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    月に吼える    
       
(14)ヴァルハラ・リポート<イジュマル=オラス>

            

 <女神と彗星>

          

       

 床に描かれた直径一メートルばかりの魔方陣。その上に寝転んだまま、ギャガはぼんやりと天井を眺めていた。

 夜が明けて目を覚まし、クラインスとアマリアにしこたま叱られて意味もなく? すまんと謝り、それでまた「なぜお前がアタシらに謝るんだよ」と魔女に散々文句を言い散らかされつつ予備の拘束服を着せられて放置されたのが、数時間前。それからまた少し寝て起きてみれば、ダメになった装備を回復するのだと言って、アマリアもクラインスも出掛けていた。

 ブライバンとラティエが隣室に居るらしい事は、微かに漏れてくる声と気配で判ったが、何をしているのかとは思わなかった。彼ら全員に迷惑をかけているというのだけは認識していたけれど、それについて何か言おうものなら、またアマリアに罵倒し倒されそうな気がする。

 だからギャガは何も言わず、ただ魔方陣の中央に寝転び、普段よりも拘束の緩い装備に心許なさを感じながら時の過ぎるのを待っていた。

 予備の拘束服には直接結束魔法が描かれているだけで、あの厳しいベルトも金具もリベットも取り付けるジャックがない。この生成り色の布製装備は、こういった不測の事態を想定してアマリアが持ち歩いているもので、要は素っ裸で居なくて済む程度の気休めでしかない。

「……ミイラ男みたいね」

 ふと、それまで黙ってベッドに座っていたクロウが、溜め息と苦笑交じりに呟く。荒く編んだ麻布のプルオーバーに細身のズボン。その上から全身に巻き付けられた幅広の帯には淡い桜色の呪文が浮き、両肩、両肘、両手首、両手の甲、心臓、みおぞち、両膝と両足の甲には、真紅の封蝋が燃えている。

 全体に希薄な色彩の中で、薄い唇が苦笑に歪んだ。言われてみればそうだと思ったのか、それとも、それより囚人みたいだ、と言いそうになった自分が…可笑しかったのか。

 生き残っていたアイパッチだけがギャガの顔に暗闇を落とす。青白い肌に艶の死んだ白髪。それにこの白尽くめ? なのだから、普段は気にならないアイパッチが浮いて見えても、致し方ない。

「色が違うだけで、普段と大差ない」

 仕方ないので当たり障りなく答えて、また苦笑いが濃くなる。なんにせよ、ギャガの纏うのは「拘束服」でしかない。

 床に広がる白髪に視線を据えていたクロウが、不意にベッドから離れて部屋を出て行く。それを目で追いもせずごろりと横たわったギャガが、投げ出した自分の指先を見つめてから、溜め息をひとつ吐いた。

 情けない。

 苛立ちそうになる。

 なんとか抑えようとする。

 こころの中で八つの首を擡げる、あの大蛇。

「………………」

 自嘲めいた呟きでも漏らせれば少しは気分が晴れるかと思ってみたが、気持ちが言葉に変換されない。原因はなんだろうか。指先を動かすのも億劫な程疲れ切って重い身体なのか、それとも、所詮破壊するだけの「自分」なのか。

 結局。

 目を背けようとしても事実は事実として残り、あの…「メドーサ」だった少女も青年も、ゴルゴン・ギャガという自分に破壊された。

 例えばその姿が、八つの首を持つ大蛇であったとしても。

 ひとりきりの室内に、沈黙が降りる。

 イヤになる。

 あの大蛇を封じ込めたこころの表面に張った薄氷が砕けないように、何もかも、何も、感じていないと言い聞かせる。

 疲れたなと、ギャガは失笑混じりの溜め息を吐いた。

 うとうとと、眠く、なる…。

 と。

 冷やりとした何かが頬に押し当てられ、ギャガはぎょっとして瞼を上げた。いつの間に目を閉じていたのか、記憶が定かでない。

「あ。驚いた」

 小さく笑う声が頭上から振ってきたのに、男は面倒そうに首をそちらへ向けた。色の薄い瞳から注がれる視線を遮った円形の容器に、思わず訝しそうな顔つきになってしまう。

「食べる?」

 横たわったミイラ男の傍らに膝を抱えてしゃがみ込んでいたクロウが、円形の容器をふらふらと振って小首を傾げた。いつ戻って来たのか、と自分の腑抜けさに嘆息しつつもギャガが、のそりと身を起こし魔方陣の中央にあぐらをかいて座る。

