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    落花の壺    
       
其の四 しかして事もなし、獣の日々

  

 掘り返されて荒れ果てた広い庭と放置されたままの巨大な花鉢を目にした主人が、恐怖と裏腹の怒声を張り上げたのに、古物商の老人がゆったりと微笑んだ、明るい陽射しの昼下がり。

 美しく刈り込まれていた芝生は所々土ごと腐り果て、中央辺りには奇麗なドーナツ型の跡が残り、適当に埋め戻されている。

「ご主人。本当に、あの有り物に起こった因縁の終焉をお聞きになりたいのですかな?」

 風だけがいやに冷たい、秋の午後。

 一昨日と変わって古物商らしい鼠色の羽織り袴姿にパナマ帽、カモの頭のステッキを突いた五代武義は、あくまでもにこやかに主人に向かって言い放った。

「有り物の、落花の壷。首切りの壷と噂され、幾度となく引き千切られた所有者の首をその内に納めて生き血を啜ったと言われる、怨念の壷。それと憑き物落しがここで何をし、どうなり、……赤い椿の花模様が白く変わってしまったのか…」

 目を細めた武義の視線を追いかけて放り出された落花の壷に恐々顔を向けた主人は、庭の変貌に気を取られて今の今迄気付かなかった有り物の表面に描かれた椿の変貌ぶりに、ぞくぅっ、と全身を震わせた。

 柔らかな膨らみの、美しい椿の花。壷の甕に似た湾曲と金魚鉢に似た縁の波型も上品で変わりなく、しかし、赤く血のように輝いていた椿が、余す所なく純白に変わっている。

「ひぃっ!」

 顔を引き攣らせて後退さった主人の脳裏に、一昨日壷を置いた小部屋で見た憑き物落しだという怪しげな男が付けた血の手形が閃き、誰もいない室内から上がった猛り狂う物音が聞こえた。

「よろしゅうございましたなぁ。きっちりと憑き物を払った証拠も残り、これでこの壷も、晴れてご主人の物になりまして」

 あうあうと言葉もなく冷や汗をかいた主人にずいっと歩み寄り、武義は暗く、にーっと笑った。

「お庭が少々荒れてしまいましたが、なに、その程度で有り物がお手に渡ったのですから、よしといたしましょう」

 其の程度、という言葉と、顔面に貼り付けた作り笑いと、全く笑っていない細い目の奥の光に、主人が情けない悲鳴を上げてその場に尻餅を付き、かたかた震え出す。

「憑き物落しは現金決済となっておりますので、ご主人、どうぞお忘れないように」

 かくかく頷く主人から白椿の壷に視線を戻し、武義はくるりと一回ステッキを回した。

「有り物は、在る物とも呼ばれております。得体の知れぬ名でございますなぁ」

 払われてそれ、最早「在る」を無し。いつか朽ち果てて行く空の壷に「在った」もの、いづこに。

 武義は踵を返して壷に背を向け、好々爺たる笑みで主人を見下ろした。

「今後とも、萬楽堂を……ご贔屓に」

   

   

 薄汚れたビルの四階。普段は夕暮れ近くまで開けられないいっとう奥の部屋のカーテンが勢いよく開け放たれ、爽やかな秋の風と眩しい光が室内に飛び込んでくる。

「いつまで寝てるつもりなんですか、半兵衛さん。せっかくお天気いいんですから、さっさと起きて仕事でもしてくださいっ」

 ばっさぁっ! と翻った布団の中には、上半身裸のままうつ伏せになった半兵衛と、その半兵衛に寄り添って身体を伸ばし自分の腕に頭を預けたジョンローンが、限りなく眠りに近い表情で、うっそりと秀武を見上げていた。

「タケさん…。俺とジョンローンは今朝方ようやく仕事を終えてだね」

「はいはい、判ってますよ。ですから、お昼過ぎまで寝かせてあげたんじゃないですか」

「……わん…わんわんわん…」

 もそ、と身じろいで半兵衛の身体の下に顔を突っ込み眩しい陽射しから逃れたジョンローンが、ぼそぼそ呟く。

『あぁ、やっぱりわたしだけ散歩先生の庵にお邪魔すればよかった…』

 ねむねむ、と欠伸を噛み殺すジョンローンを肘で押し遣りベッドから落して、半兵衛は枕元のサングラスを手探りで探し、見つけて手を掛け、そのまま、ぐーっ、と…。

「あぁもうなんだかなぁ、いっつもふたりしてこうなんだから。ほら、ほらほらほら! シャキっと起きて食事して下さいっ!」

 抱き上げられて揺さぶられ、ジョンローンが仕方無さそうに瞼をあげる。はぁあ、かふ。と、歯を打ち合わせた間抜けな大欠伸の後、わざとのように半兵衛の背中にどさりと飛びついた。

「ぐえ」

「ちゃんと起きて着替えてくださいよ、半兵衛さん」

 ははは、と笑いながら、秀武がキッチンに向かって行く。その足音を聞きながら、背中でじゃれていたジョンローンの首根っこを掴んで引きずり下した半兵衛が、疲れた溜め息を吐いた。

