■ 前へ戻る   ■ 次へ進む

      
   
    占者の街    
       
第六章 占者の街 悪党の場合(7)

   

「ミィディイアァァァ!」

「きゃー」

 館の暗い入り口から放たれた怒声に、ミディアは悲鳴を上げてハルパスの背中に隠れた。

「ななな、何よ! 気安く名前呼ぶんじゃないわよぉ!」

「…迫力に欠けるな、その状態で気概を見せても」

 しっかりハルパスのインバネスを掴んだまま、ミディアは前庭に駆け込んで来たチェスをびくびくと睨んだ。

 全身血まみれで左腕を負傷。それ意外は目立った怪我もないが、細い眉を殊更吊り上げて肩を怒らせた姿は、容姿の整った白皙と相俟って、恐ろしいほど迫力がある。

「後で覚えてらっしゃい!」

 言い捨てたチェスは、手にしていた弾丸の込められていないシュアラスタの銃を、とっ捕まえてハルパスの後ろから引っ張り出したミディアの手に押し込んだ。

 そして、チェスが荒々しく髪を翻して館を振り返った途端、そこから、ゆらりとシュアラスタが姿を見せる。

「うわ……ぁー。サイアク」

 何かとてつもなく恐ろしいものでも見るような顔つきで、ルイードが呟く。

 シュアラスタは、殆ど泥酔状態に見えた。血溜まりと死体の転がる前庭を見回すのは、光彩の滲んだ瞳。数段ある平たい階段をふらふらと降りながら、眩しそうに瞬きを繰り返す。その左手には、顔中殴られて人相も定かでないギャレイ(らしき巨体の女…)の髪を掴んで、引きずっていた。

「…シュアラスタちんはぁ、どーしちゃったのん?」

 ただ事ではないと感じてはいるのか、シャオリーが傍らのヌッフに、暢気に、訊いた。

「説明は後だ。とにかく今は、にーさんの気に触るような事だけはすんな」

 引きつった顔でヌッフが言い置いた途端、シュアラスタが顔を上げた。

 死体。ごろごろと、真っ赤な絵の具の中に転がった、マネキン。その真ん中に、真紅のコートが佇んでいる。

「? あぁ…。邪魔、だな」

 ふと、シュアラスタが視線をギャレイに落とした。

 赤いコート。名前がある。判っている。そこまで行って、とりあえず抱き締めて、それからの事は後で考えるとして、抱き締めるなら、これは、邪魔なのだ。

 一旦ぐしゃりと顔面から地面に叩き付けたギャレイを、うつ伏せのまま髪を掴んで引き起こす。最上階から引きずってこられた赤いドレスの、前の部分が殆ど破れて血にまみれていた。途中意識を取り戻し、何度か逃亡を図ろうと暴れたせいで散々殴りつけられたのだろう、限界まで張れ上がった瞼はもうぴくともしない。

 それでもギャレイは、最後の力を振り絞って地面を掴み、悲鳴を上げながら首を左右に激しく振り回した。

「邪魔」

 一瞬だった。

 もしかしたら、シュアラスタが軽くギャレイの回りを一周したようにしか見えなかったかもしれない。

 血に塗れたブルネットを引き起こし、ギャレイの首を軸に背後に回る。仰け反ってか細い悲鳴を上げ続けるのに微か眉を寄せ、靴裏を背骨の真ん中よりやや首に近い部分に押し当てて、伸ばした右手であっさりと、その頭部を…。

 バキン! と鈍い音と伴に、真後ろにへし折った。

 悲鳴が途絶える。

 ギャレイは腕を突っ張って逃げ出そうとしていた状態から、べしゃりと地面に崩れた。逃げようとする力。それに軽くカウンターを当てて間接に負荷をかける、殆ど犠牲者の力の作用だけで骨を外す、へし折る、引き千切る…。例えば武装した相手にも有効な間接技を数多操る…シュアラスタ。

 どこで、いつ、覚えたのか。

 動かなくなったギャレイをその場に置いて、シュアラスタはくすくす笑いながらまた歩き出した。殆ど地面から離れない爪先が血でぬかるんだ泥を抉ったが、誰にも、それを咎めている余裕はない。

「……思い出せないんじゃない」

 微かに呟く、シュアラスタ。チェスは、ふと首を傾げた。

「お前は、どれだ?」

 笑うのをやめ、今にも死にそうな青い顔でチェスを見つめたシュアラスタは、彼女の眼前で立ち止まり、その、腕を伸ばした。

「…………か? それとも…………」

 ラズベリーの唇が、誰にも聞こえなかった囁きを耳にして、薄っすらと笑う。

      

     

 血溜まりの幻想は、幾つもあった。

 最初は男だった。金貨の袋、手に余る拳銃、弾丸を一掴み。それを少年に握らせて幸せそうに微笑み、呟いた。

「先に逝く。天国で会おう」

         

 間に合わなかった。

        

 次は女だった。寝乱れたベッドに点在する腕、足、胴体、頭…。やさしげに微笑む、唇。ベッドは彼女の血でべったりと濡れていた。

 最後の言葉を、彼は聞く事が出来なかった。

        

 間に合わなかった。

      

 その次はまた男。吹っ飛んだ自分の膝から下を見つめ、それからその視線を青年に移し、痛みなど感じていないような平然とした顔で笑った。

「気が、済んだか?」

        

 間に合わなかった。

         

 泣いたし、怒ったし、絶望したが、悲しまなかった。

       

「否定するべきじゃない。俺は判ってる。その瞬間は後悔したかもしれない。定かじゃない。もしもあの時「彼」が死ななかったら。今も「あの女性」が生きていたら。「あいつ」と俺がまだコンビだったら。夢を見るのは自由だが、俺はそれを望んでなんかいない。大陸があの独裁政治から逃れていなかったら、今悪人と言われて命を粗末にしてる連中も、悪党と蔑まれて薄暗い路地にさえその存在を許されていない連中も、もっと普通に生きていただろうか。俺は何を言ってる? でも結局裏を返せば何も変わりない。誰がどんな形でてっぺんに居座っていても、普通の人生を送ってる連中は、ささやかな幸せを護るために他人の不幸の上に胡座をかいているだけだ。死んで悲しんで貰えるヤツこそが幸せなのであって、生き残って悲しむヤツは愚かな偽善者だとしか思えない。俺は何を言ってる? 歴史は無かった事に出来ない。過去は忘れる事が出来る。でも、無かった事には出来ない。俺は何を言ってる? 大切な日記にどこかのガキが落書きしてしまったようなモンだ。記された文字は消せるが、落書きしてしまった事実は消せない。俺は何を言ってる? 叱られて泣いた記憶も残る。俺は何を言ってる? 繰り返すまいと臆病になる。だから結局何も無かったと信じることは出来るが、それは都合のいい自己暗示であって、本当は何も解決しない。俺は何を言ってる? 記憶をクリアする事が出来るなら……

         

       

 狂うか、死ぬか、方法は、幾らでもある」

         

        

「あたしは、許さないわ」

  

   
 ■ 前へ戻る   ■ 次へ進む