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    花柳の酒    
       
それにまで逃げられていた

  

 生意気にも犬猫が湯治になど出掛けてしまったので、居候の餓鬼でもからかって暇を潰してやろうと塒(ねぐら)に戻ったら、それにまで逃げられていた。

  

「……あいつら…グルだな。絶対」

 半兵衛は苦々しげに呟きながらネクタイを緩め、テーブルの書き置きを取り上げて、ふっ、と小さく溜め息を吐いた。

「…ハラ減ったな」

 傾き始めた真っ赤な太陽がビルの隙間に消えて行こうとするのを突っ立ったまま暫く見つめ、緩めたネクタイを締め直して、書き置きの内容を反芻する。

「翁より乞うと伝達あり。極楽寺の庵にて、主より其の品を受け取り給う」

 最初の一行は万年筆の縦書き。相当崩されていて読み難かったが、なかなかどうして達筆。

「じいちゃんの話だとどうも「酒」絡みらしいので、未成年の僕は羽丹さんとこたろと遊びに行ってきます。ちゃんと食事してくださいね。……タケ」

 次のは二行目というよりも、横に書かれた一塊といったふうか。女のようにか細い文字がへちゃへちゃと並び、一行目よりも暗号のようで読み難い。

 さて問題の三行目である。

「おいらがいないと思って、散歩に悪さすんなよ」

 目眩を覚えるような殴り書き。幼稚園児の方が数倍はマシだろうその文字に苦笑いを向け、半兵衛はくわえたキャメルを手に取った。

「…犬と猫と餓鬼がうわばみ押し付けて、何を偉そうに言ってるんだかな」

 眼底に突き刺さるような白い、正方形の紙。読み終えて用の無くなったそれを宙に放り、半兵衛は手にしていた煙草をひらひら舞い飛ぶ紙片に近付けた。

 足下から宵の闇迫り来る一室。

 赤紫の空をいっぱいに閉じ込めた窓を背に、黒ずくめの怪しげな男が外さないサングラスの下で、真紅の、獣の光を回す。

「油断してると……喰っちゃいますよ。……散歩先生」

 にいっと引き上げた口元から白い犬歯が覗き、薄紙に押し付けた小さな火が、一瞬でそれを灰も残さず燃やし尽くした。

  

  

 どうにもこうにも仕方がないので、言われた通り馴染みの辻占売りを訪ねる事にして塒(ねぐら)を出、竹林に囲まれた庵を目指しながら鬱々と考えた。酒絡みの厄介ごとを察知して犬猫が逃げ出したとすれば、これはまぁ大した手間の掛かる仕事でもないだろうと当りをつける。そう思うと、邪魔で五月蝿い取り巻き連中がいないのはなんとも有り難いではないか、と、現金にもにやついてみたりする。これはまた願ってもない絶好の機会だ。のんびり一つ、ほろ酔いでアレでも口説いてみるか、と暢気に構えた。……俺が先に、潰れなければ、だが。

  

  

 夕暮れを過ぎたばかり、という珍しい時間に現われた半兵衛を迎えた散歩は、いつもと少し違う、薄い藤色の着流し姿だった。下したままで結っていない長い髪を肩に流し、なにをしていたのか、白い襷を外しながら微笑む。

「萬楽堂(まんがくどう)さんが、あちらの品の払いを頼んでいかれましたよ」

 青畳の真ん中に置かれたちゃぶ台に目を向け、縁側を背にしてどさりとあぐらをかいた半兵衛が、いつもは夜でも外さないサングラスを懐に仕舞いつつ首を傾げる。

「……徳利だな」

「そうですね」

「それとぐい呑みが一対」

「ええ」

「普通の」

「わたしもそう思います」

 半兵衛の傍らに膝を付いた散歩も、少し困ったように細い眉を寄せた。

「何かいれば「喰って」おしまいだが、何もいなけりゃ……酒でも呑むか?」

 問い掛ける視線にふと口元をほころばせた散歩が、思い出したようにぽんと手を打つ。

「そうそう。酒なら一合あればいいと言われているのですが、萬楽堂さんに」

 それを聴いた途端、半兵衛がいきなり吹き出した。

「……一斗の間違いだろう? しかも、俺の分は入れないで」

 笑いながら徳利を手にとり、中を覗き込んでからからと振ってみるが、別に変わったところはない。

「そんなに呑みませんよ、わたしは」

「轟のダンナとふたりで部屋に一升瓶十三本も転がして、けろっとしてたのは誰だ? 散歩」

「……ふたりででしょう…」

 咎めるようにじろりと見下ろされても、半兵衛はまだくすくす笑っていた。

「ダンナ…五本目が空になったのを憶えてなかったぞ」

 それにうっと息をのみ、散歩が半兵衛から顔を背ける。

 物をハラに収める事に関して他人をとやかく言う立場にはないが、背丈ばかり伸びて華奢な男のどこにそんな量の酒が入るのか少し不思議に思いつつも、半兵衛はちゃぶ台に頬杖を突いてにやにやした。

「まぁいいや。じいさんの持ち込んだモンだ。一合の酒で何か面白いものでも見られるんだろうから、どうせ暇だし、付き合うか」

 語尾の言い方が非常に気になった散歩が、半兵衛に顔を向ける。

「……誰が誰にです?」

「俺がお前にに決まってるだろう?」

 窮屈なジャケットを脱いでその辺に放り出し、半兵衛は真紅の光を回す漆黒の瞳でさも可笑しげに笑った。

「お手柔らかに頼むよ、散歩先生。何せ俺は、いつだってすきっ腹なんだからな」

 からかい混じりの口調に、ついぞ散歩も笑い出した。

  

   
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