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    落花の壺    
       
其の二 其の者有りて、何者を乞う(2)

  

 天井付近に空間の歪みが突如起こり、捩じれた虚空から着物に似た重ねの薄絹を纏う白い人影が吐き出されて来る。それ自体には驚きを見せなかった散歩でさえ、次にその人物の取った行動には、思わず目を剥き悲鳴を上げそうになった。

 裸足の真白い爪先が青畳を捕らえたと思う間もなく、その、薄墨色の光彩と血のように真っ赤な唇以外瞳孔さえも見事な純白で固めた妙齢の美女は、寝転ぶ半兵衛の背中を盛大に蹴っ飛ばし、二回転半して飛び起きた胸に足裏を叩き付けて壁に追いつめぎりぎりと体重を掛けた。

「久しいな、出来損ない」

 麗々とした笑みはこの世のものとは思えないほど美しく、乱暴な振る舞いさえも見とれてしまうほど優雅。

「おまえ、相変わらず限りなく失礼だな。白ぎつね!」

「貴様に尽くす礼など持ち合わせておらん」

 仏頂面で吐き付けられた苛烈な言葉に苦笑いと苦しげな吐息を漏らし、半兵衛は彼女の細い足首を鷲掴みにして振りほどいた。

「躾が悪いぞ、主人!」

 とばっちり、と肩をすくめた散歩が、申し分けなさそうに見つめてくる真白い美女に咎める視線を向ける。

「せめて挨拶が済んでからになさい、ここのつ」

 正座し直した散歩の膝元についと寄りそったここのつ、九の狐の長(ちょう)九尾(ここのお)の白は、打ちのめされたようにその睫を伏せ、小さく「はい」と応えた。

「……おまえも間違ってないか? 散歩」

 げんなりと呟いて頭の後ろに手を組んだ半兵衛が、壁にだらしなく寄りかかって足を投げ出す。

「違うんですか?」

「わざとなら笑って済ますが、本気ならおまえの方を先に躾る必要があるな」

 くすくす笑う散歩に剣呑な視線を投げつけ、半兵衛は、ふんだ、とそっぽを向いた。

「主(あるじ)殿になんたるを言うか。もしこれ以上無礼を働こうものなら、その首胴体から引き千切って踏み潰すぞ」

 散々踏んどいて何を今更、と思うが、もう疲れたので無視する。

 とにかく、諸般の難しい事情が絡み合った結果、この散歩に従属する白ぎつねは、死ぬほど半兵衛を毛嫌いしている。……正確に言うなら、その嫌悪は半兵衛だけに限定された事ではなく、つまり、「彼の存在」そのものなのだろうが。

「貴様いつまで主殿に付きまとっている気だ? 用がないなら帰れ」

「用があるからお前の失礼を我慢してやってるんだよ、俺は!」

 そのやり取りに、散歩がげんなりと肩を落とした。

「いちいち止めるのも面倒なので、出来れば仲良くしてください」

「面倒って……」

「これと仲良くするくらいなら、犬の方がマシだ!」

 あぁ、うるさい、と溜め息を吐きつつ、散歩は困って笑った。

「しかして主殿、わたくしに何か?」

 急に気分を変えて散歩に向き直ったここのつが、神妙な面持ちで問い掛けてきたのにようやく意識を本来の用件に引き戻され、彼は小さく頷いた。

「用があるのは半兵衛の……」

「急用を思い出しました。しばしのお暇を」

 長く伸ばした純白の髪を揺らして深々と頭を垂れ、ここのつはさっさと立ち上がり部屋から出て行こうとした。

 コント並のタイミングの良さに、思わず半兵衛が吹き出す。

「笑うな、半端もの。貴様がわたしを手足に使うなど、百年早い」

 白い瞳に睨まれた半兵衛が、ふと、眼の中で真紅の光を回す。

「じゃぁ、百年経てば手足に使ってもいいのか?」

 投げ出した足の間に力無く放置された指先が、微かに蠢く。

 丸めた背中、上目遣いの視線、うっすらと引き上げられた口元。

 瞬間、半兵衛の気配に暗い影が被り、ここのつが凍り付いた。

「ぐだぐだ抜かすなよ、腰巾着の分際でなぁ。こっちゃぁ予想外にしてやられて虫の居所悪いワケよ、判る? 俺が俺を押えてるウチに、さっさとお使いしてきなさいって。でないと、てめぇの大事なご主人様どうなっても知らねぇよ、俺はさ」

