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    花柳の酒    
       
クチはあるが喋らぬ徳利

  

 青い上薬を流した平凡な徳利と、揃いらしい一対のぐい呑み。別段高級な訳でもあるまいし、クチはあるが喋らぬ徳利、安酒でも文句など垂れるまいと言う事になって、母屋から酒を一合分けて貰って満たしてみた。少し待っても何も起こらないので、ではご相伴に、と差しつ差されつしているうちに、ふと、奇妙な事に気が付いた。

  

  

 舌の先にぴりっと来る辛口の酒。これはなかなか好みだな、などと言い合いながら肴も無しに杯を傾けていると、散歩がついと立ち上がった。

「何か、支度しましょう」

 微笑んで台所へ向かう背中をぼんやり見つめ、それが薄暗がりに消えてから、溜め息を一つ。障子の向こうの竹林が臆病な半兵衛を笑うように風に揺れると、そのさわついた少し肌寒い音に、いかばかりかの苛立ちを感じた。

 杯を空にして徳利を取り上げ、おや? と片眉を上げた半兵衛が、不意ににやりと口元を歪める。視線を投げた壁掛け時計はまだ宵の口。しかし、方やうわばみ、方や底無しが小一時間も呑んだにしては、徳利の重さが……先より重くなっていた。

  

  

 さてこれは面妖な。と思うより先に、少々面白い事になった、とほくそ笑んで、手酌で一杯。月も良い、風もある、冷やよりここはひとつ、人肌なんぞが風流ではないもんかねぇと皮肉に言って、言った途端に、徳利が酒を沸かして出して寄越した。そのサービス精神に感服しつつも杯を二度ほど空にすると、アレがよく焼いた白身魚を手に戻って来たので、それを見て、ちょっと……。

  

  

 つまむ程度の大きさにされた、塩の利いた肴を一つ手で口に放り込み、半兵衛は良い事を思い付いたような顔で立ち上がった。

「月見で一杯と洒落込むか…」

「花札みたいですね」

「叙情的と言って欲しいモンだな」

 あっはっは、と笑いながら奇麗にセットされたソフトリーゼントを掻き回した半兵衛は、後ろの障子をばらりと開け放って、ちゃぶ台を縁側へ追い出した。周囲に民家もなく、街の中には違いないのだが、背の高い杉林と竹林に囲まれたこの場所は喧騒も届かず、奇妙に静かで、奇妙に、異質な空間といえた。

 全てから、切り離されているように。

 しっかりと杯を握って青畳の真ん中に座り込んだ散歩を振り向き、半兵衛が自分の足下を指差して横柄に言い放った。

「ここ来て座れ」

 それのどこが可笑しかったのか、散歩は口元に手を添えてくすくす笑いながら、言われた通りに半兵衛のすぐ傍らに腰を落ち着けて、手の届くところに置かれたちゃぶ台に杯を戻す。部屋の灯かりを落し、わざと月明かりだけにした中に朧な藤色。崩した爪先ばかりが、やたらと白く浮かび上がる。

 それに微笑み、途端ごろりと寝転んだ半兵衛は、散歩の膝枕で御満悦。

「何をするのかと思えば、これじゃぁこたろと変わりありませんね」

  

  

 あんなチビ猫又といっしょくたにされるのは面白くなかったが、引っ叩いて振り落とされなかっただけでも良しとするか、と苦笑いだけで応える。腕を組んで横たわり、乾いた笹葉の立てる音とアレが徳利の口を杯にあてる小さな音。それだけを聞いているうちに、なんともまぁ、だらけた気分になってきた。

  

  