「居候のくせに生意気だね、あいつは」

 掴んでいたサングラスを面倒そうに掛ける。その下で瞬きした黒い瞳の中で、またあの真紅の光が一瞬だけ回った。

「有り物ごときに取り憑いた混じりけの多い「鬼」なんぞ、一時の足しにもなりゃぁしない…か」

『?』

 ベッドに転がされたジョンローンが、俯いて首の後ろに手を当てた半兵衛をきょとんと見上げると、見上げられた半兵衛が、口元に苦笑いを浮べて呟いた。

「…ハラ減ったな」

  

  

 夜の繁華街からほんの少しだけ外れた、昼には買い物客でにぎわうアーケード街。今はしっかりとシャッターを下した商店の立ち並ぶ、整然とした寂しい通りの一角に、別の次元がすっぽりとはめ込まれた印象の場所がある。

 犇めくように軒を連ねた商店の狭間に佇む真っ赤な大鳥居の、すぐ目の前。一抱え以上は優にある支柱を背にして開かれた、粗末な「店」。

 そこを「店」と呼ぶのは、相応しくないのかもしれない。

 小さな丸テーブルが一つ、低い丸椅子が一つ、それから、性別も正体も分らない店主が、ぽつりと一人。それだけ。

 店主の名を、蜥蜴野散歩道。職業…、辻占売り。

 小さな丸テーブルの上で組んだ両手の白くほっそりとした、浅黄色の着物に長合羽、同じ素材の円筒形の帽子を頭に載せた、男とも女ともつかない優しげな面。色素の薄い柔らかな髪は長く首の後ろ当たりでゆったりと結わえられており、やや広い額に幾筋かがはらりと落ちかかっているのは気にも留めない。

 それが「彼」と呼ばれるべきだろうと思えるのは、せいぜい後ろ姿くらいだろうか。どこか中性的でキレイな面差しは弥勒か観音のようであり、やや伏せがちの瞼、それを縁取る長い睫、形のいい眉と細い鼻梁、淡く桜色の唇だけを見たならば、すぐに彼を彼と呼ぶのは難しい。

 男というには線が細く、女というには少々大柄。実際、その姿の儚さに似合わず、散歩は一八〇センチを越えた長身である。

 白い面に華奢なフレームの丸眼鏡。それのせいなのか、はたまた元からそうなのか、散歩の瞳は、透明で深い漆黒。

 心の裡の、暗く遠い闇のいろ。

 その散歩の膝でまどろんでいた少々大きめの猫が、不意に顔を上げぴくりと髭を揺らした。

 黄金と新緑を回す大きな目が、じっと遙か向こうの暗がりを見つめている。

「にゃぁおん」

 甘えた声に含まれる何を耳にしたのか、散歩がそっと小首を傾げて微笑んだ。

「そのようですね。幸先よく『お客』さまがいらっしゃいますよ、今日は」

 アーケードを駆け抜ける冷えた一陣の風。

 色の薄い髪をゆったりとなびかせた散歩がついと俯き、口元を引き上げる。

 凍えた微笑み。その優しげな顔の奥に隠れた「鬼」が、一瞬垣間見えた。

 白と黒。裏と表。陰と陽。

 程なく一人の青年が、おどおどと散歩の正面に立った。どうすればいいのか、何を話せばいいのか、立ち去りたいのかどうなのか、青年自身が戸惑っている表情で。

「いかがなされました?」

 膝のこたろを放して顔を上げ、散歩は柔らかな声で青年に問うた。

「…………何に怯えておいででしょうか、とお訊きした方がよろしいですか?」

 青年が、全身を硬直させて散歩を見つめる。その青白い顔に浮かんだ、恐怖と安堵。彼の目に、うっすらと微笑んで次の言葉を待つ辻占売りはどう写ったのか。

「夢を、見るんだ。恐ろしい夢を。おれがおれで無くなって、逃げまどう知らない誰かを……」

 震える声と揺らめく瞳。それを覗き込んでいた散歩は、不意に喉の奥で笑った。

「喰う夢を?」

 青年が応える間もなく、占い師は一枚の名刺を懐から取り出して彼の眼前に翳した。それには、「探偵 鷹司半兵衛」と書かれている。

「信じるも疑うも、あなたの心づもりひとつでございます。もし、その夢から逃れたいのならば、あなたは真実を、この男に求めなさい」

 深い夜。ハラを減らした獣が吠える、人外の刻がまた訪れた。

「喰う夢を喰らう。この男には、それが出来ましょう」

 青年が、かくかく震える指を伸ばして名刺を受け取る。それを足下から見つめていたこたろの目に黄金が回り、猫も、笑った。

「目に見えて、しかしそれ、人の世の全てでは無し」

 散歩は小さく囁いて、ほっそりした手をテーブルの上で組み合わせた。

「信じるも疑うも、あなたの心づもりひとつではございますが」

   

20001003(2002/08/27) sampo

    

   
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