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    花柳の酒    
       
どうにもこうにも

  

 悪くない声を散々聞いて、それで気が済めばいいんだろうと思ったりする。ところがやっぱりおとこなんぞは出す生き物であるモンだから、どうにもこうにも、ここで引き下がる訳にも行かなくなってきた。まぁしかし、だからといって誰かの許可を取るなんて、なんてバカげた話だろうか、と笑いも出たが、結局ご機嫌を窺って、あわよくばいただけるならいただきたいとは、我ながら呆れた執着ぶりではないか。

  

  

 息を詰まらせ全身を強ばらせた散歩の丁度身体の真ん中、つい今しがたまで半兵衛が腕を突っ込んでいたあたり、から、急ににゅうっと黒い影が立ち上がる。それは、純白の瞳孔を持つ漆黒の瞳で面倒そうに半兵衛を見下ろし、しっかり掴まれた手首を乱暴に振り払って、ふん、と不愉快そうに彼から顔を背けた。

 纏った薄衣の黒い衣。長く腰まで伸びた黒い髪。散歩とうり二つの面差しは儚く、血のように紅い唇は冷酷で、黒炭のごとくテラついた……漆黒の肌は、恐ろしいほど美しかった。

「角はどうした? 慌てて出てきて忘れたか? 死にたがり」

 死にたがり、といわれて、黒い散歩が形の良い眉を吊り上げて身動ぐと、息を荒げてぐったりしていた表の散歩がまた悶え苦しむ。それに気付いて少しだけ困ったように目を眇めた黒いのが、長く醜い鈎爪を生やした指を伸ばして、とん、と軽く胡乱な瞳の眉間を叩いた。

 途端、散歩が意識を失って畳に落ちる。

「鬼に角がないなんて、笑い話にもならないぞ」

 落ちた散歩の傍らに座り込み、半兵衛がけたけたと笑った。最初から答えるつもりなどないのか、黒いのは、枯木のように寄り合わさった下半身をずるずると散歩から引き出して少し離れ、なんと、ちゃぶ台に置きっぱなしの杯を取り、勝手にあの徳利から酒を注いで飲み始めた。

 これには少々驚いたのか、半兵衛が目を見張り、すぐにハラを抱えてげたげた笑い出す。

  

  

 さて、妙な具合になったものだ。時々出てきてはすぐに引っ込む意地の悪いアレが、まさか酒好きだったとは思ってもみなかった。からかってやろうかとも考えたが、俯いて杯を傾けるその口元がひっそり微笑んだのに、さっさとそれを諦めた。相手が鬼でも、美人を眺めて酒を飲むのに悪い気はしない。といった心情だ。

  

  

 ややあって、不意に真白い瞳が半兵衛を見据える。

「我に何用か? 狗」

 声は同じだがぞんざいで高飛車な物言いの黒いのが、それでも幾分いつもより抑揚のある問いかけをしてきたのに、半兵衛はまた少し苦笑いした。

「大した用じゃない。ただちょっと、相談がある」 

 逆様に置いていた杯を取り上げて手酌で酒を呷っていた半兵衛が、深紅の光を回す獣の瞳で見つめ返すと、黒いのは、何が判っているのか、微かに、本当に微かに唇を吊り上げて笑った。

「喰うと喰われるが紙一重。死ぬるを望んでここに在る我に、仇成す貴様が何を?」

「そう、だからつまり、俺はハラが減ってる」

「難儀な事よの」

 皮肉にも、色の変わった散歩が同じに答える。

「左様(さい)で」

 余程それが面白くなかったのか、半兵衛は吐き捨てるように言って黒いのから顔を背けた。

 それに、笑い。黒いのが、笑う。

「呪詛が出て居る。……思う存分、喰うがよかろうに」

 ゆっくりと腕が伸ばされ、長い爪が半兵衛の頬に触れた。

 その下で、掌に出ていたのと同じような紅い刺青がうずいた。押し込んだ全身のそれを解放し、黒いのが求めるように伸ばした腕を取って接触すれば、喰うことは、容易い。

 しかし、半兵衛はその腕を振り払った。

「そう、喰ってやりたい。今すぐ、ここで。…お前のような死にたがりでなく、前後不覚で寝転んでる、あっちをな」

 言われて散歩を振り向き、黒いのがまた笑う。

「喰うとはさて、便利な言い回しであるなぁ」

 ひっそりとした笑みに不愉快そうな顔を一瞬だけ向けた半兵衛を見つめ返し、黒いのはそのほっそりとした手を伸ばして、畳に転がる散歩の頬に軽く触れる。

 奇妙な光景だった。

 藤色の着物を乱して倒れた散歩の身体を貫き生えた、醜い爪と唇と瞳孔以外を漆黒で固めた黒鬼が、宿主と言うべきか自身と言うべきか定かでない色の薄い、同じ顔をした男を好ましげに見下ろす。白と黒。裏と表。陰と陽。散歩をそっくり映した同じ姿で黒いのが、散歩とは正反対の言葉を紡ぐ。

