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    落花の壺    
       
其の一 憑き物有りて、其の者を乞う(1)

  

 皺だらけの満面に笑みを貼り付けて応えを待つ老人をげんなりと見つめていた、探偵、鷹司半兵衛は、無駄だと知りつつ深く嘆息した。

「ご老体、しつこいようだがなぁ」

「しつこいと思うなら、発言を差し控えた方が良くはないか?」

「それでも、是非、言い聞かせてやりたい心理状況なんだが」

「時間の無駄じゃな」

「俺のだろ?」

「わしのじゃ」

 くそ真面目に答えてきた老人をサングラスの中からじろりと睨み、半兵衛は震える拳をテーブルに叩きつけた。

「常世の国に送り出すぞ! じじい!」

 堪え切れずに怒声を張り上げた半兵衛から恐々と(もちろんわざとなのだが)身を引いた老人、五代武義は、上品な枯れ葉色のジャケットと同色のスラックス、少しだけ色の薄いベストに金鎖の懐中時計を忍ばせて煉瓦色の蝶ネクタイを結んだ、なんとも古風でありながらそれがまた似合い過ぎている、という普段のいでたちで、大仰に俯き嘆き始めた。

「老い先短いこのわしに、ひどい暴言を平然と言い捨てる鬼のような男じゃ。この取引が成功せねば明日の食事にも事欠くというのを知っておりながら、ちょっとも手を貸してくれようとせん。…いいんじゃ、どうせわしなど。孫にも見捨てられて、一人寂しくミイラのように朽ち果てて行くのみ…」

 よよと泣き崩れる武義に呆れた視線を向け、半兵衛はきっちり着込んだダークスーツの懐からキャメルを取り出し、不満そうに曲げた唇の上に一本乗せた。

「もうミイラだろ、じいさん」

「まだ、もう少し足りんな」

 身長百八十を少し超えた半兵衛の半分しかないような老人は、彼に顔を向ける事無くそう応えて、更によよとソファに突っ伏す。

「可憐! もうすぐわしもおまえの元に行くぞ!」

 うざってぇ、とソファの背もたれに身体を預けた半兵衛が、ふと足下に視線を落した。

 ここは、半兵衛の自室と事務所を兼ねた廃ビルの最上階。今時個人経営の怪しげな探偵事務所を訪れる一般市民はほとんどなく、いつも閑散とした部屋。本来の住人は一人と一匹。家主である半兵衛と、ペットのビーグル犬、ジョンローンだけなのだが…。

 半兵衛は、頭の上で繰り広げられる三文芝居になどまったく関心を示さず、床に寝そべってくかくかと寝息をたてているジョンローンをしばし見つめてから、ついに、じいさん、と沈んだ声を発した。

「なんじゃ、薄情者」

「……。窓から叩き落とすぞ」

 間髪入れないセリフに頬を引きつらせ、それからソファの中で身を乗り出した半兵衛が、夜でも滅多に外したことのないサングラスを指先で軽くずり下げて、その、深淵の黒瞳に真紅の光をぎらりと回した。

 さすがの老獪もこれには慣れていないらしく、思わず背筋を凍らせて、本気で身震いする。

「一応言っておくが、俺の本業は「探偵」。判るよな」

 武義は平静を装ってソファに座り直しながら、内心「そっちが副業じゃろ」と呟いていた。が、さすがにここで言い返す気にはならなかったらしい。

 指先で戻されたサングラスから目を逸らさず、武義は微かな溜め息を吐いた。眼前でだらしなくソファに身体を預けた優男の本性がなんなのか、老人は追求しない事にしている。探偵だというがまともに仕事をしている風でもなく、だからといって年中暇を持て余しているでもなく。

「ところが、だ。じいさんの持ってくる仕事を無碍に断りきれない事情があるもの確かなんだよ」

 古書や骨董品を専門に取扱う「満楽堂(まんがくどう)」を営む武義の元には、時折、「有り物」と呼ばれる曰く付きの品が持ち込まれる場合がある。例えば「呪いの掛け軸」だとか、「読むと寿命の縮む新聞」だとかがそれに当るのだが、知る人ぞ知る、武義にはお抱えの「憑き物落し」がいたりするのだ。

