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    嘘吐きは悪党のはじまり    
       
1.スタンス

   

 世の中には、必ずと言っていいほどツイていない人間というのがいる。

 例えば…。

 太陽が、赤紫色の残光を遙か遠く望む山脈の尾根に残す夕暮れ。前を歩く旅人。街道から小さな町へ入り、ぽつりぽつりと見える宿の看板を考えあぐねるように見回しながら、ゆっくりと大通りを進む。明るくて気分のいい宿を取りたいなら日暮れ前にはチェック・インを済ませなければいけない、というのが世間一般の常識だが、どうもこの旅人、通りに面した安全で清潔そうな宿を、この時間になって探しているらしい。もちろん、薄暗い裏通りにも宿はあるが、大抵そんな場所にはトラブルが転がっているモノだから、避けて通りたい気分は判らないでもない、と旅人の背中を見つめながら、「男」が小さな溜め息を吐く。

 不意に、足を止める旅人。意を決したように一人うなずき、見上げていた、青いタイルの看板を掲げた適当な大きさの宿に、すいっと入り込んで行く。……しばらく待っても、出て来る気配はない。

 では、自分もその幸運にあやかろう、と「男」は、旅人を追いかけるように、その宿に足を踏み入れる。

 夕食時。宿の一階殆どを占める食堂を見回してようやっと見つけた主人は、少し申し訳なさそうな表情をしつつハゲ頭をつるりと撫で、今晩は先のお客で満室でさぁ、と苦笑い。

 しかし「男」は、何とか、物置でもいいから、と食い下がる。

 主人はもったい付けるように唸りながら、じろじろと無遠慮に「男」を値踏みし、うん、と小さくうなずいた。

「……相部屋でも構わねぇってんでしたら、ない事もないんですがねぇ」

 なんだ、幸運じゃないか、と「男」。

 人の命すら金貨で買えるとまで言われるこのご時世に、見知らぬ旅人との相部屋がそうそう幸運だとは言い切れないが、ざっと見たところ、家族連れはないまでも特別人相の悪い客がいるでもなし、大通り沿いの、小ぶりだが中堅宿らしいここの印象から、さしたる不安は感じない。

 それでもわざと少し考え込んでみせてから、「男」は気弱そうにこくりとうなずいた。

「じゃぁ、先のお客に掛け合ってみまさぁ。兄さんは、飯でも食いながら待ってておくんなさい」

 最後の二人部屋もぴっちり埋まって満員御礼。主人は上機嫌で「男」を見上げて、思い出したようにこう付け加えた。

「おっとそれから、こいつぁあ忠告ですがね、お若いの。相手は女だが、妙な気は起こさねぇ方がいい…」

 背の高い青年の胸を肩で小突き、主人が足早に二階へ駆け上がっていく。

 ……。なんだ、全然幸運じゃないか。

 主人の少々意味ありげな笑いが気にはなるが、「男」はその時、なんとなく幸運な気分を味わっていた。

 一人の「女」が、食堂に現れるまでは。

 周囲から注がれる、好奇と哀れみの視線、に気付くまでは……。

  

  

「あんたなの? あたしと相部屋になるって不運な男は」

 突然背後から掛けられた声に振り返った「男」は、その「女」の姿を目にした途端、体感温度が百度は下がったような気がして、ぎょっとその場に凍りついた。

 声の主は、いかにも不機嫌そうな表情でその「男」を物色し、いかにも面白くなさそうにふんと鼻を鳴らした。

「とにかく、交渉の場所を変えましょうよ。デリカシーのない出歯亀オヤジどものど真ん中じゃ、ゆっくり話も出来やしないわ。……いつまでもボケ面さらしてないで、ついてきなさいよ」

 軽く顎をしゃくって「男」を促し、「女」が大股で歩き出す。

 「男」は、先刻までの幸運な気分も一瞬にして吹っ飛び、呆然と「女」の背中を見つめているしか出来なかった。

 背は高い。立ち上がってみると、百八十八センチの「男」と恐ろしいほど釣り合いがとれているあたり、百七十センチは確実にあるだろう、すらりとしたスタイル。ただ、中央山脈辺りに住んでいる、ビッグマウスと名付けられた山岳少数民族ばりの分厚い毛皮のベストに、ただ鞣しただけの獣の皮のスカートを幾重にも腰に巻き付け、ぼろぼろのブーツを履いているせいで、その全体像は見て取れない。

 しかし「男」がここまで驚愕した理由は、そんな格好のせいではなかった。

 腰付近まで長い緩やかなウエーブの髪は、真夏の夕暮れ、太陽が一番美しく輝く時間に一瞬だけしか見せてくれない、鮮やなピンクゴールド。耳にした声は、口調の乱暴さも帳消しにしたくなるような、澄み切った清流の涼やかさ。振り返り始めに目にしたのは、新雪よりも滑らかで木目細かく、染みも皺もない純白の肌。口角の引き締まった形のいい唇は艶のあるラズベリー・レッド、すっきりと通った鼻梁、やや伏せられたような長い睫、強烈な印象の瞳は深海のグランブルー、気の強そうなりりしい眉、そのすべてを納めるのは整った輪郭。どれを取っても文句ナシ、美人の条件上限一杯。

 だが、それは原型を留めている左半顔だけのこと。

 彼女の右半顔は醜く焼け爛れ、目を背けたくなるような姿をさらけ出していた。

 髪の生え際から喉元にかけてどす黒い火傷痕がべったりと貼り付き、眉も睫も抜け落ちて、瞼もろくろく上がっていない。おまけに、唇の一部が完全に癒着して奇妙に引きつれ、言葉尻の特定の発音はひどくくぐもって聞き取りにくかった。

