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    花柳の酒    
       
もっと動物的なところで

  

 さて困ったモンだと顔を顰めて、溜め息を吐く。

 極度の緊張状態と性欲は比例するという研究結果があるらしいが、もっと動物的なところで、食欲と性欲も比例するというのは意外に有名な話。女も男も、人間だってとどのつまり動物で、満腹な時より空腹時の方が色っぽいモンだし、喰いたい欲がなければ、目の前でしどけなく痴態を晒されても、だからそれで? ってな気分になる。……結局、今回も黒いのに上手いこと丸め込まれた訳なんだろうが…。

  

  

 今更杯を使って酒を呑む程のこともなく、半兵衛は気の抜けたような顔でキャメルを吹かしていた。

 年中死ぬほどハラを減らしているのに慣れてしまったせいか、今更その「飢餓感」が身体から切り離されていると、どうにもこうにも、指を動かすのも面倒なほど、怠けた気分になるらしい。

 ややあってようやく夜半頃。畳に転がされていた散歩が、形のいい眉を微かに寄せて身動ぎ、ゆっくりと瞼を持ち上げた。

「…よお、お帰り」

「……?」

 眠そうにがしがし髪を掻きながら、立てた片膝に腕を乗せたままの半兵衛が、なんだか的を射ない言葉で散歩を迎えた。

 乱れた裾を直しつつ身を起こし、不思議そうに首を傾げる散歩に苦笑いして見せて、半兵衛が短くなったキャメルを灰皿に押し付ける。そのゆったりした仕草に何を思ったのか、散歩は黙って、ちゃぶ台の上に置かれた徳利と杯に視線を移した。

「わたしがいない間に、何があったんですか?」

 滅多な事では周囲に関心を持たない散歩が、ちゃぶ台に置かれた逆様の杯に白くて細い指を伸ばす。普段ならそれだけで目眩がするのだが、今日に限って何も感じないのを恨めしいと思いつつ、半兵衛はその指が辿り着くだろう先にある杯を取り上げた。

「徳利の底を叩くいい方法をな、黒いのに教えて貰っただけさ」

 いつの間にか二つとも逆さにされた杯。伸ばした手の先にある一つを元通りひっくり返して置き直し、徳利を取り上げて、半兵衛がまた苦笑い。

「…………本当ですか?」

 訝しげな問いかけには答えず、徳利を傾けて最後の酒を杯に空ける。

 ことり、と、薄金色の酒ととんぼ玉がその口からまろび出て、徳利はスッカラカン。半兵衛は一滴の酒も残ってないよ、と言いたげな、複雑そうな表情で底を叩き、鮮やかな青いそれを畳に転がした。

「これ…は?」

 杯の真ん中に落ちた透明な皮膜のとんぼ玉。その中央には、どこかで見たことのある、でも、どこで見たのか思い出せない、複雑怪奇な深紅の幾何学模様が描かれていた。

 小さな、深紅の銀河。細く短い線で緻密に描かれた…模様?

 見つめて来る黒い瞳の奥に微か黒いのの面影を見て、半兵衛は小首を傾げ、こんな意地悪を言った。

「その杯を空にして、払いはお終いだ。……呑むか?」

 半兵衛の探偵事務所に居候中の秀武。その秀武の祖父が営む「萬楽堂(まんがくどう)」なる骨董商。そこに運び込まれた曰く付きの古物は「有り物」と呼ばれ、お抱えの「憑き物落とし」がキレイさっぱり業を払って、売りに出される。

 つまり、その「憑き物落とし」こそが、半兵衛なのだ。

「……………呑むって…これごと?」

 少々薄気味悪そうに眉を寄せた散歩に気のない笑いを向け、半兵衛が肯定するように小首を傾げる。その、いつもより棘も悪意もない黒い瞳に瞬く深紅の光が何を語ろうとしているのか探りつつも、散歩は杯に手を伸ばした。

  

  

 本当に可笑しな話になったものだと最後の苦笑い。黒いのなど呼び出さず抵抗されるのを覚悟でこれをからかっていた方が余程愉しかっただろうにと後悔したが、それこそ後の祭りだったりする。

