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    月に吼える    
       
(4)ゲヘナ

       

 魔族というものは、ゲヘナ以外の場所で永くその形状を保つ事は出来ない。

 いかに混沌に落ちたヴァルハラといえどもそれは例外でなく、だから魔族はその御魂だけを「核」としてこの世に現れ、ヴァルハラに存在出来るものに取り憑いて、人間の御魂を食い潰す全く別のものに姿を変え留まろうとする。

 クロウとギャガが討伐しようとしている「メドーサ」が人間の死体を変質させては奇怪な姿を有し、時期が来て「核」が分裂、また新たな「メドーサ」を生む、というのはハンガーの常識だった。最初の憑依からどれくらいで「核」の分裂が始まるのかはまだ解明されていなかったが、個体差もあるのだから一概にその時期を特定するのは無理ではないか、とハンガー・オルグも通達していたし、「メドーサ」に遭遇したハンガーも口を揃えてそう報告している。

 夜半には目的地に到着するよう予定を立てて、一応マスターにその旨を報告したクロウは、カウンターを離れてから階段に爪先を載せるまでの短い間、無意識にロビーを見回していた。

 まだ昼を過ぎたばかりで仕事に出かけようというハンガーも少ないのか、…元より、「メドーサ」のおかげで駐留するハンガー自体そう多くないのだが…、ロビーでは人待ち顔の男がひとり、古びたテーブルに頬杖を突いて欠伸を噛み殺してるだけだった。

 あれから、シルリィの姿は見ていない。

 どこへ行ったのか…。

 その気もないのに短い溜め息をついたクロウが、思わず失笑する。

 あれだけ冷たくして、適当にあしらって、今更なぜ青年の身を按じているのか、と心の中で自分に悪態を吐いてから橙色の髪をさらりと掻き揚げ、また、短い吐息をひとつ。

「調子狂うわ…まったく」

 気持ちで燻る奇妙な苛立ちの原因が判らないまま、クロウは軽い靴音を響かせて階段を駆け上がった。街道の途中で出会い、思い込み激しいのも甚だしくいきなり「おれたちいいコンビじゃねぇ?」などとほざいて付き纏い、ちょっと冷たくされたからといってすぐに姿を消す。そういう、妙なところでプライドだけは高く、なのに関心を示して貰えなければすぐに興味を無くす、…つまりいかにも子供っぽいシルリィはうざったかったが、ハンガー以外の「人」との関わりが殆どないクロウにとって彼は珍しい同行者だったから、ちょっと興味を覚えたのも事実だ。

 でも、冷たく突き放したのはクロウ自身で、別れの挨拶もなく消えた青年をどうこう思うには、遅過ぎる。

 そういうものだ。

 彼女は…女神。

 その地位を蹴っても尚、彼女は女神でなければならない。

 それに…。

「愛してるって言われてもね」

 シルリィの必死の形相を苦笑いで思い出し、クロウは溜め息みたいに呟いた。

「…………二百年は遅かったわ…ボウヤ」

「その」席はひとつしか持ち合わせがなく、もう「そこ」は…………。

          

 暗闇に、囚われている。

         

         

 太陽が傾くのに合わせて、ハンガーたちがギルドから出かけて行く。魔族が活発に動き出す夜こそ、彼らの狩り場でもあるのだ。

 全知全能の神「大天(だいてん)」の祝詞(のりと)を頂いた装備に身を包み、採取してから外気に触れないよう運ばれて三日三晩奉納し祈祷した「銀」だけで作られる武器を携えて、彼らはギルドを後にする。今日こそ命を落とし次はないかもしれない、などという憂鬱に曇る訳でもなく、だからといって意気揚々という訳でもない冷え切った表情はまるで、インディゴブルーに塗り潰された闇夜に浮かぶ、青ざめた月のようでもあった。

 ロビーで一際目を引いていた極彩色の美女と凝固した夜が、ギルドに代表される人間の世界に背を向けたのも、そんな時間。クロウは、真紅のビスチェに黒いエナメルのジャケットと、太腿にぴったりフィットしたエナメルのパンツという軽装だったが、右手には長大な「鎌」を携えていた。

 光沢のある黒に、真紅を鈍く輝かせる橙色の長い髪が流れる。その繊手に囚われた、刃先から握りまで全てに宝飾の施された銀色の鎌は美しかったが、対峙する魔族にとってはこの上ない脅威だろう。

