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    月に吼える    
       
(11)カオス

            

 全ての事象はまったく同時に起こった。

 ふわりと夜空から舞い降りた淡い紅色が哄笑する「メドーサ」の眼前で爆裂し、吹き上がった水柱を割って飛び出した黒が手にした白銀の大鎌を振るうと、絶叫しながら墜落した「メドーサ」が無様にも泥に穿たれた大穴へ転がり落ちる。空を切りながら何かに縋るよう泳いだ無数の手はしかし、ひっくり返る肉球の真下をすり抜けた黒の振るう刃にことごとく斬り飛ばされ、弧を描いた銀光は、クロウを捕えた腕や舌、のたうち襲う陰茎さえも全て打ち払い、支えを失った女神は悶える腕に拘束されたまま空中に放り出された。

 地面に叩きつけられる覚悟を決めたクロウは、大穴に没した「メドーサ」を踏みつけて立つ白っぽい人影に視線を向ける事さえせず、歯を食いしばり激突の衝撃に構えた。しかし、あと少しで背中から地面に、という刹那、彼女は横合いから伸びた逞しい腕に抱き止められ、滑り込んで来たのだろう勢いのまま、もんどりうって絡まるように地面に転がったのだ。

 天と地が、回る。どちらがどちらか判らない。

 泥濘に衝撃を殺されたクロウと黒…ギャガ…が、跳ね上がった泥に塗れて滑り、ようやく停まる。ここでも吹っ飛びそうな意識を無理矢理繋いだクロウは、無意識に停めていた呼吸を再開しながらはっと目を見開き、全身に絡みついたまま干からびようとしている「メドーサ」の腕を引き千切って、痛む関節を動かし跳ね起きた。

「…!」

 太腿にへばりついたミイラのような手を引っぺがし、口の周りでべたつく粘液を腕で拭いつつ傍らに蹲っているギャガに顔を向けたクロウが、今度こそ本物の悲鳴を飲み込む。その俄かに緊張した気配を感じたのか、目を閉じたままの男はなぜか…薄い笑みを唇に登らせた。

「…離れろ………今…すぐにだ…」

 呟いた、不明瞭な声。弱々しくクロウの肩を押し遣ろうとする、ごつごつと骨ばった大きな手。

「行け!」

 戸惑うクロウを鋭く叱咤したギャガは、粘つく泥に肘を突き、ようやく、といった重々しい動きで起き上がろうとした。

「全くもって無様だな。何が不死者の王だ」

 意識の外に追い出していた「メドーサ」の絶叫と伴にクロウの耳朶を打ったのは、冷え切った声。いかにも蔑んだような声音の主を琥珀の瞳が睨むと、彼は、やれやれ、と溜め息を吐きながらわざとのように肩を竦めた。

「それにしても、だ。どいつもこいつも好き勝手ばかりして、少しもオレの思い通りに動かない。そこの魔物は徹底的に痛め付けられてもまだ人間のふりをやめようとしないし、ここの屑は魔族になど成り果てるし、お前はお前で…」

 金色の光沢を纏う亜麻色の瞳をクロウに向けた男が、その端正な顔に微かな苛立ちを浮べる。

「我侭が過ぎるぞ、女神」

「うらあぎりものおおおおおおおおおおおおおおおっ!」

 忽然と現れた男の靴裏で踏みつけられていた「メドーサ」が、血を吐くように叫ぶ。同時に水没していた無数の腕が垂直に立ち上がり、肉球の頂上にゆったりと佇みシルリィの顔にぎりぎりと踵を食い込ませる白衣目掛けて急降下した。

「いいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいれええええええええいいいいいいいいいいいいいいいいいっ!」

「気安く呼ぶな。それにオレは、貴様に知恵を与えてやったが手を貸した覚えも、ましてや協力した覚えも無い。つまり、裏切ろうにもその理由さえないという事だ」

 突き刺さろうとする無数の腕を物憂げに見上げた男、イ=レイが、さも面倒そうにそう呟いてから、頭上に軽く手を翳す。

「消えろ」

 殺到する手、手、手。空気を切り裂く甲高い音を割って低い声が放たれたと思うなり、その手の群れが霧散して喪失した。

 何の音もなく。

 何の前触れもなく。

 夜空に描いた落書きを拭い去ったようにきれいさっぱり。

 イ=レイに襲いかからんとしていた腕だけが細胞の崩壊を起こしその形状を保てなくなったのか、それらは、引き千切ったような断面を晒す根元だけを残し、微細な塵となって消え去ったのだ。

「う?」

 無くした腕を探して、「メドーサ」がきょときょと周囲を見回す。

「ううううううううううああああああああああああああああっ………」

 踏みつけられたままで眼球を動かしていた「メドーサ」が、ようやく脳に伝わった痛みに反応して長く尾を引く野太い声を張り上げようとする。その、恨みがましい重厚な声が気に食わなかったのか、イ=レイは細い眉をますます吊り上げて、またも溜め息を吐いた。

