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    落花の壺    
       
其の三 喰らう(6)

  

 牙を剥く口元からほとばしる、狂った哄笑。

「あぁ、つまんねぇつまんねぇ! 人の子と交わって入れ替わった怨念のてめぇなんぞ喰っても、地獄より空っぽなおれのハラぁ埋まりゃぁしねぇっ!」

 哄笑を怒声に様変わりさせたひときりの頬と耳に描かれた深紅の刺青が カッ! と煌めくと、血塗れの腕に爪を立ててもがき暴れる透明な何かの表面で光が歪み、蔦か蛇のようにうねる細長い姿を一瞬だけ夜陰に霞み立たせた。

 それも、また腕。落花の壺から長く伸び、ひときりに絡みつく、枯れ枝のような腕…。

 長い鈎爪、鬼の、腕。

「うるせぇぇぇぇっ! てめぇなんぞ、壺ごとおれが喰っ……!」

 ひときりの怒号と、壺の上げた耳では捉えきれない悲鳴が、その場にいた全てのものの鼓膜を揺さぶった。

 ……否。

「喰うか、狗」

 黒鬼はひときりを見もせずに問うた。

「あぁ、喰う」

 ひときりは黒鬼を見もせずぞんざいに応えた。

 それを耳に、意識があるのかないのか定かでない散歩が、形のいい眉をゆっくり寄せて小さく首を横に振る。

「喰うて、その腹が満たされようか」

 キッ、と睨み付けて来るだけで応えないひときりに顔を向け、黒鬼は瞼を閉じた。

「一時満ちてその後に何が来るのか、判っておろうに」

「それでもおれは喰う! 人の奥にこそこそ隠れてやがる卑怯なてめぇの説教なんぞ聞きたかねぇっ! うだうだ抜かすと、てめぇも一緒に喰っちまうぞ! 鬼っ!」

 苛々と叫んだひときりの腕を突き抜ける緑の爪。そこから流れ出た鮮血が、踏み荒らされた下草にぽとりぽとりと落ちると、それまで青々としていたそれらが一瞬で色を失い、枯れ果てて、茶褐色の地肌をさらけ出した。

 血の一滴までも、細胞の一欠片までもが抱えた身を焼き尽くすほどの飢えに、ひときりは耐えている。

 轟々とした紅蓮の瞳が睨む、漆黒の鬼。それだけがこの飢餓を埋める唯一の「糧」であることを、ひときりは知っていた。

 そして黒鬼も、人に害なす全ての化性を食らいつくす「現界」の狗が、自らと、自らを蓄えたその人を求めていることを知っている。

 その黒鬼も、その人も、儚くて美しい。

 全身に歯を立て噛み砕き、血を啜って腹に収められればどんなにいいか。しかし、ひときりは迷う。

 喰い血肉となりて一つになったら、何が残る。飢餓を忘れ心安らかになって、でも、ひとりきりになるだけ。

 その名の通り、また、ひとりきり。

「なれば喰うがいい。赤い花、椿の一輪までもを呑み込んで……また、飢えと渇きに苦しむが良い…」

 静かで残酷に言い放ち、黒鬼は身を捻った。

 自らの裡に沈もうとする黒鬼を引き留めるように力無く腕を上げ、散歩は乾いた唇で自分に懇願する。

「だめ……そ…………ては…だ……め」

「我よ、恐れてはならぬ。全て、我らが罪である」

 鳩尾を抜けて足下の影に消える瞬間黒鬼は、ひどく哀しそうな顔をした。

 どん! と身体を突き抜けた衝撃に息を詰まらせた散歩が、地面に倒れる。慌ててそれに駆け寄ろうと外法師の腕を払ったこたろを、突如出現した熱気の塊が遙か後方まで吹き飛ばした。

「こっち来んな、バカ猫! それでも来るってんなら、囓られても文句…言うなよ!」

 背骨がへし折れるのではないかと思われるほどに赤い鬼の身体を押さえつけたひときりが、牙を剥いて叫んだ。

「キレーさっぱり後腐れなく、このおれさまが喰ってやるっ!」

 ごぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!

