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    落花の壺    
       
其の二 其の者有りて、何者を乞う(3)

  

 それは災難だったな。と他人事のように欠伸混じりで言ったジョンローンにタックルを食らわせ、こたろは後ろ足でぴょこんと立ち上がった。

『おまえキライ! 少しは責任感じろよ!』

 仁王立ちで腰(?)に手をあてがった猫が、にゃぁー! と奇怪な声で鳴いたのにこめかみを押さえ、半兵衛はしょうがなく苦笑いした。

「散歩、この夜行性動物をなんとかしろ」

 こたろご立腹の原因が自分にあるのでさすがに張り飛ばす訳にもいかず、涼しい顔でコーヒーを啜る散歩に助けを求めてみるが、そこはそれ、そこはかとなくピントのずれた彼はにこにこするばかり。

『わたしに半兵衛の管理責任はないっ!』

 ぶっ飛ばされて床を三回転したジョンローンが、へたんと潰れたままで怒声を張り上げる。とはいえ、散歩や秀武のように「耳」のよろしくない半兵衛には、猫と犬が交互にぎゃんぎゃん鳴き喚いているようにしか聞こえないのだが。

「…ウチの夜行性動物も静かにしろ」

 既に夜半近く。ここは、昼間いた散歩の庵ではなく、半兵衛の事務所。ここのつの報告を待たずに戻ると言い出した彼に付いて、こたろを連れた散歩の方ががやって来ているのだが。

「それじゃぁ、ぼく明日学校があるんで」

 と、濡れた髪を乾かしながらジョンローンとこたろの面倒を見ていた秀武が、ちらりと時計に視線を投げ、誰ともなしに告げる。

 応接室の中央に据えられたソファに座る散歩がその声に微笑みつつ顔を向け、相変わらずの半兵衛は素っ気無くひらひらと手を振った。

「じゃ、きみたちも喧嘩しちゃだめだよ」

 無邪気な秀武の笑顔に、「違うよ、違うよ。喧嘩じゃないもん」と尻尾を振りながら抗議するこたろと、「喧嘩じゃない」とくそ真面目に相づちを打つジョンローン。それがどうにも可笑しくて、散歩が思わず小さく吹き出した。

「なに笑ってるんだ?」

 散歩の正面でやる気無くキャメルをふかしていた半兵衛が、夜だというのに外さないサングラスの奥から彼を見つめる。

「いえね、こたろとジョンローンは、本当にタケ君がスキだなぁと思いまして」

『おやすみー、タケぇ。また明日ねぇ』

『遅刻するなよ』

 最後まで秀武の足に絡み付いていたこたろが耳をぴこんと立てて笑う彼を見あげ、手足を揃えて床に鎮座したジョンローンが妙に生意気な事を言う。その二匹に見送られた秀武が、ドアノブに手を掛けて自室に引きあげる間際、思い出したように、散歩の言葉に応えた。

「ぼくもみんなスキですよ」

 振り返り、おやすみなさいと呟いて笑顔。

 取り残されて、溜め息が四つ。

 この部屋に二人と二匹、しかし、犬も、猫も、まともな人間もいない。

『おいらだって、みんなスキだよ』

 少し寂しげに目を伏せ、こたろは見知った散歩の面差しの中、遥か昔に自分を残し逝ってしまった「ひと」の影を探した。それだけに引き寄せられて、棄てた人の世に舞い戻った奥羽の怪猫は、らしくない、人間臭い表情で主人の手に額を擦り付けた。

 尾が又に。すなわち猫又である。

 感傷に浸る化け猫を目端に捕らえたまま、ジョンローンはさして普段と変りなくかしかしと小さな爪音を立てて半兵衛の足下に移動すると、冷えた床の上に寝そべって耳を揺らした。

『長生きも楽じゃない』

 つい漏れた呟き。そのお終いが耳に痛いと感じる間さえなく、室内の気配が揺らいだ。

「あ」

 二匹二人が顔を見合わせ間の抜けた声を発するより早く、陽炎のように滲んだ虚空からほっそりした流麗な一対の腕が伸ばされ、ソファの背もたれに片腕を載せて振り返ろうとした半兵衛の首に絡み付く。

「ぐぇ!」

 その美しい腕を追いかけるようにずるりと出現したのは、当然、ここのつである。彼女は前回より更に凶悪に、後ろから回した腕で半兵衛の首をぎりぎりと絞め上げた。

 薄絹の上からでも十分な感触の伝わるふくよかな胸に抱きかかえられ、なのに、なまじな男よりも数倍は強い腕力で頚部をぎりぎりと締め上げられて、半兵衛は唸りながら足をばたつかせた。