 だるいな。と思う。

「いらん」

 ぶっきらぼうに答えながら、冷えた感触の残る頬に手を当て首を横に振る。クロウが顔の前に翳しているのは何の変哲もない普通のアイスクリームで、彼女はこれが…好きなのだ。

「じゃぁ、こっち」

 自分の膝に手を突いて立ち上がる間際、クロウはアイスクリームと反対の手に隠していた黒いボトルをことりとギャガの膝元に置いた。ラベルも何もない無愛想なボトルに詰められているのが「イルギル」だと微かな香りだけで知ったギャガが、今度はそれを手に取り、栓を抜いて細ったガラスを唇に載せる。

 焼け付くような灼熱感を飲み下し、これが身体のどこで何になるのかと思って、また少し笑いたくなった。これは、何にもならない。どこへも行かない。ただ蒸発し、何もなくなるだけだ。

 空腹を満たしもせず。

 血液に混じってほろ酔いの夢を見せる訳でもなく。

 ただ飲み下され。

 ただなくなる。

 何も。

「ねぇ?」

 行儀悪くスプーンをくわえたままのクロウが、ふと沈んだ声で囁いた。

「……なんだ」

 ガラスの唇と触れ合ったままのギャガが、驚くほど不機嫌そうに短く答える。疲れているのか本当に不機嫌なのか判らないクロウが微かに目を見張ると、ギャガはやっとボトルを唇から離して床に置き、改めて彼女に「なんだ?」と………。

 表層に現れた不機嫌を隠すように、低い静かな声で淡々と問い直した。

 それでクロウは言葉に詰まった。何度も後悔したはずなのに、またそうなのかと思う。

 そのひとはいつでも様々な「もの」に拘束されている。全身を締め上げるあの不吉な衣装がなくなっても、それは少しも変わらない。

 薄い斜のカーテンを揺らして、寒々しい風が室内に吹き込んだ。

 肌を舐める冷えた微風に、クロウが晒した腕を震わせる。「メドーサ」に捕えられた痕が生々しい痣となって残った白い肌には他に、意識していなかった小さな傷が無数に付いていて、泥と血と汚れを拭ってもまだ何かむず痒いような気がした。

 小さな熱が、刹那で冷める。

 全ての傷が凍り付き、そのまま消えずに残る。

 でも本当は。

 永年美しくある事を義務付けられた「女神」の肌に、小さな傷のひとつも残る訳はない。今はちくちくと刺すような、でも無視出来る痛みでその存在を主張する「穢れ」は、数日で綺麗に消えるだろう。

 ギャガは、永年消えない鱗に悩まされ、永年解けない数多の拘束に苦しみ、こうやって、「死んで」行こうとするのに。

 殺そうとするのに。

 黙り込んでしまったクロウに不審げな顔をして見せたものの、ギャガはそれ以上何も訊いてはくれなかった。それが彼の優しさなのか、残酷さなのか、もしかしたら彼女に関心などない現れなのか突き詰める前に、逃げ出すように、クロウが半ば溶けたアイスクリームをそのままテーブルに置いた。

「…何か、無駄で意味のない事を言いたいのよ…。そうしなくちゃって、脅迫されてるみたいに思う…」

「なら」

 そう呟いてしまったギャガが、微かに眉を寄せる。

「何か言えばいい」

 抑揚に欠けた静かな声に淡々と呟き返されて、クロウは苦笑する代わりに短い溜め息を吐いた。

「何を?」

「………」

「どうして?」

「………」

「なんで」

 理不尽な問いかけにも、ギャガは顔色ひとつ変えない。

「戻ってきたのよ」

         

 食い潰してくれればよかったのに。叩き壊してくれればよかったのに。何もかもを飲み下し、何もなかった事にしてくれればよかったのに。

          

 この身に燻る、裏切りさえも。

        

 何を言いたいのか、何がしたいのか、正直クロウにもよく判らなかった。ただ意味もなく自分に対する不満だけがこころの中で膨れ上がり、苛立っている。

 意味もなく。

 膝の上で握り締めたクロウの指先から、表面に水滴を浮かせたアイスクリームの容器へと視線を移したギャガが、珍しく感情も露な溜め息を吐き出す。それは怒っているともなんともつかなかったが、なぜかクロウには、聞き分けのない子供をたしなめる前に大人の漏らす諦めに似て聞えた。