 そして、その極彩色の美女に並ぶのは、夜の闇。艶消しした皮製の拘束服に、銀金具とリベットを無数に撃ち込んだ不死者の王。死人のようなざんばらの白髪から覗く隻眼には、透明に透けるほど淡い蒼で彩られた暗黒が潜んでいた。

 軽やかな靴音がロビーを横切り、追って、がちゃりと重々しい軋みが静寂を割る。

 ふたりは言葉も視線も交わさずに歩き出した。明日の朝までには「メドーサ」を討伐し、まるで今と変わらぬ姿でここへ舞い戻るだろう。

 彼らは絶対。

 彼らは最強。

 なぜなら彼は。

「……不死者の王」

 暗闇に解け込むように消えて行くふたりを物陰から見送るシルリィが、ぽつりと呟く。

「ほ…本当に、これで……あいつに「勝てる」んだな?」

 ごくりと喉を鳴らしたシルリィが掌に収まるほどの円盤を顔の前に翳しながら軽く振り返ると、青年の背中に隠れるよう闇に潜んでいた男が、薄い唇を皮肉に歪めて肩を竦めた。

「このオレを信じない?」

 建物の隙間、その、星の光さえ届かない場所にあってもきらきらと輝きを発する、不思議な亜麻色の瞳。それに冷たく見つめ返されたシルリィは慌てて男に向き直り、そうじゃねぇよ、と口の中でごもごも言いながら件の円盤を懐に捻じ込んだ。

「人間の癖みたいなもんだろ? 今のは。人間てのは、疑うのが性分なんだよ」

 視線を合わせず言い訳のように呟いたシルリィの横顔を、一瞬だけ、刺すように睨む男。蔑み切った冷ややかな視線に晒されていると気付かないのか、青年はそわそわと自分の姿を見下ろし、装備を確かめた。

 近付き過ぎても見つかるが、離れ過ぎては…心細い。

 そういう、臆病で自分勝手で無神経な人間が嫌いだ。と男は思った。それなのに、そういう「もの」のためにヴァルハラ中を奔走する奴らは救い難い愚か者で、しかし、こうして暗躍する自分は、もっと救い難い卑怯者だとも、思う。

 正直、自分の忍耐強さとしつこさに呆れそうになった。

「なぁ、あんた…イ=レイさんつったっけ?」

「ああ」

 ぶっきらぼうに答えたイ=レイは、暗闇に紛れ不愉快そうな顔をした。正直言ってムカつく。気安く呼ぶなと言いたい。

「上手く事が運んだら、あんたに、真っ先に彼女を紹介するよ。ただし、彼女はオレのモンなんだから、口説かないでくれよな」

 最早何かを成し遂げたように清々しく笑ったシルリィが、「んじゃぁ、楽しみにな!」と軽く手を挙げて物陰から滑り出して行く。それを完全に作り笑顔で見送り、二呼吸、イ=レイは急に憮然とし、ふん、と鼻を鳴らした。

「どいつもこいつも全くもって愚かだな。虫唾が走る」

 というか。

「悪役もーどぢぇんかいにぇ」

 開け放たれていた三階の窓から飛び出した白い塊が、腕を組んだイ=レイの肩に、重さのないもののようにふわりと舞い降りる。含み笑いのセリフが気に食わなかったのか、彼はわざとのように肩を揺すって白い塊…マオを振るい落とすと、無言で踵を返した。

「? どこ行くのにゃ」

 くるりん、と空中で百八十度回転して器用にも四肢で着地したマオが、若草色の双眸に黄金を回しながら、町の暗がりに消えようとするイ=レイの背中に問いかけると、男は軽く振り返って疲れたように肩を竦め、「お勤めだ」と珍しくまっとうな答えを返した。

「……あのふたりを放って行くちゅもり?」

「ああ」

「あの若い男に、何をわたちたの?」

「――――――――――――――」

 男の、微かに笑いを含んだ呟きに、四肢を揃えて地面に座り込んでいたマオの大きな瞳が尚更大きく見開かれる。

「危険ちゅぎるわ!」

「逃れられなければ、滅びるといい。「こんな事」ぐらいで消される程度の自我では、どうせいつか滅びる」

 建物と建物の隙間に、冷たい空気が蔓延する。

 睨んで来る若草色を背中で跳ね返したイ=レイの姿は、微かな気配さえも残さず忽然とその場から掻き消えた。

「……ちょんな事、あたちだって判ってるわよ…。でも…」

 マオは呟いて、さも痛ましげな表情で星空を見上げた。

                

   
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