「主殿には御機嫌麗しく何より」

 にっこり微笑んだここのつは息も乱さずそう言い放つと、新緑の瞳で呆然と見上げてくるこたろに視線を移し、おや、と柳眉を寄せる。

「浮かない顔をしておるな、化け猫。久方ぶりに会うたのだから、いま少し嬉しそうにせんか」

『……白ぎつね、おまえ、出てくるたびに、だんだん性格歪んでこない?』

 苦笑いさえ浮べるのも忘れたこたろが呟く。

「軽いスキンシップであろう、これは。仲良く、の範囲じゃ」

 窒息寸前で言い返すことも出来ない半兵衛の足下から、ジョンローンがそーっと音も無くテーブルの下に避難する。とばっちりを食らったりしたら確実に落されてしまいそうな恐怖を感じて…。

『死ぬぎりぎりでやめろよ』

「そのあたりは心得ておる」

 そろそろ息絶えつつあるらしい半兵衛がぐったりすると、ここのつは仕方無さそうに腕を解き、それでも気が済まなかったのか、最後に一発、強烈な肘打ちを彼の頭頂部に叩き下した。

 がすっ! と炸裂音。

 それでも意識を失わなかった半兵衛に対して、こたろが思わず賞賛の拍手を贈る。

 猫手をぴたぴたとやる気無く打ち合わせるこたろに複雑そうな顔を向け、散歩が嘆息した。

「どうしてこう仲が悪いんでしょう」

 何がどう気に入らないのか、という愚問は口にせず、散歩は頭を抱えて唸る半兵衛に「大丈夫ですか?」と声を掛けた。

 目に見えている報復。それでも必ず手を出さないと気が済まないここのつの気持ちも、判らないとは言い難い。

 なにせ、半兵衛はもっと凶悪な事を平気でやって退ける……。本当にそれが半兵衛なのか、本当は別なのかを追求しなければ。

「覚えてろよ! 暴力ぎつね!」

「貴様に暴力を咎められる言われなど無い!」

 ついに獣の瞳孔を曝け犬歯を剥き出して叫び返したここのつは、不愉快そうにどかどかと散歩の側まで移動して、ついとその傍らに膝を付いた。

 途端、周囲に放っていた高ぶる気配を霧散させ、その表情さえも変える。

「ときに主殿」

 柔らかさの戻った美しい声音で微笑むここのつをげんなりと見つめ、半兵衛はソファの背もたれに背中を叩きつけた。口調までもが別人のようになった白ぎつねは本当に慈しみ深く感じられて、変わり身の速さに脱帽しそうになる。

「落花の壷についてのご報告を」

 軽いスキンシップに対する注意などさっさと頭から追い出した散歩がうなずく。キリがないので放っておこうと思うあたり、半兵衛の味方は極めて少ないのか?

「江戸後期、旗本の屋敷を飾る花鉢として、無名の焼き物師が作り上げたものと」

「貧乏旗本か? そいつは。無名の焼き物師に仕事を頼むなんて」

 キャメルを吸い付け、避難していたジョンローンを無理矢理テーブルの下から引きずり出した半兵衛がちょっと皮肉な物言いをすると、ここのつが首を横に振った。

「好みの問題であろう。その旗本、まだ歳若い焼き物師に屋敷の一角を貸し与え、一輪挿しから不浄の手洗いにいたるまで、細々と作らせておったらしい」

「今風に言うなら、パトロンってとこか」

「まぁ、そのあたりは今の人間とあまり変わらない心情だったのかもしれませんね。趣味の良い器だと言われたら、わたしが作らせてやっている、なんて言うんじゃないんですか」

 淡々と言い放つ散歩に苦笑いを向けてから半兵衛は、話の続きをここのつに促した。

「細かい事情は当時の「記憶」をもつものが居らぬ故知る由もないが、あの壷……因縁と言うよりも、怨念まみれと言うた方がよかろうな。…貴様、側まで行って気付かんかったか?」

 侮蔑混じりの問い掛けに「悪かったな」とだけ応えた半兵衛の膝で、ジョンローンが鼻を鳴らしてここのつを睨み付ける。

 黒いビー玉の瞳の中で、あの真紅が回った。

『タケのじいさんが接触前に仕事を持ち込んだ。それに気付かず一人で行った半兵衛に、何が見えると思う? わたしとしては、壷の因縁を逃がさない為に少々無理までした半兵衛を、褒めても良いくらいだと思うが』

