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    月に吼える    
       
(8)処女宮最後の正当な女神

            

 何がどうなってシルリィがクロウを襲ったのか、がくがく震え目標も定まらない切っ先をギャガに向けているのか、動くなと言われてもすぐには理解出来なかった。

 確かに、魔族と人間の合いの子であるシャッフルは疎ましがられる事も多かったし、仕事は頼むが深く関わるつもりはないからさっさと消えてくれ、と面と向かって言われた記憶も、少なくは無い。

 しかしそれは平穏を求める市民の話であってハンガーには適用されないはずだ、とギャガは、びたびたと暴れる「メドーサ」の「核」を握ったまま、シルリィの青ざめた顔を見つめた。

 第一。

「…クライ=ファングに何をした」

 肩まで差し上げた銃口をシルリィの顔に向け、呟くように問う、ギャガ。いかに青年と彼女が顔見知りだと言っても、かの「荒ぶる女神」が駆け出しハンガーに襲われて簡単に地に伏すとは思い難い。

「な…何も…そうさ! 何もしやしねぇ! ちょっと肩を叩いただけさ、おれは!」

 まるでヒステリーみたいに叫んだシルリィが、見開いた眼(まなこ)をぎょろつかせて小さく首を横に振りたくる。「メドーサ」を見て錯乱しているのか。それにしては、そこそこに成立している会話が奇妙ではあった。

 だから、シルリィは「正常」なのだと思う。正常な意識で確固たる目的を持ち、ギャガに刃を向けているのだ。

 ならシルリィは敵なのか?

 乱暴に青年を「敵」と分類し、一秒か二秒でこの茶番みたいな曲面に終止符を打つ事は容易い。

「おれは言われた通りにしただけだよ…。あんたがあの化け物に止めを刺したら「右手」で二度肩を叩いて、教えられた通り呪文を言っただけさ!」

 極度の興奮状態らしいシルリィは、無言で佇むギャガに向かって、というよりも、独り言みたいにしゃべり続けた。

「タイミングを間違えんなって、あの男は偉そうに言ったんだ! いけ好かない感じの男さ。なまっちろくてスカしてて、まるで…ははは! そう、あんたみたいだった!」

 突き付けられたままの切っ先を見つめるギャガの眉が、微かに動く。正直、昨日の晩会ったばかりの青年に、いけ好かないとかスカしているとか言われる筋合いはない。

「…………………タイミングを間違えるな?」

 濁った水の微かに動く汀に倒れたクロウの背中に視線だけを移しながら、ギャガがそこだけをくり返す。

「呪文…」

 疑念が晴れない。確信でもあったが。クロウは意識がないのか、ぴくりとも動かない。

 そして、「女神」である彼女に抵抗を許さぬ呪文は、この世界にたったひとつしか存在しないはずだ。

 呪文ではない。それは完全なる呪縛か。紡がれる言霊によって「女神」となった彼女を捕えるものは、その言霊だけ。

「中空に燦然と輝ける一己 永遠に清らかなる暁を捧ぐ」

 それこそ呪文のように、搾り出すように低く言い放ったギャガの青白い顔を、シルリィがじろりと睨む。言葉にこそしなかったがその顔つきは、なぜお前がそれを知っている、と食って掛りそうだった。

 確信する。青年にその「言葉」を与えたのは…。

 込み上げて来るものも、何もない。安寧ならざる夜をいつまで続け、この地…ヴァルハラ…に暮らす人間、最後のひとりまでも塵のように、どうでもいい「モノ」のように扱って亡き者にするだけでは飽き足らず、「ゲヘナ」に対抗するため自らを賭し「ホロスコープ」から下った「女神」を取り戻すだけでも飽き足らず、陥れ、足掻く手足さえ奪い取って、じわじわと腐り死んで行くのを眺めるのか。

「例えどんな理由であれ…御方に縋ったというのに…」

 始めから切り捨てるつもりで、何を与えたというのか!

 軋るような声を絞り出したギャガの足下で、泥濘が荒れ狂うようにざわつく。眉間に刻まれた縦皺は深く、それは、言葉にならない憤りを内に押し戻そうとする葛藤の現れでもあった。

 怒りは、あってはならない。

 その激情に流されてはならない。

 もう、やっとなのだから。

 幾重にもかけられた結束魔法と拘束服。それを戒める銀金具と、無数のリベット。どんなに忘れようとしても忘れられない本質を晒すのは、黒革のアイパッチで覆われた紅色の単眼。

 それで、やっと人間の姿を保っているのだから。

 それなのに。

       

          

 最後の機会を与えてやる。貴様が厄災となりヴァルハラに破滅を齎(もたら)す時、俺がお前を滅ぼしこの地を救ってやろう。

        

 それなのに。

       

 人を苦しめてはなりません。人を殺めてはなりません。あなたは。

            

 それなのに。

      

 わたしは全てを観察するもの。わたしは見ていた。お前は。

         

 それなのに。

          

 わたしは全てを記すもの。わたしは記す。お前は。

           

 それなのに。

          

 わたしは全てを見通すもの。わたしは予言する。あなた様は。

          

 それ、なのに。

        

 このヴァルハラを破壊するというなら、わたしが、あなたを人のまま逝かせる。

        

        

 貴様の。

 あなたの。

 お前の。

 あなた様の。

     

 あなたは。

      

 過去、ホロスコープの中枢に在ったものの闇を受け継ぎ、ヴァルハラに生まれた。

       

           

 それなのに。

 ギャガの足下で泡立つ粘ついた泥が、まるで生き物のようにのたうち狂う。佇んでいるだけだというのにその身から吹き出してくる凄まじい鬼気は湿った靄を打ち払い、立ち枯れようとする細った樹木を振るわせ、湖に渦巻く「死」と「絶望」を掻き回し、掻き立てて、それらを漆黒の羽根の下に傅かせようとしているかのごとく騒然とさせた。

「い…あ……う…動くな!」

 怒りに震える…もしくは内に潜む何かと戦うギャガの姿に、我知らず声を上ずらせて悲鳴を上げたシルリィが、無意識に、懐に突っ込んでいた右手を抜き出す。分厚い刃の重い切っ先がバランスを失って地面に突くほど垂れたのにも気付かず、全身に脂汗を滲ませ徐々に後退りながら、口隅の泡を飛ばして喚きまくる。

「動くな、動くな、動くな! 動くなぁ! も…もう、どうせ…お前はお終いだぞ! お、おれを、おれ…、おれを無視して、見くびって、邪魔者扱いしたのを後悔しやがれ! ちくしょう! 何が…何が「不死者の王」だ、この化け物め! 

 てめーなんか消えて無くなれ! いなくなっちまえ!

 そうさ! そしたら、クロウは…「女神」は、このおれ様のモンだ!」

 その姿だけで人間を気死させると言われる「メドーサ」を見たからなのか、違うのか、最早、ギャガとクロウを追いかけて来た理由さえ判らなくなりかけているシルリィは、血を吐くように叫んで重い大剣を地面に投げ捨てた。引き攣って歪んだ顔はギャガから逸らさず、極端に瞬きの少なくなった両眼だけを倒れたきりのクロウに向けるなり、その、泥に塗れた鮮やかな橙色の髪を片手で引っ掴んで強引に抱き起こし、まるで物でも扱うように乱暴に引き寄せる。

「へ…へへへ…ははははは! 見ろよ、ほれ、見てやれよ! あの化け物が「死ぬ」ところおよぉ!」

 狂ったように叫びながらシルリィは、右手に握っていたあの円盤を高々と夜空に掲げて見せた。

                

   
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