 独り言のように弱った呟きを漏らした半兵衛は、武義の視線の意味を知っていながら、それを無視した。

 噂が回りまわって、武義は現在、「有り物」取引の大御所と呼ばれている。それも偏に眼前の、少々渋っている「憑き物落し」のおかげである。

「頼むから、一日おきに仕事を持ち込まないでくれ。俺だって…それなりに忙しい」

「面白い事をほざくな。若い女性をバーで口説き落とすのも、有り物から因縁を叩き出すのも、同じに一分しか掛からんくせに」

 真紅の光を回す黒い……獣の瞳。その一睨みで、因縁どもは尻尾を巻いて逃げ出す。

 正体の知れない男。人間なのか、違うのか…。

「数年掛かって落せない強敵もいる訳よ。じいさんのおかげで、ここ一週間顔見に行く暇もなくてね」

 ははっ、と笑ってくゆる煙草を灰皿に押し付け、一瞬ちらりと壁の時計に視線を走らせてから、半兵衛は立ち上がった。

「ゴネても仕方ないからな。さっさと行って、さっさと片づけちまおう」

(最初からそうすればいいのに)と、片方の瞼を物憂げに上げたジョンローンが、面倒そうにしっぽをぱふんと振った。

「おまえ、留守番」

「わん」

(当たり前だ。雑魚を脅かしに行くのにまでいちいち付き合っていられるか)

 途端、げすっ! とジョンローンの脇腹に半兵衛の爪先がヒットした。

「ぎゃん!」

(死!)

「…なんとなく生意気」

 ふん、と鼻息荒い半兵衛を呆然と見上げていた武義が、溜め息混じりに言いつつ手にしていたパナマ帽を頭に載せる。

「今にペット虐待で訴えられるぞ、おまえ」

 立ち上がった武義に意味ありげな笑いを向けながら、半兵衛は新しい煙草を吸い付けた。

「いいんだよ。だって、こいつと俺は、他人じゃないんだからな」

 破顔した半兵衛を涙目で見上げつつ床に転がったジョンローンは、他人どころか切っても切れない彼との関係を、心底怨んでいた。

   

   

 少しして。

「ただいまー! って、アレ?」

 表から戻り、満面の笑みでドアを開け放った五代秀武は、いつもなら相当やる気なく迎えてくれるはずの半兵衛がいない事に気付いて、ぎゅっと眉を寄せた。

 五代秀武。現在、鷹司半兵衛探偵事務所に居候中の彼は、テレビに出てくるアイドルのように、どこか少女のようでいてどこか男臭い整った顔立ちに、すらりとした姿。肩よりも少し伸ばしたさらさらの髪は黄色い光を放つ、見事な金髪、に染められていた。

「はんべーさんたら、まぁた昼間っからどっかの女とシケ込んで…」

 苦々しい呟きに引き出されるように、ジョンローンがテーブルの下から這い出して来る。

「わんわん」

『違う、タケ』

 含み笑いの「声」に顔を向け、秀武が小首を傾げた。

「違うって? 誰か、お客さん?」

 ジョンローンがソファに飛び上がるのと同時に自分はソファに座り、秀武は、ごくごく自然に、ビーグル犬に話し掛けた。

「お茶も出さないような?」

『じーさんが訪ねて来て、さっき仕事に出掛けた』

 摩訶不思議。完全に会話の成立している一人と一匹である。

「……ふーん」

 妙な生返事とドアに据えられた視線を辿り、ジョンローンがそのビー玉の瞳をきょろつかせる。

「依頼の内容、どんなの?」

『さぁ』

 素っ気無く応えつつ秀武の膝に乗ったビーグル犬が、濡れた鼻先を彼の顎に擦り付けた。

『あんなヤツでも一応タケに気を遣っているらしいな。五分程前に、慌てて出て行った』

 言われて、秀武は困ったようにジョンローンから目を逸らす。

「…じいちゃんね。判ってるけど…さ」

 些細な喧嘩と意地の張り合いから抜けられなくなって、半兵衛の所に転がり込んでからもうふた月。それなりにここでの生活にも慣れ、おまけに楽しいものだから、時々、いつか帰らなければならないというのを忘れそうになる。

『まぁ、いい。ヤツ一人でも大丈夫だろう。…戻る前に、散歩先生の所へ寄って来るつもりらしいから、厄介払いが出来たと喜んでいるくらいじゃないのか?』

 ジョンローンは小さな手を秀武の肩に乗せ、かふ、と彼の頬に噛み付く真似をした。

『気にせずゆっくりしていけ。じいさん、殆ど毎日、元気に顔を出すんだ』

 そうだね、と力無く微笑む少年にビー玉の瞳で笑いかけ、ジョンローンは努めて明るく言った。

『さぁ、ハラ減らしがいないうちに、何か美味い昼食にでもありつこう』

  

   
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