 過去は保存されていない。だから、戻る時間は存在しない。

 ………今更、どの瞬間(とき)に戻ればいいのかなんて、この先永劫判りっこないんだろうがなぁ。……………とか、思う。

  

  

 新しいキャメルを唇に載せ、半兵衛はそれまで散歩に据えていた視線を点す炎の先に移した。

「…それな。呑むっていうなら止めはしないが、珠は呑み込むなよ」

 で、何かを問い質したそうな散歩の顔を覗き込む。

「呑まないなら、返してくれ」

 キャメルを唇に引っかけたまま寄りかかっていた襖を背中で押し、散歩の手にした杯を取り上げようと身を乗り出す。一瞬の迷いを半兵衛の奇妙な言いぐさと表情ですっぱり消し去った散歩が、不意に杯を口元に寄せ、薄く笑って、それを傾けた。

 淡い金色の酒は飲み干され、徳利は沈黙。紅い模様を閉じこめた透明な皮膜のとんぼ玉は、それと一緒に散歩の口の中へ。

 途端、散歩が妙な顔をする。

 元は人肌だったが今はすっかり冷え切った酒の中に沈められている浄玻璃の歪んだ球体が舌に触れたと思った刹那、冷めないなにかを閉じこめてでもいるかのような、痺れに似た灼熱を感じた。味の無い無機質を含んだはずなのに、苦い、微かに甘い知った感覚で一瞬気が遠くなり、すぐに舌先の痺れが全身に回って首の後ろから畳に沈みそうになる。

 空になった杯を取り零し後ろに倒れかける散歩の腕を掴んで引き寄せながら、半兵衛はげたげた笑い出した。笑いながら、歪んだ白い面を隠すように胸に掻き抱き、転がった杯を拾ってちゃぶ台に戻し、キャメルを放り込む。

「…やるなと言えばやる。やれと言えばやらない。お前本当は俺が大嫌いか……」

 色の薄い髪を撫で上げて苦しげな顔を晒し、頬を流した指先で軽く顎を捕らえ仰向かせて、遠慮もなく同意も求めず、いきなり唇を合わせる。それに驚いた散歩が半兵衛の腕を振り解こうと力無く差し上げた手首を捕まえて自分の身体に引き付けながら、半兵衛は無造作にどさりと後ろに倒れた。

 その拍子に、絡めた舌の上から件のとんぼ玉が、ころりと口腔に転がり込んでくる。

「……………」

 ゆっくりと唇を離し、見上げた黒瞳に困惑の色を見て少し笑い、半兵衛は、慣れた飢餓を飲み下す。

 ない臓腑の空虚に落ち込む紅い銀河のとんぼ玉。

 瞼の奥で激光が煌めき、切り離されて落ち着かなかった煉獄の飢えと灼熱の渇きが、また、いつものように半兵衛を焦がそうと身体の中心で膨張して行く。

 膨れ上がって指先までを満たし、血の一滴、細胞の一欠片さえをもその呪詛の配下に収めてしまう。一瞬で。抵抗する間も、逡巡する間も与えずに。

  

 喉が乾く。ハラが減る。喰っても喰っても………お終いは来ない。

  