 見えない何か、見えている首無し、首だけ、赤い鬼。跳ね飛ばされたこたろも倒れた散歩も、その散歩を抱き起こそうとした外法師も、更には結界の端を作る四匹の狐にも、その感覚は襲いかかった。

 頭上から真下に向かって押さえつけてくる強烈な力に、今度こそ完全に身動きが取れない。地面にめり込む幻想に食いしばる歯のある者は歯を食いしばって耐え、そうでない者は、柔らかい下草に爪を突き立てもがき苦しんだ。

「貴様何奴! なぜ、彼の黒鬼が現界に居る! なぜに人の姿を取って居るっ! 何故我の」

『俺の』

「邪魔をするかぁっ!」

「うるせぇっ!!!!!!!」

 赤い鬼の額から吹き出る赤い血と脳漿。それが目に溜まり、涙のように頬を伝い落ちるのを獣の瞳で見下ろしたひときりが叫んだ。

「食われて消えるてめぇが知っていいコトじゃぁねぇってんだよ!」

 ざんばらの黒髪を鬣のように逆立たせた狗が凍り付いてしまった結界の中を揺るがす咆哮を放つなり、鳩尾に描かれた入り組む刺青が一際激しく明滅しだした。その明滅は跳ね上がったひときりの心音と同じに伸縮し、鋼のように筋肉の盛り上がった全身からは汗が噴き出し、腕に食い込んだ赤い鬼の緑の爪が、その筋肉に押し潰されて縦にひび割れた。

         

 ガアアアアアアアアアアアアアオウゥゥゥッゥゥゥゥッ!

       

 ひときりが、天空を突き吠える。

 黒鬼に押し付けられた姿の見えない何者かが、悪あがきするようにひときりを締め上げるが、それさえ狗は小さな羽根虫に刺された程にしか感じていなかった。

 そしてついに、咀嚼の刻。

 実体を持ち身動き出来ない数多の掴んだ地面が、徐々に、ずるり、ずるりと渦を巻いてひときりに引き寄せられていく。その中心で爛々と瞳を輝かせ悶え苦しむひときり。その喉から発するのは、すりつぶした呻きと脳髄に突き刺さる咆哮。指先に込められた力に耐えきれず、頭蓋を軋ませた赤い鬼が恐怖の悲鳴を上げた途端、引力に逆らう術を持たない首たちが一斉に地面から弾かれて宙に飛び、引き裂かれ血風となり果て渦を巻いた。

 その深紅の筋がひときりの全身に吸収されていく。勢いの付いた気流は這うようにもがく首なしを螺旋軌道に載せると、次々光を放つ刺青の呪詛で内側から粉々に砕いて肉塊に換え、また中心に集めた。

 反時計回りの強烈な気流に巻き込まれていない散歩と外法師の全身に、化性の肉片が激しく叩きつける。二人はひときりから目を離さず、しかし腕を翳してそれに耐えた。

 見開いた散歩の視界を埋める深紅の風。その中心で吠え、苦しんでいるひときりはそれでも喰らう事をやめなかった。

 ありったけの首を、ありったけの首なしを、そして、その変化すら見えない何者かを叩き合わせ捻り潰し渦に載せて噛み砕く。

 底なしの食欲を満たすために限界を無視したひときりは咆哮の合間に血塊を吐き出し、地面に押さえつけていた赤い鬼を夜空に向かって持ち上げて、暴れる喉元に鋭い牙を突き立てた。

 ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!

