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    月に吼える    
       
(9)北天七つ星の神

            

 自分の身に何が起こったのか、起こっているのか、クロウにはまだ理解出来ていなかった。

 ギャガが「メドーサ」の「核」を取り出すのを、黙って見ていた。その身が滅する直前、「メドーサ」に動かされていた少女が一瞬だけ意識を取り戻したらしい事に気付き、安堵するより先に、背を向けたままの黒づくめがどんな顔で引き金を引いたのか、気にかかった。

 もしかしたら、その少女の御魂を清浄なまま救ってやれなかった事を後悔しているのではないか、と思う。

 しかし、クロウの意識はそこで一旦ぷっつりと途切れる。背後に誰かの気配を感じて振り返ろうとした瞬間、全身を焼け付くような衝撃が襲い、次には地面に叩きつけられていたのだ。何があったのか。どうしてしまったのか。

 霞む意識。骨と神経を全部引っこ抜かれたような脱力感。すぐ傍らで喚く人影と、凍り付いたように動かない漆黒。

 ぼんやりとした視界にそれらを認め、必死になって起き上がろうともがいてみたが、手足はまるで他人のもののように動かず、徐々に意識だけがはっきりしてくる。

「呪縛」を受けたと判ったのは、ギャガの唇があの言葉を呟いたからだった。

 あの言葉。

 ホロスコープで「女神」として生を受けた時、それまで一介の天子であったクロウ……が、御方から賜った祝辞であり、約束であり、唯一、彼女を縛り付けるもの。

 その言霊は強く。彼女に、抗う術はない。

 地に伏したままで漆黒の周囲に渦巻く不吉な風を感じ、クロウは必死になって「やめて」と叫んだ。しかしその声は誰にも届かず、彼女の傍らで喚く気配はますます興奮し、ついに抱き起こされて、顎を掴まれ、乱暴に湖面へ顔を向けられる。

 そこで彼女は、見てしまった。

 自由の利かない全身が、震える。

 何に。

 何かに。いや。その、全てにかもしれない。

 上空の星空は、静謐に事の成り行きをただ見守っていた。いつもそうであるように、ホロスコープはヴァルハラに無関心を装い、ちまちまと争いを繰り返すこの地を娯楽作品でも眺めるかのように、見下している。

 それから、湖。立ち枯れた樹木が薙倒されんばかりに大きく揺らぎ、濁った湖面には放射状の波が次々と立ち上がっては、汀に押し寄せる前に砕け散る。

 そして、その波の中心には、色の薄い瞳をこちらに向けたまま佇んでいる漆黒。しかし、無言のひとから吹きつけてくる刺々しい鬼気は湖を取り巻く全てのものの「生きる望み」を吸い取り、絶望と失意で抑え付けようとしていた。

 血を吐くように繰り返し「やめて!」と悲鳴を上げるが、痺れた舌がそれを拒絶する。今クロウの自由を奪っている「呪縛」を振り切ればヴァルハラに置いたこの身が無事では済まないと判っても、彼女は必死になって首を横に振り、腕を伸ばし、悲痛な声を上げて…。

 哀しかった。

 それさえ出来ない自分に、クロウは怒りさえ覚えた。

 漆黒の拘束服と銀金具、無数のリベット。それでようやくひとの姿を保ち、どうにかこうにか「自分」を抑え付けてまで、このヴァルハラをゲヘナとホロスコープから解放しようとするひとがそこに居るのに、なぜ自分は打ち棄てられた人形のように横たわっているのか。と。

 せめて傍に行き、あの暗闇に飲まれて終わるならば。

 せめて。

 泥に塗れたクロウの頬を、温い水が伝い落ちる。瞬きさえ自由にならない濁った琥珀の瞳から沸いた清い水滴は頬から細った顎へと滑り降り、シルリィの指を濡らした。

「…………なん…で…だよ」

 耳を打つ愕然とした呟きに、投げ出したクロウの指先が僅かに動く。

「どうして…泣くんだよ…」

 落胆した青年はその場にがっくりと膝を突き、動けないクロウを抱き締めて、泥まみれの髪を優しく撫でた。

「なんでもねぇって言ったろ? あんな男関係ねぇってさ。頼りになるけどそれ以上なんでもねぇって、言ったよな。なぁ! どうなんだよ!」

 叫んで、シルリィは抱えていたクロウを思い切り地面に叩きつけた。

 柔らかい泥に顔から突っ込んだクロウが、微かに身じろぐ。それでも気が済まなかったのか、シルリィは倒れたエナメルのコートを激しく平手で打ち据え、仰向けに転がしながら、何かを喚き続けた。