「……死ぬほど惚れてるかの、どっちかだろう?」

 呆れたように乾いた笑いを漏らしつつ、半兵衛がぶるっと身震いした。その全身を包むように覆い被さり畳に手を突っ張った散歩が、さも不気味そうに彼の顔を覗き込む。

「ハラ減ったなぁ」

 呟いて、落ちかかる髪に指を絡めて唇を寄せ、喉の奥ですりつぶした笑い。紅蓮を回す獣の瞳で面白そうに見上げられた散歩が、俄に不愉快そうな顔をした。

「残念ですが、そのどちらでもありません。…あなたのハラに、収まる気もありませんしね」

 突き放すように身を起こした散歩を追いかけて起き上がり、半兵衛がまたげたげた笑い出す。

「即答かよ。面白くねぇな」

 向けられた華奢な背に、困惑と怒り。

「どうせいらん強情張るなら、呑んじまえばよかったんだよ。ばーか」

 吐き付けられた毒のある言葉に、散歩が振り返る。と、そこには、疲れたように俯き、深紅の刺青の浮き上がった手でしきりに髪を掻きあげる半兵衛がいた。

 深紅の、刺青。見える部分と白いシャツの下、左の頬と耳朶の一部に螺旋の紋様を赤々とありありと皓々と包み隠さずさらけ出した獣が、ふと散歩を見つめる。

「…呑んで、喰われたいと泣いて頼んでくれりゃぁ、おれも苦労しないんだがな」

 静謐な黒い瞳が半兵衛を見つめ返す。

「それは一体、なんなんです? あなたは一体、我(わたし)と何を話したんですか?」

 闇の忍び寄る縁側で、散歩の崩した爪先と、咎めているのか望んでいるのか責めているのか求めているのか判らない面と、半兵衛の頬に触れた指先だけが…ひどく白い。

 戻った目眩を堪えるように瞼を閉じて、半兵衛が微かに口元を歪めた。

「…俺の胃だ」

 がつんっ!!

「ってーーーーーーーーーっ!!」

「胃…って! なんですか、胃っていうのは!! もう! そういう気味の悪い物平気でぽんぽん外さないでくださいっ! しかも他人に呑ませるだなんて、意地の悪いのにも程がありますっっ!」

「だからってお前、握り拳でいい大人の頭ぶっ飛ばすか?! フツー!」

 なんの前触れもなく側頭部に強打を喰らった半兵衛は、でも、咄嗟に出した手で踏ん張り辛うじて倒れるのだけは免れつつ、殴り飛ばされた頭をさすりさすり叫んだ。

「知ってます? 躾と体罰は別なんですって。…躾に大人も子供もないですから」

 腹が立つほどにこやかに微笑み、それから、ふん、と半兵衛から顔を背ける。

「…気味の悪いとはよく言ったな、散歩。外したのは俺じゃなく、お前だぞ! それに俺は、呑まなくてもいいっつったろうに!」

「忘れました。」

「お前相変わらず我儘だな! その都合のいい耳を先に躾ろ!」

「あなたに我儘を非難される謂われはありません!」

 畳に転がった徳利を拾い上げてちゃぶ台に戻し、散歩はさっさと立ち上がった。細い眉のお終いを微かに吊り上げて冷ややかに半兵衛を見下し、そこはかとなく乱れた着物の胸元を直してから、傲岸に腕を組む。

「あなたにこんな事を言うのも空しいですが、夜も更けましたので、お気をつけてお帰りください。それではごきげんよう! おやすみなさいませ!」

 相当機嫌を損ねているのだろう散歩は一気にそう吐き捨てて、半兵衛に背を向け室内に引き返してしまった。言い返す言葉が口を衝いて出る前にぴしゃりと眼前で襖が閉じられたのに、溜め息とばか笑い。半兵衛は「はいはい、帰りますよ」とふざけて言い置き、投げ出されてきたジャケットを羽織って縁側を降りた。

 垣根と縁側の間に敷かれた砂利を踏みつつ庵から遠ざかり、懐を探って取り出したキャメルを一服付けて、ゆっくり吸い込んだ紫煙を冷たい輝きの月に吹きかける。

 秋と冬の気配を同居させた一陣の風が、竹藪と半兵衛の髪をざわつかせた。

 一瞬留めた足を動かして物憂げに歩き出す。

「………………ごきげんよう、ね」

 その前と後ろを煙に混ぜて有耶無耶に、半兵衛は背中を丸め庵のくぐりを通り抜けた。

  

  

 始めからいい思いなどするつもりもなかった気はするが、あわよくば、なんて期待をしなかった訳でもない。まぁ、押し付けて逆に取って喰われるのも悪くはないだろうが、アレがそれを望んでいるとは到底考えられず、どうせなら…もっと別の言葉と体温で求められてみたいモンだと………………嘘を吐く間もなく、本気で、思った。

 黒いのになのか、それとも違うのか、その問題は先送りにして。

「まったくもって情けないなと、今日辺り、どうにも気分が重くはあるが」

  

20001022sampo

   
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