 緑の眼球を剥き出して赤い鬼が絶叫した途端、美しく均整の取れた全身が白煙を上げながら木乃伊のように干からび、しかし恍惚と歓喜にその口元を引き上げて、続き、うっとりと途切れ途切れに甘い囁きを漏らした。

「あぁ、愛しいお前に我が身を捧げて焼き上げた、赤い椿の呪われた壺。お前がこよなく愛してくれた我の身体を切り刻んで塗り込んだ赤い花」

『なのに殿は、その赤い花が首切り花であったが故に俺の首を取った』

「無惨にうち捨てられた愛しいお前の首を花とし壺に隠し、残ったお前の愛しい身体に据えた我の首」

『俺がお前に』

「我がお前に」

『しかし我らは』

「傍らにいてもその手を取り合う事さえ出来ぬ」

『しかして我らは』

「取り殺し乗り移る首が欲しい」

『怨念の首をすげ替える身体が欲しい』

        

 ほし……い。孤独…を癒す、人、片割れが……。

     

 元は焼き物師であったのだろう枯れ枝のようになった身体が、先に崩れて血風に乗り千々に乱れ、残された赤い鬼の首も徐々にやせ細り老人のように縮みながら、緑の涙を流して嗚咽を漏らした。

「いとし……おま…え…の……」

 収束していく気流の中心で、ひときりが赤い鬼の首を片手にぶら下げ、肩で荒い吐息を繰り返しながらよろめく。天を仰いで夜気を吸い込み、不意に咽せて血塊を吐きながら、ついにはがっくりと地面に膝を突く。

「ほふら…れて……わ…れら…は……………」

「うるせぇ…」

 かさかさに乾いた唇で尚も言い募る赤い鬼の残骸を睨め付け、ひときりは苦しげに喘いだ。

「また……ひとつ…………に。ひと……つ…」

 吐息のような断末魔。

 最後に残った小さな頭部を握りつぶして掌を開き、赤い鬼をキレイさっぱり食らいつくしたひときりは……。

 先刻よりも更に大量の血を吐きつつ肩から地べたに倒れ伏すと、息を詰まらせ全身を激しく痙攣させはじめた。

 外法師に抱き起こされていた散歩が、その腕を振り払って転ぶようにひときりに駆け寄ろうとする。それを必死で引き留める外法師を、散歩は、まるで普段と別人のような形相で睨み付けた。

「離しなさいっ!」

 人外の血に染まり髪を振り乱した散歩は、まさしくあの黒鬼と同じ顔で悲鳴を上げた。

「わたしを、あれの側に行かせてくれ!」

 怨念を、無念を、哀しみも苦しみもありったけ含めた哀れな人の子にまつわる全てを喰らい尽くして血肉になるまで「昇華」するひときりは、受け取った怨念に、無念に、哀しみに耐えなければならない。

 ひとりきりで。

 血を吐き痙攣するひときりの裡を今駆け巡っているのは、強い思念の発する地獄以上の苦しみか。

「いけません!」

 闇雲に暴れる散歩を羽交い締めにしつつ、外法師は叫んだ。

「アレを、本当にひとりきりにしたいんですか!」

「来……な…」

 悲痛な語尾と苦しげな拒絶が被ると、散歩が急に、ぎくりと背筋を震わせた。

「来る…な。そこに居ろ…。何もしないで……、黙ってろ。今…おれが……お前の側に…行く。ちゃんと…行くから」

 荒い息の下で言い、ひときりは血だらけの顔を上げた。

「急にいろんなモン…一遍に詰め込んで、少しハラがびっくりしてるだけだ…。だから、そこから…動くな」

 ひときりはにっと口元を歪めてよろよろと身を起こし、爪先を引きずるようにしてゆっくり歩き出した。

「…………」

 それを見つめる散歩を解放して、外法師は後方で震えるこたろに顔を向けた。

 植え込みに身体を預けて手足を縮め、気のふれる一歩手前で恐怖に震える奥羽の怪猫。自らと身を分かつ狗の存在がなぜそれほどまでに恐ろしいのか、外法師は未だ判らずにいた。

 その新緑の瞳が見つめる先には、ただ呆然と立ち尽くした散歩がいる。

 そして、吹き荒れていた風が次第に収まっていく中、全身に化性の血を滲ませ蒼白で震える散歩の見開いた瞳が見つめる先では、あの、傲岸な狗が今にも倒れそうに天を仰ぎ、荒げた吐息を繰り返しながら、一歩ずつ、足を引きずるように散歩に向かっていた。