「あああああああああああああああああああっっ!!!!!」

「黙れ」

 瞬間、「メドーサ」の絶叫が掻き消えた。

 何もかも、何百年も変わりない。とクロウは、「メドーサ」を踏み付けたまま機嫌悪そうに呟くイ=レイの端正な顔を見上げて、思った。艶やかな金髪は肩まで。作り物のように整った非の打ち所ない怜悧な顔立ちに、冷酷ささえ浮ばない、退屈そうな亜麻色の瞳。声を無くして喘ぐように口を開けたままの…元シルリィであったものは泥と粘液と濁った水に汚れ、汀に座り込んだままただ呆然とするクロウは全身泥まみれで傷だらけ、それに、ギャガは…。

 苦しげに喘ぎながらも地面に四肢を突いて立ち上がろうともがくギャガは、こびりついた泥に塗れ、焼けた拘束服の残骸を肌に焦げ付かせ、真紅と黒とが斑に混ざり合った血に濡れているのに。

 白いマントを羽織った「御方(おんかた)」だけが、一点の染みも汚れも無くそこに存在している。

 喉を掻き毟ってもがき暴れる「メドーサ」の顔面を蹴り付けて、イ=レイが湖畔に降り立つ。その身には重さもないのか、軽やかな足取りで進む彼の翻ったマントさえ、踵で跳ね上げられるだろう泥に穢れる事はなかった。

「何が良くてこんな薄汚い場所を這い回っている? お前は。暇潰しにヴァルハラへ下るのは別に構わないが、あんなくだらんゲヘナの下賎にその身を穢されるような真似を繰り返すのなら、これ以上お前をここに置く訳にはいかん」

 ぶつくさと文句を言いながら歩み寄ってくるイ=レイに顔さえ向けようとしないクロウは、泥に座り込んだままギャガの背中を見つめていた。丸めた背中。消し炭のような衣服の残骸を焦げ付かせた背中。その中央、本来なら背骨があるはずの場所に今は、もう、ぞろりと並んだ牙のごとく尖った鰭(ひれ)が浮いている。

 内側から皮膚を突き破って出ようとするかのようにせり上がって来る、背鰭。見る間に、びくびくと痙攣する肩の筋肉にも奇妙な形の突起が浮き、泥を掴んだ両手の甲もぞわりと脈打つ。

「聴いているのか? 女神」

 いかにも不快そうな声が頬に叩きつけられると、なぜか、クロウは疲れたように小さく笑った。

「御方様にはお久しゅうござりまする」

 座った姿勢のまま相変わらずイ=レイに顔を向けようともしないクロウが、口先だけで呟く。全く心の篭っていない言い方に白衣はいかにも不愉快そうに顔を顰めたが、彼女はそれさえも無視した。

「この通りこの地には、下賎魔物魔族人間、御方様のお気に召さぬ物どもが数多(あまた)居りまする故、早々、天宮(てんぐう)に御帰りなされませ」

「…………………」

 ごそりと身じろいだクロウが、放り出されていた大鎌を手繰り寄せ、おぼつかない足取りで立ち上がる。投げ出されたり締め上げられたりと忙しかったからなのか、身体の自由が利かない。

「私めにはいまひとつ遣り残しがござりまする故、これにて失礼いたしまする」

 礼のひとつも捧げずのろのろと踵を返したクロウはイ=レイをその場に残し、蹲ったまま唸り声を上げているギャガの背中に爪先を向けた。

「お前は、何がしたいんだ」

 クロウの背中で、イ=レイの苛立った声が弾ける。

「…在るべきものが、在るように…」

「なら、ヴァルハラの刻(とき)の流れで後数分もあればそれは叶うだろう。見ろ。もう…それが人間で居られる時間はないに等しい」

 イ=レイの冷たい瞳が示すギャガの手は、いいや、焦げた衣服の下から覗く肌のほとんど全てが、淡い水色に発光する鈍色へと変質していた。

 クロウにも、判る。もう時間はない。

「故に御方様。尻尾を巻いてお逃げなされませ。この者が八つ首の魔物となりますれば、いかに御方様なれどご無事では居られますまい」

 ギャガの肌に、鱗模様が浮いている。間近に寄ってそれを目にしても、なぜかクロウは、先ほどの恐怖に襲われなかった。

 覚悟が決まったのか。

…少しだけ、「メドーサ」とシルリィに感謝した。

「例えこの者の記憶に残らずとも、この者の受け継いだ御魂はその怨嗟をしかと刻んでおりましょう。お逃げなされませ。天宮中枢にお隠れなされませ。されば、この者とて御方様を追い立ては出来ませぬ」

「このオレが逃げる?」

 大鎌を足下に置いたクロウが、蹲るギャガの傍らに膝をつき肩に手を置く。

「…御方様。その時、完全世界儀は全てを見て居りました。歴史書はその全てを記し、予言書は混沌(カオス)を予言いたしました。

 無様にお逃げなされませ。

 卑しくお隠れなされませ。

 全ては、天宮中枢での争いが招いたのでござりまする」

 クロウは、唸るギャガの頭を胸に抱きかかえ、抱き締めて、イ=レイの伶貌を見上げた。

       

 全ては、神の手の中で。

       