「……減りませんね」

 ややうとうとしていた半兵衛がその呟きに重い瞼を上げると、散歩が徳利を手に取って振ってみていた。

 だろ? と今更ながらそれを言い忘れていたのに気付いてがしがし髪をかきつつ、半兵衛が半身を起こす。

 これまた忘れていたが、別に散歩の膝枕で月見酒を堪能しに来た訳ではなかったのだ。

「どこからじいさんのところに運び込まれたモンなのか、お前知ってるか?」

 杯の中ですっかり冷えてしまった残りを飲み干すと、散歩が慣れた手つきで淡い金色の酒をまた注ぐ。どうやら、人肌になった所で酒の種類も変わっていたらしい。

「なんでも、元遊郭だった古い建物の倉から出た物らしいですよ。櫛やら簪やら鏡台やらと一緒くたに、行李に放り込まれていたとか」

「……その、櫛やら簪やら鏡台やらに生首でも付いてりゃぁ、話は早かったんだがな」

 立てた片膝に片腕を乗せ、喉の奥でくつくつ笑う半兵衛を困ったように見遣った散歩が、小さく溜め息を吐く。

「怨念だとか情念だとかは分かり易くていい。ハラに納めてしまえば、しがみついてたモンが結局姿も形もない自分の分身だったと気付くからな。未来永劫変わらないモンなんざ、この世には存在しない」

 月に照らされた端正な横顔の中、それだけが別の生き物のように、真紅の瞳がぎらりと光った。

「……そうなんだろ? なぁ。散歩先生」

「ひどい意地悪を言いますね、半兵衛は。わたしに、どう応えろと言うんです?」

 責めるように睨まれて、応えなくていいよ、とふざけて笑いながら言い、半兵衛は散歩の杯に酒を満たした。

「さて問題のこの徳利だが、どう思う?」

 今度は応えを求めるように問い掛けられて、散歩が首を横に振る。

「皆目見当も付きません。黙って好きなだけ酒を湧かす徳利なんて、昔話くらいでしか聞きませんから」

「遊郭で酒…か。女買ってこれだけ呑んだら、線香代は如何ほどかねぇ」

「?」

 手酌で自分の杯を満杯にし、半兵衛がけたけた笑いながら肴をつまむ。

「……酔ってます?」

 眉を寄せて覗き込んでくる散歩に視線を向け、堪えきれずにまた笑う。

「あ? いや。本当の話さ。遊郭に行くにゃ相当な金がいる。酒も肴もバカ高いわ、女だって…ピンからキリまでいはするが、夜鷹買うよりゃ出るモンが多い」

 喉の奥でイヤな笑いを押し殺し、半兵衛は散歩から目を逸らした。

「まぁ、他も出すからいいんだろうが……な」

 散歩がそれを耳に、杯を当てた口元に冷笑を浮べる。

「どうせ出しに行くのでしょう? だったらお好きなだけどうぞ、と言うべきですね」

「ツケもないのに肉体労働強要されて、でも、お好きにならないのもここに居るんだがね」

「それはそれはご愁傷様です」

 まるで他人事のようににっこりと微笑みかけられ、半兵衛が急に面白くなさそうな顔をした。

「まぁ、現代のあなたは線香代と無縁なのですから、お好きにならない事に愚痴を言っても仕方ないですね。因みに、わたしは、あなたに肉体労働を強要したりしていませんので」

 ぷい、っと半兵衛から顔を背けた散歩が、素知らぬ振りで杯をきゅっと空ける。

「あー、はいはい。どっかで出しときますんでご心配なく」

 拗ねたように吐き捨ててその場にごろんと仰向けに寝転がり、半兵衛は暫く黙って天井を見上げていた。その気でもあり、その気でも無し。という間柄にあって、こんな下らない言い合いでもなかろうに、と思わず苦笑いが漏れる。

 寝返って背を丸め、青畳の縁にひっそり座った散歩の華奢な肩を、じっと見つめる。と、それに気付いてか、散歩が少し顔を傾けた。

「・・・・・・・・・ハラ減ったな」

 半兵衛は、いつものようにいつものセリフを呟いて、苛ついた吐息。

 藍に緑。ひっそりとした藤色の背中に流れる、色の薄い長い髪。微かに俯け肩越しに見遣ってくる面は白く、長い睫の先で小さな月光がきらきらと弾けている。

 やや酷薄な唇が、応えて、微かに囁いた。

「難儀な事ですね」

 言い置いて、冷たい笑い。頬に掛かる髪を耳に掛ける仕草の、細い指。するりと肌を滑り降りた袖から覗く、細い手首。やや乱れた裾から伸びる、細い爪先。

 ついに半兵衛はゆっくり身を起こし、散歩の髪に手を伸ばした。

  

   
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