 俯いてけたけた笑い出した半兵衛が、首の後ろに手を当てて呟く。

「……ハラ減ったなぁ」

 普段の彼よりも軽薄で毒のある口調。

 よほど喰い損ねた自分に苛ついているのか、完全に「一部が被ったまま」になっている。

「ひときり」

 散歩は、不安げな表情でその名前をもう一度呼んだ。

「いんや、まだ半兵衛だ。ただ、少し混乱してるけどな。……時々表層が入れ替わって面倒臭ぇから、さっさと言う事言っちまいてぇんだが、いいか?」

 顔を上げた半兵衛は、睨むようにここのつに座れと促し、誰の応えも待たずに喋り出した。

「山手の…」

 でひと息吐き、差し上げた自分の掌でぴしゃんと頬を張る。

 その様子は、混乱している、というよりも、多重人格者がはっきりした意識のまま混濁している二人のうち一人を引っ込めようと躍起になっている、ように見えた。

「山手の屋敷に数日前、「落花の壷」という椿を入れた大花鉢が運び込まれた。「有り物」だという話だったが、満楽堂のじいさん、根拠のない口約束と高を括って、現物と接触せずに俺の所に払いを頼みに来たらしい。おかげで自慢の鼻も役に立たず、ジョンローンを部屋に置いて出たら……」

 目眩を堪えるように瞼を閉じ、にっと口元をまた歪める。

「抵抗されて、部屋ごと封鎖してくるしかなかったってぇ寸法だ。喰いではありそうだったんだが、何せこの身体じゃ、ろくに正体も見切れねぇ」

 部屋ごと封鎖、と聞いて、散歩が一人頷く。

 半兵衛自身に、憑き物を落す特別な能力があるわけではない。憑き物連中が勝手に恐れ戦いて逃げ出して行くのだが、それにしても「彼自身」に脅えているのではないのだが、本来ならワンクションあるプロセスを無視して、空間を閉鎖するために仕舞い込まれた「本質」を強引に呼び出したおかげで、どうやらスイッチの切り替えが上手くいかなくなってしまったらしい。

「ってコトでな、白ぎつね。さっさとその屋敷行って、壷調べてらっしゃい」

「……で、貴様はどうする」

 釈然としないまでもさすがに強くは言えないのか、ここのつが不満そうに問う。

「悪ぃ。無事部屋に戻れそうもねぇや、寝ていいか?」

 言いつつジャケットを脱ぎ捨ててネクタイを緩め、半兵衛はごろりと横たわった。

「頭ぁガンガンしやがって、目眩がひでぇ。しなくていい無茶するモンじゃぁねぇな」

 撫で付けてある前髪を掻き回し、ふっと溜め息。

「疲れた」

 戸惑うようなここのつに静かな微笑みで応え、散歩は無言で彼女を送り出した。

 それから暫く。

 規則正しい寝息を立てる半兵衛の背中を見つめていた散歩が、音も無く立ち上がり簾を上げる。とそこには、困ったように眉を寄せて手足を揃えたこたろが、何か言いたげに佇んでいた。

「おかえりなさい。怪我はありませんか?」

『ないよ。……はんべみたいに、辛くもない』

 新緑の獣の目。黄金を回す。

 とすとすと畳を踏み、こたろが半兵衛に歩み寄る。

 顔の前に投げ出された指先にざらついた舌を軽く擦り付け、猫が小さく鳴いた。

『おいらは辛くない。半分にされて、押し込められたりしないから』

 眠る半兵衛に寄り添ったこたろに、そうですね、と応えた散歩の視線の先には、血の滲んだハンカチをぎゅっと縛り付けた掌が、力無く天井に向けられていた。

     

      

 重い瞼を上げ、身体を丸めた猫を起こさないようそっと身動ぐ。

 斜陽の、風さえも息をひそめる逢魔が刻。

 迎える儚いその人に手を伸べて、頬に触れ、折に触れ、想う。

 此の刻(とき)を永劫と。

 空の薄紫を映し込んだ透明な瞳が揺れて、刹那、魔を脱いだ欠片の戸惑い。

 深淵の黒に宿る深紅と煉獄。

 射すくめる、絡んだ欠片の、口には出さないその想い。

      

 足りない我が身を、呪うように。

       

 ほんの束の間、二つは触れ合い、すぐまた離れた。

  

   
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