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    月に吼える    
       
(5)不死者の王

       

 イジュマル=オラスから暫く西へ街道を進み、途中、直進すれば隣り町へ、左へなだらかに下れば草原地帯へ、という分かれ道で一旦小休止を取り、すぐ草原地帯方向へと進路を取る。街道は整備が行き届き、敷き石も頻繁に交換されているらしくまだそう痛んでいなかったから、荒れた道を強行するより気分も足取りも軽い。

 この夜は。

 静寂に包まれ寂寥の風さえ息を潜めたこの夜は。

 純然たる暗闇を貪り死んだように眠るべきこの夜は。

「騒がしいわね」

 街道沿いのオアシスであったはずの湖に魔族が棲み付いた事によって、その静寂を破られ、寂寥は恐怖に変わり、紛い物の暗闇に命という輝きを貪り食われる、絶体絶命の神なき刻に変貌した。

「「メドーサ」の撒く蜜に下級魔族どもが集まっている。………」

 平坦な夜の風景。比較的新しい敷き石が、その先に潜む怪物へ名もなき生贄を誘(いざな)うかのように仄白く燃え、前方で大きく右にラウンドしていた。今は最早、果てない破滅への一本道たる街道は、佇むギャガとクロウの正面に黒々と這う低木の群れを迂回して、更にその向こうに見える樹木の群れへと続いている。地図に記された通りなら、あの背の高い樹木がまばらに立ち上がる付近が、目的のナコン湖畔のはずだ。

 前方を見つめるクロウの視野は、薄靄が掛ったように曇っていた。世界が混沌(カオス)に飲まれた瞬間、ゲヘナの地下深く引き摺り下ろされ繋がれた月が不在の夜は既に数百年続き、星明りだけの空は、太古からそうであったかのように今日もひどく暗い。魔族と違い採光しなければならない彼女では、手前の低木はなんとか種類が判別出来そうだったが、遠くの樹木の群れに至ってはただのシルエットにしか見えなかった。

 普通の人間に比べれば充分なのだろうが、クロウはその霞んだ夜の視野を不充分だと思った。この薄暗がりでも淀みない歩調を保つギャガなどは、月も星もない本物の暗闇であっても、昼間と変わらず周囲を見通せるだろう。

 鈍色(にびいろ)に底光りする隻眼で…ではないが。

「街道通りに迂回する?」

「面倒だな」

 視線だけで窺うギャガの横顔。闇夜にも映える蒼白い無表情が、ぶっきらぼうに答える。

「じゃぁ…」

 どうする? と続けようとしたクロウの華奢な胴体に、拘束された逞しい腕がそっと絡みつく。そう来るだろうと予想していたのか、彼女は驚きの声さえ上げず、足下にカッと輝いた魔法陣の中心に携えていた大鎌を放り込んだ。

 脈動する円形の光に豪奢な刃が飲まれるように消えるのと同時に、クロウは軽々と抱き上げられていた。軋む黒革の拘束服と銀金具、冷え切ったリベットの群れに寄り沿った彼女の長い髪が巻き上がる風に嬲られるのと同じ速さで、ギャガの纏った漆黒のマントが、まるで悪魔の翻す皮膜のようにぶわりと広がり夜気を孕む。

 吹くと言うより漂うように粛々と街道を舐めていた風が一陣の突風に姿を変え、極彩色の美女を腕に抱く暗闇を中空に舞い上がらせ、背に広がるマントが意思のある生き物のように羽ばたいて、ゆっくりと上昇し始める。

 ギャガの首に腕を巻き付け、遠ざかる地上を見つめるクロウ。暗闇に微か浮ぶ起伏と、彼方にちかちかと明滅する町の明かりが位置を変え、押し寄せてくる冷たい風が耳元で唸るのに何を感じたのか、彼女は短い溜め息と伴にそれらから目を逸らし、銀金具と拘束端子だらけの凍えた男に身を預けた。

 問う気配を感じる。しかし、問いかけはない。

 滑るように闇を割って前進する。ギャガの纏ったマントに染み付いたゴートの怨嗟は、まるでレーダーのように眷属の気配を察し、その只中へと彼を誘導するのだ。

 凝った命を捧げよとけしかけるように。

 濁ったこころに堕ちよと誘うように。

 戦いに、争いに、悲劇の終末に身を沈め、見てみぬふりの本質を曝け出せとでも言うように。

 凍えた夜気に取り囲まれて、クロウは微かに肩を震わせた。寒いのではない。恐ろしいのでもない。やかましい仲間たちと伴にある時は意識しない、夜と失望と恐怖を従えた男の腕に囚われていると思うと、知らず。

 腐り落ちるほどに熟した果実のような誘惑に、身体が震えた。

「低木の向こうに降りる」

 静謐で重い囁きに、クロウが無言で頷く。低く呟くようでありながら唸る風にも紛れないその声は、冷やりと耳に突き刺さって来るようだった。

 今は、夜。

 魔の刻(とき)。

 全てが全て「女神」に仇なし、神の子を成すべく唯一の淑女をその手中にせんと蠢く、時間。

 夜を意識してしまうと、ギャガの声さえクロウ…ホロスコープに未だ留まりながらも、その地位を捨て去ろうとする処女宮最後の正当な女神…を甘く激しい毒で堕落させようと悩ませた。ねっとりとした夜気は、晒した素肌、衣服の隙間、深く、浅く繰り返す呼吸に紛れ込み、クロウの狂気を呼び覚まそうとする。