 譲歩するのではなく、なぜ判らないのか、と言い聞かせるような、そんな溜め息。

 腹は立たなかった。これで相手がクラインスだったら猛然と言い返せるのに、目の前に居るのがギャガだというだけで、責める言葉はどこかへ消えてしまう。

 復調しない気持ち。

 まだ、何かが、引っかかっている。

 溜め息でクロウの苛立ちを均し、燃えるような真紅の火酒で苦い想いを飲み下したギャガが、またその場にばたりと寝転ぶ。その、まるでクロウになど無関心な行動に何を思ったのか、彼女は溜め息も吐かず、微かな衣擦れの音だけを伴って立ち上がり部屋を出て行こうとした。

「……………」

 俯きもせず、寝転んだギャガの横を背筋を伸ばして行き過ぎようとする、クロウ。全身に散らばる傷と打撲に障るのか、ラフなシャツにさらさらした布地のゆったりした衣装を纏った彼女が無言でドアノブに手を置く。

「…………………判った」

 本当は、判っている、と言うべきか…。

 汚れた床に寝転んだギャガが、顔の前に腕を翳しながら溜め息みたいに呟いた。

「クライ=ファング。お前に言っておく事がある」

 呼び止められて背筋を震わせたクロウが、ゆっくりとギャガを振り返る。

「訊いておきたい事もある」

 翳した腕の作る陰影の奥で、あの、透明な蒼い瞳が微かに紅色の光を放った。

「だが、その前にしなければならない儀式がある」

 ギャガは起き上がろうともせずに両腕を伸ばし、もう一度、「クライ=ファング」とクロウを呼び直した。

「今ここであの青年の死を悼み泣いてやる事が出来るのは、お前だけじゃないのか」

 芯と厚みはあるが抑揚に欠ける声が呟き、クロウは、自分の中で燻る意味のない苛立ちと答えのない質問の群れが何だったのか、やっと判った。

 なくしてしまったもの。

 消えてしまったもの。

 破壊されたもの。

 残ったもの。

 オロ・シルリィという青年の、屈託ない明るい笑顔を思い出した。ひょろついた背の高い青年。わざとらしいくしゃくしゃの癖っ毛。軽薄そうに相好を崩し底のない笑顔を振り撒いて、他人の話など少しも聴かないで好き勝手に喋る、剣のひとつもろくに扱えない、正真証明の駆け出しハンガー。

「あたしのせいだ…」

 呟いてギャガに向き直ったクロウが、閉ざされたままのドアに背中を押し付けて俯く。

「…みんな、あたしの…せい…」

 確かめるような自分の声を耳にした途端、膝が笑い出す。立っていられない。全身がぎちぎちと痛み、何かに縋っていないと無様に倒れてしまいそうだった。

「あたしが…」

「出会わなければよかった。助けなければよかった。冷たくしなければよかった。

……過去は、取り戻せない」

 悔恨の滲む疲れた呟きに、クロウは足下に落としていた視線を振り上げた。

 何かを掴むように天を突く、指先までも麻布で巻かれた手。しかしそれは何にも触れる事なく空を切り、地に沈むように引き戻されていく。

「葬列の代わりに泣いてやれ。あの青年が、お前に遺したものがあるなら」

 シルリィがクロウに遺したものは、なんなのか。

 ギャガに遺したものは、なんなのか…。

 ドアを肘で突き放して離れたクロウが、結束魔方陣を背にしたギャガの傍らまで進み、透明な蒼い隻眼を上空から見下ろす。

「……大切なことをひとつ、思いださせてくれたわ」

 その独白めいた呟きに答える代わりにギャガは、恐る恐る差し出されたクロウの手を取り、握り締め、引き寄せた。

 膝から頽れるように倒れ込んできたクロウを拘束された腕で抱き締め、本当にこれでいいのかどうかと男は刹那迷ったが、艶めいた橙色の髪が床に流れるのを見つめ、しがみ付いて来るのではなく固く握り締められた拳が「こころ」を縛る封蝋の上に置かれたのを目にして、その迷いもすぐに消えた。

 戸惑ってばかり。

 自分では何も決めずに。

 あの少女は。

 オロ・シルリィという青年は。

 その最期を「不幸」に閉じたかもしれないが、そこに至るまでに選択した道筋には後悔しなかったと思いたい。

 例えばその選択が過ちへ、過ちへと突き進んでいたとしても、「その時」彼らは自らの望む方向へと自分を導いたはずだ。

 流れるように漂ったのではなく。

 堪え切れずに漏れる嗚咽を抱き締めて、ギャガは逆さまの窓を見上げた。晴天を流れる雲は白い輪郭を滲ませるように薄く、いつか、千路に乱れて夜の闇に染まる事なく消えるだろう。

 それもまた有りなのかもしれないと男は、凍えたこころで思った。

        

2004/02/17 goro

                

   
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