい? という気分だった。多分、いつも隙のないジンにしたら、奇跡的に間抜けな顔をしていたかもしれない。

「……寂しそう?」

まさか、そう見えるのだろうか。確かに寂しいとは思うが、自分が第三者だったら、特に刺々しい空気を辺り構わず発散するリックを「寂しそう」などとは思わないし、近付きたくない。

変な衝撃を受けてぽかんと眼鏡少年を凝視したまま、ジンはその場に固まっていた。寂しそう? マキに避けられて? 避けられて、寂しそう? 避けられて? ………。

サケラレテ サミシソウ。

「―――そうか…」

不意にジンは小さく呟いて俯き、それから。

「こちらへどうぞ」

と、唇の端に酷薄な作り笑いを浮かべ、ベンチを手で示した。

  

   
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