 普段ならばそんな誘惑なと無視して、ないもののように振る舞うクロウが、今日に限ってその夜気に悩まされている原因は、他でもないギャガだった。

 不死者の王の纏う『夜』は他の魔族の弱々しい気配を完全に退ける力を有しているが、逆に、それはあまりにも魅惑的な冷たさと刺々しさと激しさを持って、女神の全てを縛り付けようとするのだ。

 それに気付いたのはいつだったのか。

 ギャガが傍に在る時、クロウの中心には「夜」が在った。

 仕事にならない…。と溜め息混じりに肩を竦めたクロウに、今度こそ顔を向ける、ギャガ。

「マーマンとシーマンの外側を、そこいらをうろつき回ってる外道(げどう)どもが取り巻いて大騒ぎしてるわ。アマリアかクラインスでも居れば焼き払って済む程度の下位下級魔族だけど、あたしとあなたじゃ…」

 仲間であるウスラス・クラインスとエンマーリ・アマリアは、どちらも相当な実力の魔法使いだった。しかし、クロウは簡単な治癒呪文をいくつか知っているだけで、魔法は殆ど使えないと言ってしまってもいい。

 そしてギャガは。

 迂回路の途中を文字通り飛び越えて低木の群れを躱し、再度街道に下りる。ギャガの爪先が地面を掴むなり周囲に渦巻いていた風は止み、羽ばたいていたマントが不自然にふわりと広がって、それから閉じ、元通り男の身体を包んだ。

「二分で済ませる。背中の、四十五番と七十三番を外せ」

 早口でそう呟くなりギャガが、ジャケットの隠しから取り出した円形金具を左手首に回した腕時計の文字盤に噛ませ、竜頭を引き起こす。

 バシャン! と発条の弾ける音。一瞬で緩んだ時計をクロウに手渡すと、彼女は、受け取った銀時計の、立ち上がった文字盤を無造作にカキリと外した。

 小さめの懐中時計を枠に嵌めこみ金属製のバンドを取り付けた、という感じの、奇妙な腕時計。そのバンドと文字盤を分解したクロウは、文字盤をひっくり返して背面の窪みを確かめてから、マントを脱いで佇むギャガの背後に回った。

 広い背中を埋め尽くす、ベルトと銀金具と無数のリベット。左右から斜めに縫い込まれているベルトは背中の至るところで金具と繋がれ、ここも、一本や二本千切れたところで分解しないようになっていた。

 言われた通り、四十五番と七十三番を探し出して文字盤の後ろのへこみをリベットに押し当てると、結束魔法陣を使っても分解と結束に相当な時間の掛る複雑な魔法が一瞬で解除され、拘束端子たるリベットが鈍い光を放ちながら分離した。

「ここに居ろ、すぐ戻る」

 言って、脱いだマントをクロウに放ったギャガは、ふと何かを思い出したように彼女を振り返った。

「なくすなよ」

「……判ってるわよ」

「そうだな、すまない」

 微かな苦笑の浮んだ薄い唇。風のように駆け離れていく背中と、白髪。

 あれは、不死者の王。

 たったふたつのリベットと腕時計を外しただけで…。

 しん。とそれまで無音でざわめいていた夜気が、緊張と絶望を孕んで静まり返る。それでもまだ絡み付く視線や生ぬるい吐息が窺うように漂っているのは、「メドーサ」の取り巻き連中だろうか。

 クロウが必要以上に辺りを警戒しなかったのは、傍にギャガが居たからだった。もし外道…実体を持たずに魔族の周囲を漂っているだけの怨嗟の御魂(みたま)…が消し飛んだ瞬間に取り巻きが襲いかかって来たとしても、自分に危害を加えるに至らないと、ちょっと不愉快だが、安心している。

 ゴルゴン・ギャガという男は、尋常でなく、強い。

 例え相手が「神」であろうとも、互角に渡り合うほどに。

 だが、在る部分ではクロウより脆弱だとも言える。

 彼は、恐れている。

 自分の中に在る、異形の魔物を。

 静まり返ってぴくりともしない、数多の気配。ギャガの周囲で何が起こっているのか、クロウに窺い知る事は出来ない。

 しかし。

 突如、佇むクロウが琥珀色の瞳で冷たく見据える暗闇が、そう大きくない水の気配全てを刹那で飲み込むように膨張した。歪む陽炎が四方八方に飛び散り、それまで沈黙を守っていた外道が一斉に呪詛(じゅそ)を吐きながら、膨れ上がる暗黒から逃れようと瞬き、千切れ、御魂の尾を引き逃げ惑う。

 福音(ふくいん)か神の鉄槌(てっつい)ならば、その陽炎は白か金色に輝く。だが、ギャガの作る「それ」はただただ暗く冷たく輝きの一片さえも放たずに荒れ狂い、無音の絶叫を上げもがき苦しむ外道を、伸ばした触手のごとき闇でその中心におわす一際濃い空隙へと引きずり込んで、漆黒の燐光を夜に解き放ちつつ爆縮した。

 刹那で膨れ上がり、また刹那で無に帰(き)す。それは深層の闇。

 ホロスコープの外。ゲヘナの奥。

 その闇は、彷徨い苦しむ御魂を「無」という結晶に戻し、どの時代かの、どの世界かの、過去、現在、未来を問わない「どこか」へと送り出す。

 行き付く先は、皆無。

 そして無は、有に繋がる。

 あれはなんだろう。とクロウは、ざわめく気持ちを押し殺して平静を装い、仄かに弧を描いた唇で不死者の王を迎えた。

 どこにも属さない、孤高の王は。

 柔らかな笑みとともに差し出された腕時計とリベットを見つめ、小さく笑った。

                

   
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