 霞む夜空と、涙声で何かを叫ぶ青年のおぼろな姿。しかしクロウはゆっくりと、その身に絡み付く細い糸を一本一本引き千切って自由を取り戻そうとするかのようにゆっくりと腕を伸ばし、ゆっくりと瞬きし、汚れたラズベリーの唇で囁いた。

         

 やめて。この世を、……、殺させないで。

          

 声にさえならなかったものの、必死になってそう繰り返す、クロウ。言霊の呪縛は強く抗うこと事さえ許さないはずなのに、彼女はそれを振り切ろうとしていた。

 その暗闇が、全てを敵に回す前に。

 泥に打ち棄てられたクロウの腕がゆっくりと、ゆっくりと、もどかしいほどゆっくりと持ち上がったのを目にした瞬間、ギャガの中で、何かが…冷えた。

 沸点に達し、漣(さざなみ)さえ許さない凍り付いた水面を荒れ狂う劫火の荒波で破壊し尽くし、その奥底の氷塊、更に奥の溶岩を解放しようと伸ばした指先が、平坦な鏡面に小さな波紋を穿った、瞬間、外界を映し込み内の正体を見せないそれから、見覚えのあるほっそりとした指先が現れて、黒手袋に包まれた手をそっと押し留める。

 なぜそれが内からなのか、と、最早冴え冴えとした意識で自らに問い、ギャガは小さく息を吐いた。

 淡い光を放つ手の持ち主は、知らず、そこに巣食っているという事か。

 肩まで差し上げていた銃口を疲れた様に下ろし、ギャガは軽く左右に首を振った。物騒な考えと自身の内部で燻る怒りをそれだけでなんとか振り払い、波紋だけを残した湖面にささやかな軌跡を描いて、倒れたままのクロウに歩み寄る。

「とっ、とまれ! くるな!」

 無様に尻餅を突いて後退さるシルリィの金切り声を無視したギャガが、クロウの傍らに膝をつく。ずぶぬれの白髪から離れた水滴が白い頬を叩くと、凍りついた表情のクロウが微かに睫の先を震わせた。

 泥まみれの髪を撫で上げ、身を屈めるギャガ。露になった淡い桜色の耳朶に唇を近付け、囁くように微かに、唇を動かす。

「中空に燦然と輝ける己。闇は永遠に存在し、清らかなる暁未だ来ず、夜に…」

 そこでなぜか、ギャガは失笑した。

「安寧無き夜(よ)にその身を委ねり」

 言霊を振り払う悪言(あくごん)を吐き軽くクロウの頬を叩くと、彼女は大きく息を吸い込み、ぱちり、と一度瞬きした。

 深く疲れ切ったように息を吐き、泥に肘を埋めてもがきながらなんとか身を起こして、酷い目にあった、とでも言うような溜め息をひとつ吐く。

「…御方の福音で気配を消し、尾けていたようだ」

 自然に差し出されたギャガの手を握ってよろりと立ち上がったクロウは、汀から大きく後退したままがくがく震えているシルリィをちょっと恨みがましく見遣って、すぐ青年から興味を無くした。

「それより、「メドーサ」の「核」をどうにかしてくれ。暴れて困る」

 少々面倒そうに言ったギャガが左手を顔の前に差し上げると、それまでぐったりとしていた紫色の舌が、思い出したようにじたばたと暴れ始めたではないか。

「そうね。それで仕事も…」

 顔に張り付いた橙色の髪を掻き揚げたクロウが、足下に落ちている大鎌を拾い上げようとギャガの手を離した、瞬間。

「ああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!」

 青年は振り絞るように叫びながら、手に握っていたあの白い円盤をギャガ目掛けて投げ付けた。

                

   
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