「喰えばよかろう。我は望んで居る。その牙に引き裂かれ、血肉を残さず食らい尽くされ貴様の飢えと渇きを癒せるのならば、それで、輪廻の輪から我を弾き出した業の全てが消えるのならば、糧となりて終わるを………ただ望む」

「だからお前は死にたがりだってぇんだよ」

 普段より毒のある、少々軽薄な口調で吐き捨てて、半兵衛は懐から取り出したキャメルに火を点した。

「共有する散歩とお前。だが、その「我」はお前であってアレじゃぁねぇ。手前に都合の良い事ばっか抜かしやがって、お前は…少しも賢くなってねぇな」

 黒いのは、その辛辣な物言いに少しだけ俯いて笑った。

「あぁ? そうだろ? 今じゃすっかり廃れたってもな、お前はこの現界で一番恐ろしく神々しい種族だった筈だぜ。それがあっさり人間の外法師に封ぜられて、しかも、死にかけたアレの為に人間と存在そのものを共有して、なのに、なんで今更死にたがる? 自分で助けた…こいつを…また消すつもりなのか?」

 険悪な獣の瞳を見つめ返し、黒いのがげたげた笑い出した。滅多に見せない、心底可笑しいとでもいったふうの笑いに、半兵衛がまた不快そうな顔をする。

「…………バカ狗め。とうの昔に貴様の在るなど人間は忘れた。太古の昔から護られて居る事を、今では誰も気に留めもせぬ。それでも貴様はまだ現界の最もか弱き人間どもを護るを使命として、…これを…まだその人間であるとして、貴様をひとり残さぬと告げた戯れ言にしがみついて居るのか?」

 黒いのが、言葉を切る。

「ひときり」

 本性の名を呼ばれ、黒いのは滅多にそんな事をしないのだが、半兵衛は喉の奥で唸った。

  

 その在るを…ひとりきりなり。

  

「なんとでも言え。おれは…こいつ…が人間で在ることをやめない限り、どんなにお前が喰えとけしかけて来ても、お前を喰うつもりはない!」

「煉獄の飢餓、灼熱の渇き。喰うても喰うても満たされない底なしのハラを抱えて、いつまでそれに、耐えられる?」

 黒いのは目を細めてうっとりと呟き、黒炭の輝きを放つ両の掌で半兵衛の…ひときりの…頬を包み囁いた。

「我の望みを知って居ろうに。我は……喰われてしまいたいだけ……」

 鼻先が触れるほど顔を近づけ、黒いのはテラついた深紅の唇に宛然たる微笑みを浮かべた。

「便利な言い回しじゃ…ほんに」

 最後の呟きが引っかかる。

 しかし半兵衛はそれを気にする暇(いとま)なく、意識を離れて獰猛な唸りを発する自分を押さえつけようと躍起になっていた。後退って黒いのの手を引き剥がし、耳と、頬と、喉元と、全身に浮かび上がるべく胎動する深紅の刺青を無理矢理引っ込める。

  

 喉が乾く、ハラが減る。血の一滴、細胞の一片までもを焼き尽くす煉獄の飢餓、灼熱の渇き。それに全てを任せ眼前の黒いのをハラに収める甘美な誘惑と、畳に倒れた白いのが未来永劫失われる恐怖とを戦わせ、半兵衛…ひときり…は、広げた両手で顔を覆った。

  

 その様子を黙って見つめる黒いのが、一瞬だけ、哀しそうな顔をした。

  

  

 全く持って執念深いと自分で思う。ハラに収めてこの先ずっと飢えずに済むならいいじゃぁ無いか、と思えたのは、アレから生えた黒いのを最初に見たほんの一瞬だっただろうか。ややこしい今の自分におさらばして、また忘れ去られてひとりきりになるのが恐いとは、相当焼きが回ったもんだと本気で笑う。

  

  

 青白い月光の降り注ぐをただ眺めつつ、深緑の笹藪が立てる十重二十重の乾いた御詠歌に耳を傾け、微かに遠い近くで燻る飢えた獣の唸りを、長く濡れた艶の髪に絡ませた黒いのが、過ぎる刻を睫の先に纏う燐光程も気に留めず化性の酒を臓腑に収める。

 その、無いに等しい気配を全身で感じながら、半兵衛はそっと顔を覆う両手を引き剥がして、ぼんやりと、うっそりと、ただ呆然と、儚い影の黒いのから、儚い実体の白いのに視線を移す。

「それを…俺にくれ」

 フィルターまで火の移りそうになったキャメルをようやく揉み消して、半兵衛がぽそりと呟いた。

「ハラが減って、死にそうだ」

 開け放した鎧戸に寄りかかったままの半兵衛を振り向き、黒いのが少しだけ口元を歪めた。杯を離さない唇に浮いた笑いの意味を考えもせず、床に投げ出した指先で縁側の板をこつんと叩き、彼はもう一度言った。