 一瞬、ひときりの身体のどこかで閃光。途端、地面に吐き出され白煙を上げる血塊と、自らの全身にべっとりついた血が突如出現し叩きつけた水球と混じり合って、蒸発し消えた。

「…ハラ減ったなぁ、畜生……」

 がくがく震える両手を上げて顔を覆い、ひときりが呟く。

「喰っても喰ってもハラが減りやがる。一時だって、持ちやしねぇ!」

 煉獄の飢餓、灼熱の渇き。喉を焼き尽くすそれに耐える狂った深紅の瞳が、だらりと垂らされた両腕の間から現れ、射すくめるように散歩を睨んだ。

「お前喰ったら、それで終わるか?」

 全身に冷水をかけられ、鋭い刃物を喉元に突き付けられたような感覚に竦み上がりつつも、散歩は、熱を孕んだ問いかけに応えようとした。

 しかし、刹那。横合いから光の尾を引いて飛び出してきた純白の狐が、空中でくるりと回ってあの美女へと変化し、二人の間に割って入った。

「主殿を喰うなど、この私が許さぬわ! 汚らわしい外道の狗めが!」

 地面を爪先で蹴りつけたここのつが、鋭い爪を突きだしてひときりに飛びかかる。一瞬硬直していた散歩が止める暇もなく、ふらつく狗に体当たりしたかと思うなり、瞬きする間に空いた脇を蹴り上げられた真白い肢体が、浮いた顔面を殴り倒されて無惨にも地面に激突した。

「やかましいっ! おれの邪魔すんじゃねぇ!」

 悲鳴を上げて転がったここのつに追いすがったひときりは情け容赦の欠片もなく、歪んだ美しい顔に爪先をめり込ませて更に地面を数度転がし、ようやく止まったところで仰向けの腹部を踵で打ち据え、思い切りにじった。

「おれぁな、ハラ減ってんだよ、判るか? いつだって気ぃ立ってんだ! 手出し出来ねぇと思っててめぇが半兵衛に八つ当たりしてんのをな、ムカムカしながら見てんだよ!」

 ここのつを焼き殺さんばかりに睨め付けた紅蓮の瞳が、すっと細められる。

「……これに懲りたら、以後慎みなさいね、白ぎつね」

 いつもの調子で毒のある言葉を吐き付けたひときりの足の下、ここのつは腫れがあった顔で恨みがましく、それ以上の憎しみと畏怖を込めて狗を睨んだ。

「てめぇみてぇな雑魚でカスなんざ、喰ってもハラの足しにもならねぇんだからな!」

 ひときりが軽く上げた足を再度踏み下ろすと、ここのつが苦悶の表情で悲鳴を呑み込み、しかし、その華奢な胴体から、ごきりっ、と骨の折れる音が上がる。

 おまけとばかりに震えるここのつを蹴飛ばしてまたも転がし、ひときりは、ふん、とざんばら髪を掻きあげながら息を吐いた。

 いちいちこれだけやるから半兵衛が八つ当たりされるのだろうが、ひときりはそんな細かい事は気にしない…。

 何せこのハラ減らしは、いつだって気が立っているのだから。

 そこまでやって、ひときりはようやく散歩に顔を向けた。

 自分の着物をしっかりと掴み、じっとひときりを見つめる、その人。

「……………お前も…、あの赤い鬼と同じに……」

 歩み寄り、色の薄い髪に手を触れて怯えたように目を伏せ、ひときりはその続きを呑み込んだ。

 何を訊こうとしたのか確かめもせず、散歩は髪を滑るひときりの手を取って、何度も首を横に振る。

 不意にその熱を持った腕から力が抜け落ち、続いて、糸が切れたように倒れ込んでくるひときり。意識を失ったそれを抱き留めて地面に座り込んだ散歩はそっと、目を閉じて、半兵衛なのかひときりなのか判らなくなった額に頬を寄せ、小さく囁いた。

「わたしは、喰われてしまいたい……だけ」

 抱きしめるように縋った指先に力を込め、散歩はもう一度……。

「喰うて欲しいと、望むだけ」

 解けた結界の中に、夜気が忍び寄っていた。

    

   
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