 いつもと変わって厳しいくらいの口調でここのつを責めるジョンローンの気配は、ひどく落着いていた。

 彼もまた、犬の姿を取ってはいるが「犬」ではない。

 不満そうにぎゅっと眉を寄せたここのつの白髪に手を置き、散歩が黙って微笑む。叱り付けられるよりその方が利いたのか、彼女は肩を寄せてしゅんと俯いた。

「確かに、相当な強さの憑き物が居るらしいことだけはわたしにも判りはした。ただ……その…」

 彼女にしては珍しく口篭もったのに、こたろが盛大な笑いで応える。

『わぁかったぁ。けけけ。おまえアレだろ。壷の正体、半兵衛のせいで見極められなかっただろ。だから、わざと突っかかってみたりしてんだろ』

 突っかかってくるのはいつものことでしょう、と思いつつも、散歩が問う視線をここのつに向ける。と彼女は、忌々しげに半兵衛を睨み、ついに、ふーっと溜め息を吐いた。

「ヤツの残した血痕のせいで周囲の気配がみな混ざり、ざわついて、遠巻きに屋敷を窺っておりました故、わたしさえも、その中心に何がどれだけ潜んでおるのか計り兼ねました」

 触れればたちまち痩せ衰えて、血肉の欠片も残さず蒸発してしまう、強い毒より恐ろしい……あの、半兵衛の……血痕。

「……江戸後期か」

 打ちのめされたここのつなど意にも介さず、背もたれに後頭部を載せそっぽを向いていた半兵衛が、ぽそりと呟く。

「俺は壷の出自を知りたいと言ったはずだぞ、白ぎつね。それに憑いてる奴のことなんかどうでもいい」

 それがここのつに対する手厳しい慰めなのか、余計な事を気に病む戒めなのか、素っ気無くあらぬ方向に吐きつけられた言葉からは判らなかった。

「相手が何でもどのくらいいても、喰うときは喰う。威嚇しても怯む様子のなかったあの「壷」が、俺より強いとくだらない傲慢を見せたのか、最初(はな)から俺を知らなかったのか、それだけ判ればいいんだよ」

 ふと、黒瞳に煉獄の紅蓮。口元に凶悪で容赦ない蔑んだ笑み。

 凍てつく空気が首筋を撫で、こたろがぶるっと身震いした。

『……ハラ減らしは相当頭に来てるらしいな。おいらも気を付けよう』

 にゃ、と暢気に言いつつも、こたろは肩をすくめて半兵衛から目を逸らした。

    

 在りてそれ、「ひとりきり」なり。

   

   

 疲れたから寝る。と客を放り出して寝室に戻る。

 後ろ手にドアを閉じ、そのまま座り込んで俯き、がりがりと首の後ろを掻く。

「なんだな、俺も大概我慢強くなったモンだ」

 溜め息混じりの失笑に、傍らに寝転がったジョンローンが、応えた。

『本当。わたしは、いつおまえが暴れ出すか気が気じゃなかったがね』

 ジョンローンの言葉を理解できないはずの半兵衛が、妙な表情でふんと鼻を鳴らす。

「信用ないね、俺ぁ。ま、当たり前か」

 外したサングラス。

 立ち上がり、あぁあ、と盛大に欠伸しながらベッドに向かう背中を追いかけてのそりと起き上がったジョンローンが、拗ねた子供のような半兵衛を笑った。

『そうでもない。本当に信用がないのなら、こんな無茶な状態でおまえを野放しにはしないさ』

「犬に放し飼いかね、俺ぁ」

 ジャケットを床に落し、ネクタイを緩める半兵衛を追い越してベッドに潜り込んだジョンローンは、少し不安げに彼を見上げた。

 黒いビー玉の瞳の中で、獣の真紅が、回る。

『いつまで散歩先生を騙しておくつもりだ? 半兵衛』

 問い掛けに、半兵衛は苦笑いで小首を傾げた。

「気付くまでだろ?」

 違うな、と思ってみて、もう一度溜め息。

 聞き分けがよくなったのと一緒に、臆病にもなった。散歩が気付くまで、という建前に一瞬だけ本心を被せ、すぐに忘れる。

―――判るまでだ。俺が。

 おまえ邪魔、と真ん中に陣取ったジョンローンを少し押しのけ、半兵衛はベッドに身体を預けた。

「…ところで、おまえはどうなんだ?」

『ん? あぁ。随分慣れたよ、犬のままというのにも。おしむらくは、呪符が書けないことくらいかな』

「元々は俺だぞ。根性で人形(ひとがた)取る修業でもしろよ」

『無茶言うな。元を正せばわたしは「ただの」人間で、おまえは…狗(いぬ)だろう? この姿ではまともに呪符を使うのもやっとだ』

「……ただの人間が聞いて呆れる。どこの世に、八百年も「在る」人間がいるんだよ、まったく」

 ベッドサイドのスタンドを消し、半兵衛はついでにジョンローンの眉間をごつんと叩いた。

 暗闇に、ぐえ、と小さな呻きだけが上がった。

  

   
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