「喉が乾いて、干からびそうだ」

 紅蓮の光を回す瞳を覗き込まれるのを忌み嫌うように、半兵衛が瞼を閉じる。

「…………どうしていいのか、判らねぇ」

「飢えて血を吐き、木乃伊のように朽ち果てれば良かろう。しかし貴様は…判って居るのだろうが」

 決して、そんな事は有り得ない。

「判らねぇよ。…減ってもいないハラと、乾いてもいない喉。なのにどうして、こんなに俺が飢えているのか、おれは…知らない」

 寄せた眉。

 黒いのが、げたげた狂ったように笑い出した。

「知らぬと? 面白い。知らぬとはとんだ戯れ言。知って居るから臆病になるのであろう?」

 うふふ、と含み笑いで杯を空にしてからちゃぶ台に逆さにして置き、黒いのが、すすす、と半兵衛ににじり寄る。

 その気配にまたまた不愉快そうな顔を背けた半兵衛の顎と首を紅い爪の手が捕らえ、強引に自分を向かせた。

 触れそうな唇が囁く。

「我を喰うてはくれぬと言う恨めしいヤツじゃ。なのに、我を欲しいと言う? ほんに、恨めしい…」

 は、ハッハッハッハッハ…。

 床に投げ出した手を拳に、それでも半兵衛は、黒いのに自ら触れようともしない。

 狗は、鬼を喰らう。呪詛の接触、詠唱のない法力で肉体と存在をハラに収める。

「そんな我儘な臓腑など、こうしてくれよう」

「がッ………!」

 いきなりだった。

 顎から外された手が間髪入れずに鳩尾を強打。腹腔の空気を全て吐き出して身体を二つに折った半兵衛が睨んでくるのを面白そうに見つめながら、黒いのは肘より上まで突き入れた腕で情け容赦なく内臓を掻き回し、ばか笑いしながら吐き捨てた。

「あぁ、何も儘ならぬ。呼ばれて出てみれば詰まらぬ臆病しか居らぬ。現界などあの時焼き払ってしまえばどんなに心安かったかと思うと、また、貴様が憎く思えて仕方がないわ」

 悶え苦しみつつも黒いのとの接触を拒否し続ける半兵衛が、やめろとくぐもった声で訴えた。

「おれじゃぁねぇ!」

「大差ない。貴様であろうが、貴様と存在を一にし悠久を生き残ったあの外法師であろうが、どちらも一緒じゃ。…憎い事に替わりは在るまい?」

 黒いのは言う。

 誰も彼も憎い。しかし我が憎まぬ者どもを、憎み続けるには行かない。

 結局、誰も憎くない。

 我(散歩)の在るに要る者は、結局我(黒いの)の在るに無くてはならない。…と。

「我を喰うが良い。勝手にしろ。ただし、それが叶うので在れば…だが」

 黒いのは意地の悪い笑みを最後に浮かべ、半兵衛から身体を引き剥がした。

 途端、引き抜かれた腕のその先には……。

「……………おいおい、勝手に内臓取り出すな…よ?」

 紅黒い刺青のびっしり染み込んだ、見覚えのある内臓器官が握られていた。

「?」

 ふっと息を吐いてそれから眉を寄せ、半兵衛がしきりに自分のハラをさする。

 その、三日月型の、ちょっとグロテクスクな臓腑がひくひくと痙攣しながら、にやつく黒いのの手でぎゅっと握られて…暴れた。

「――――――――――――胃?」

「減るハラも無ければ、我を喰わずに我を手に入れられるのだろう?」

 はっはっは、と乾いた笑いを漏らして、黒いのがついに半兵衛の「胃」を掌に握り込む。さすがにそれは断末魔の悲鳴を上げる事はしなかったが、悶えるようにだらりとぶら下がった管をうねらせて、すぐにぐったり、伸びてしまった。

「うわー、気分悪ぃ」

 別に気分など悪くは無かったが、半兵衛はとりあえずそう呟いて口元に手をあてがった。

「なれば、よしなに」

「…出来るか! あほう! それ、返せ!」 

 華やかな微笑みでその暴言を見事切り返し、黒いのは「死んだ?」臓腑を握っていた手を開いた。刹那弱々しい光がそれを包み、次の瞬間には、直径一.五センチほどのとんぼ玉に早変わり。

「遊ぶな、俺の胃で」

「引っ張り出された程度でイキが悪ぅなるとは、根性ない」

「………胃に根性あるのか?」

 知らぬ、と涼しい顔で言い捨てて、黒いのはその色鮮やかなとんぼ玉を、ぽとり、と…、あの徳利に放り込んだ。

「!」

「つまらんつまらん」

 肩を竦めて、やる気ない時の散歩とそっくりに呟いた黒いのが、出てきた時より唐突に散歩の丹田へと帰って行く。

 後には、青畳にぐったり横たわる散歩と、呆然自失で徳利を見つめる半兵衛だけが取り残された。

  

   
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