 絶妙な、醜悪のバランス。

 立ち上がっただけで一向についてくる気配を見せない「男」に業を煮やしたのか、「女」が再度彼を振り返った。

「…野宿の方がまだマシだって言うなら、速いトコあの守銭奴にそう伝えなさいよね。その方が、こっちだってせいせいするわ」

 「女」は嘲笑うように吐き捨て、じろりと、生きている左目だけで「男」を睨んだ。

 絶妙な……バランス。

 「男」は足下に放り出していた荷物を取り上げ、不承不承彼女に付いて歩き出した。

 酔客達を掻き分けてようやっとついてきた「男」をちらりと見遣り、「女」がわざとらしい溜め息を吐く。

(なんだってあたしが、あんな情けない色男と相部屋になんかならなくちゃないのよ、まったく)

 二階の客室へ続く階段下の一角に空きテーブルを見つけた「女」は、ことさら乱暴に椅子を蹴飛ばしてずらし、背もたれに身体を叩きつけて座ると、絡みついた髪を苛々掻きむしった。

 色男、と思った事に嘘はない。あまり旅人向きとは思えないキャメルのロングコートと、黒色に派手な銀糸の刺繍入りシャツを素肌に直に着ているが、その妙な取り合わせが似合っている気がするから不思議。劇場辺りで色目を使っている二枚目役者よりも端正な男臭い顔立ちに、誰彼構わず惹きつけてしまうような灰色がかった緑の瞳、少々皮肉っぽい印象を受ける薄い唇。背中の中程まで垂らした髪は金色に透ける淡いブラウンで、前髪は適当に撫でつけてあり、時折、幾筋かがはらりと顔に落ち掛かってくる。それをうざったそうに掻きあげる白くて優雅で細い指先は、男にしておくのがもったいない程キレイだった。

(ただ…なんか、どっか変なのよね)

 正面にしゃっちょこばって座った「男」の顔をまじまじと見つめていた「女」が、不意にげたげたと笑い出した。

(あぁ、なぁんだ。あの眉のせいね)

 先刻からずっと困ったように寄せられたままの、決して太くはない眉。それが、妙に情けない感じを全体に与えていた。

 気の弱そうな、育ちの良さそうな、そんなカンジ。

「ねぇ、アンタさ。あたしと相部屋で一晩過ごす勇気があるなら、大通りに出てガラの悪い酒場かなんか当たった方がいいんじゃないの? あんたなら、こっそり客を引いてる酒場女か、いい男を物色してるその辺りの女たちが、喜んでベッドを提供してくれるでしょうからね」

 テーブルに片肘をついた「女」が、引きつれた唇を歪めてにやにやと笑った。

「天国付きで」

(まぁ悪くはないが、今はそれどころじゃないんでね)

 「男」は心の中でだけそう相づちを打ち、はぁ、と情けない笑いで生返事した。

 そこに丁度良く、宿の主人がバーボンを満たしたグラスを二つ持って、ひょこひょこと現れる。

「こいつはアタシの奢りでさぁ、お二人さん。今夜一晩仲良く頼みますよ」

 主人はそう言うと「男」の肩を一つ叩いて、へらへら笑いと気まずい沈黙を残しさっさっと退散してしまった。

 「女」が不意に不機嫌そうな顔に戻る。グラスをひっ掴み、仰向けになって一気にバーボンを喉に流し込んでから、唇の端から流れ零れた茶色の液体を、ぐいっと手の甲で拭う。

「よく言うわ、あの強欲オヤジ…」

 「女」は、濡れたその手を自分のベストにごしごしとなすりつけた。

「ふん。あんたの天国なんてあたしの知ったこっちゃないからね、どこで誰と寝ようが起きようが関係ないけど」

 「男」は、「女」のあまりにも粗雑な様子に目を剥き、慌てて俯いて……。

 嗤った。

「あたしは明日の朝早くにここを出るわ。自分の部屋代はもう払い込んであるから、後はあんた勝手にしなさいよ」

 彼女の手の中で弄ばれるグラスを盗み見ながら、「男」は小さく溜め息を吐いた。

(綺麗な手だな。……お淑やかにでもしててくれりゃぁ、正直好みのタイプだ。それとあの、火傷痕………)

 「男」が、ふと顔を上げる。

「袖振り合うも他生の縁と言いますし、よろしければ、お名前を教えて頂けませんか?」

 退屈そうに生あくびを噛み殺していた「女」が、一瞬惚けたような表情をしてから、はっと「男」に顔を向けた。

 声。囁くように静かな、低い、心地のいい声。

「…生憎だけど、自分の名前も言わないような失礼な男に見せる誠意なんて、持ち合わせてないのよ、あたし」

 たった一言発せられただけの声に聞き惚れた自分が気に障ったのか、「女」は一層不機嫌に吐き捨てて、彼から目を逸らし立ち上がった。

「これは失礼。わたしは、シュアラスタ・ジェイフォード」

 シュアラスタがそう言いつつテーブルの上で手を組み合わせ、「女」の横顔をそっと上目遣いで見る。

「チェス・ピッケル・ヘルガスター」

(俺は、大陸一の美人だって聴いて来たんだぜ)

 静かに、シュアラスタが微笑む。

「……部屋は二階の東側、廊下の突き当たりよ」

 チェスは憮然と言い放ち、一度もシュアラスタに向き直る事なく、相変わらず不機嫌そうに大股で引き上げていった。

  

   
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