「…お前は……」

 あくまでも冷ややかなイ=レイの声に、クロウが華やかな笑みだけを返す。

 抱き締めたギャガの頚骨辺りにごつごつとした手触りを感じて、クロウは視線を手元に戻した。死人のように艶も張りもないはずの白髪は今やきらきらとした銀光を放ち、夜気に晒した首筋にもびっしりと鱗が生え揃っている。

「…俺から…離れろ……」

「いやよ」

 にべも無く答えて、つん、とそっぽを向く。

「ホロスコープには戻らないわ。そう決めたの」

「……………………」

「消える……」

 呟いて、声が震えた。

「消えるつもりもないしね」

 縋り付くようにギャガを抱き締め、クロウは儚げに微笑んだ。

「あたしは、ヴァルハラと運命を伴にする。その最後がどうであっても、ここから逃げたりはしないわ」

 例えばあと数分で、ヴァルハラが…ギャガに滅ぼされても。

 黙して佇むイ=レイの存在など忘れたかのように、クロウは、すっかり荒れ果てたナコン湖畔を見回し小さく笑った。立ち枯れた樹木はへし折れて傾ぎ、短い水棲の草は根ごと掘り起こされてあちこちに散乱し、まず、湖畔に直径が五メートルもある大穴が口を開けていて、そこに淀んだ水が流れ込んでいる酷い有様なのだ、その原因が「メドーサ」ではなく自分とギャガかもしれないと思うと、無性に可笑しくなる。

「結局、あたしには何も救えない…」

 くすくすと笑いながらギャガの髪を梳き、彼女が呟いた。

「シルリィも、あたしのせいで死んだわ」

 大穴の中でのたうっている肉球を見遣り、ついに眉を寄せる。

「そしてヴァルハラも、あたしのせいで滅ぶのよ」

 ごそりと動いたギャガの手が、身体の下から掴み出した何かをクロウに押し付ける。

「だって、ねぇ? あたしには…出来ないわ…」

 銀色の。

 十一連装式自動拳銃。

「難しい事ではない…。ただ、引き金を、引くだけだ」

 言い置いたギャガはクロウの手を引き剥がし、身を起こしながらそれまでずっと閉じていた瞼を上げて、彼女を…見た。

 紅色の瞳で。

 狂おしく燃え上がるように爛々とした、真紅の双眸。

「頭を狙え。……………………」

 呟いて自身のこめかみを指先で叩きながら、ギャガはクロウを押し退けて立ち上がった。身体が異様に軽い。さっきまでの、骨という骨がばらばらになりそうで呼吸の方法さえ思い出せなかったのが、嘘のようだ。

 頭も恐ろしいほど冴えているし、周囲が真昼のように眩しくも感じられる。

「末期だな」

 全ての感覚が研ぎ澄まされていた。ヴァルハラに漂う夜気が足下に平伏し、身体の一部になり、だから、かさと羽根虫が草葉に降り立つ音さえ耳元で聞こえたし、遥か夜の果てで怯える小さな子供の啜り泣きさえ見えるようだった。

「八つ首の魔物」

 意識の外から横柄に割り込んで来たイ=レイに向き直り、クロウから視線を逸らす。言っておかなければならない事もあるような気がしたが、ギャガはそれをわざと忘れた。

「大変申し訳ないが、俺は俺がどんな姿に「変わる」のか一度も目にした事がない。だから、首が八つあると言われてもぴんと来ない」

 数歩、クロウから離れる。

 シルリィの投げた呪文文様による鉄槌の直撃で、殆どの銀金具が溶け、拘束服は焦げ、その役目を果たせなくなった。それから、意識の朦朧としている間に「メドーサ」が振り回してくれたおかげで、最後まで残っていたリベットも解けた。

 もったな、というのが、ギャガの正直な感想だった。

 最初の一撃で相当なダメージを受けていたのだ、直後に…こうなってもおかしくはなかっただろう。

 身体が軽い。

「…女神を連れてすぐこの場から離れよ、御方」

 呟いて最後の一歩を踏み出し、ギャガはその場にぐしゃりと倒れた。

 沈んだ広い背中が蠢き、ついにあの背鰭が際限なく立ち上がろうする。全身を覆う青銀色の鱗が見る間にその大きさを増すのに合わせて、ギャガの輪郭が途方もなく薄れて膨張する錯覚に襲われた。

 いや。

 倒れたギャガの身体は、その姿を変えながら本当に引き伸ばされているのだ。

「いい退屈凌ぎだったろう。さぁ、天宮に戻るぞ」

 骨の砕けるような音を響かせて最早人間とは違う形になり始めたギャガを無視して、イ=レイは無感情にそう言い放った。距離で数歩。時間で一秒か二秒。白い衣を纏った男が、座り込んだままのクロウに手を伸ばす。

 その間も、クロウは見ていた。霧のように薄く引き延ばされた「存在」が膨張し、膨張し、目に見える空全てを覆い尽くすように膨れ上がり、渦巻いて、その中心にぽつりぽつりと紅色の光が瞬き始めるのを。

 見ていた。

           

「まったく、ちぇわのやけるれんちゅうにゃ」

                

   
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