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    占者の街    
       
第六章 占者の街 悪党の場合(8)

   

 ぶつぶつと口の中で呟いていたシュアラスタの頭の中で、鮮血の記憶ががらがらと音を立てて瓦解した。ばらばらの時間、ばらばらの場所、本当は同時に起こり得なかった事柄がいっしょくたに渦巻き、それを繋ぎ合わせる透明で密度の高いねばついた液体が、唯一その記憶の中ではっきりと姿形を保っていた真紅のコート、ピンクゴールドの髪、グランブルーの瞳を持つそのヒトの、ラズベリーの唇から滑り出した冷たい声で凍り付き、一瞬で、粉砕される。

 残ったのは、歪んだ風景、累々とした屍の只中に佇む、血だらけの、女。

「あたしは許さないわ。自分の過去を冒涜する事も、それから逃げ出す事も、許さない。狂うか、死ぬか。それを望んでるなら、あんた…」

         

        

 魅惑の微笑み。暗く翳ったグランブルーの瞳。

          

       

「あたしを殺して何もなかった事にしろって、そう、いつも言うじゃない」

       

         

 完全にシュアラスタの間合いだった。軽く伸ばした腕、その指先が、チェスの顎に触れている。

 二人の間で張り詰めた空気。首筋に剣を突き付けられていてももっと気楽だわ、と瞬きさえ忘れてシュアラスタを見つめているチェスが内心嘆息した刹那、微かに触れているだけだったシュアラスタの指先が、彼女の顎を、掠った。

 反射的に首を後ろに引き、それをやり過ごす。のと同時に、チェスは折り曲げた左の肘を顔の横に撥ね上げ、歯を食いしばった。

 高速で旋廻したシュアラスタの右足から間近で繰り出された、後ろ回し蹴り。身を低くして腰を据えたチェスは、なんとかそれを腕で停めたものの、逃がしきれなかった反動を食らった左半身の骨が悲鳴を上げる。それを無視して開いた胴体に右の拳で襲い掛かろうとするが、ニ撃目の拳、既に準備されていた上腕への叩き下ろしが空を切って迫るのを感じ咄嗟に掌を開くと、シュアラスタのシャツを掴み引き寄せながら、体当り。

 した途端、怪しげな香の、紙巻煙草の、硝煙と火薬の香りが、ふわりとチェスを…抱き締めた。

(し! ししししし、しまった!)

「はははははは!」

「ちょっと…バカ! なにやってんのよ!」

 観客どもが、唖然とする。

 間合いが近過ぎれば懐に突っ込んでくるのはセオリーなのだ。意識があろうがなかろうが、それだけは絶対に予想出来る。そして別に、シュアラスタは本当にチェスを殺そうとしたのではなく、つまり、こういう事だったのだから…。

 殆ど覆い被さるようにチェスを懐に抱き込んで、シュアラスタはご満悦だった。上腕に叩き下ろし、と思われた掌底はそのまま自然に背中に回り、シュアラスタのシャツを掴んだチェスの手首を、開いた手がしっかり掴んでいる。

「いっ!」

 いきなり、ガッ! と踵を蹴り払われて、チェスはシュアラスタにしがみ付いた。

 相変わらず、シュアラスタは下手くそな鼻歌を歌っている。ゴキゲンだ。文句ナシに顔はいい、頭も悪くない(…精一杯の強がりとしてそう言っておく)、他人に出来て自分に出来ない訳がないと豪語し、その通りなんでもソツなくこなす。そんなシュアラスタの唯一の欠点といえば、とにかく、「音感」が悪い事くらいだろう。

 頭のキレる人間ほど、芸術的才能に恵まれないモノなのだ。もしもそれを両立出来ているとするならば、それは間違い無く「テンサイとなんとかはカミヒトエ」。

「頼むからっ、お願いだから! 変な気起こさないでよ!」

 なかなか悩ましいセリフの懇願だな、と、暢気に腕を組んでシュアラスタとチェスを見遣りつつ、ヌッフが呆れたように肩を竦める。

「いや…、なんとなくよ、判った気がしねぇか? ルイ」

「あー。あの、前回の痣とキスマークでしょ? バスター・ヘルガスターの」

 ヌッフに並んでぽかんとしていたルイードも、かくかく操り人形みたいに頷いた。

「!!!!!!!!!!」

 もがくチェスの何が気に入らなかったのか、シュアラスタは彼女の右手首を背後に捻り上げ、そのまま赤いコートの背中に回していた方の手で掴んだ。

「わお。人体パズルみたいになっちゃいそうー」

 わざと愕き顔を作ってから、シャオリーが、けけけ、と笑う。

「でも、ラブラブじゃーん」

「痛いってば! もう! いい加減放しなさいよ!」

「いや」

 府抜けたシュアラスタの声に、チェスがますます眉を吊り上げる。右腕は完全に捻り上げて極められ、足場を固めようにも少し動けば脛か膝か踵かを蹴り払われ、全身のバランスが微妙に不安定で、残った左手でシュアラスタのシャツを掴んでいないと、すぐ前のめりに…つまりシュアラスタの腕の中に…倒れ込みそうになる。

 ふと、チェスは顔を上げた。間近にあるシュアラスタの瞳が、彼女の顔を見下ろしていたのだ。にこにこと。

「?」

 ゴキゲンだ。……イヤになるほど。

「お前…」

「な…によ」

「どれ?」

 くす。

 質問なのかなんなのか、シュアラスタはそう呟くなり、ぎょっとしたチェスの顎を自由だった右手で掴むなり、力任せに横向かせた。

「!」

 その時のチェスは、全身に冷水を浴びせられた気分だった。「誰」でなく「何」でもなく、「どれ」。首筋に熱を持った含み笑いの唇を押し付けられても、歯を立てて噛み付かれても、全身を硬直させて、ただ答えを探すだけ。

 ない、答えを。

「…………ミディア…」

 考えに考えて、でも刹那で彼女が出した返答は、囁きだった。

 ガツン! と鈍い音が、シュアラスタの後頭部辺りで炸裂。呻きもしなければチェスを解放しもせずに、彼は懐にしっかり抱き込んだ彼女を巻き込んで、その場にぐったりと倒れた。

「重い…」

 はぁっと溜め息を…気を失ったシュアラスタの下敷きになったまま…吐いたチェスが、目だけを回して、半泣きで佇むミディアを見上げる。両手にしっかりシュアラスタの拳銃を逆さまに握り、その銃把で彼を殴りつけた(多分力いっぱい)、自称、シュアラスタの恋人。

「アンタ、いつか絶対ぶっ殺すからねっ!」

 ミディアの金切り声に、仰向けのままのチェスが思わず苦笑いする。

「今度こそ、でしょう?」

 意識の無いシュアラスタを蹴飛ばして転がし、血の滲むほど噛まれた首をさすりながら立ち上がって、チェスは乱暴にミディアからシュアラスタの銃をひったくった。

 倒れたきりのシュアラスタを、ヌッフが回収して行く。

 ハルパスはミディアを無視して、惨劇の前庭に転がった死体の数を数えはじめる。

 シャオリーとカーライルは、館の敷地外部に展開していた警備の悪党どもを解散させるために、正面アーチから出ていく。

 開かれた門。内部を覗き見た観衆が、悲鳴とも溜め息ともつかないざわめきを漏らしたのに冷ややかな視線を向け、二つに割れたその真ん中を、血まみれのルイードが平然と歩き去っていく。

 突き刺さってくる視線。注がれる嫌悪。それらを全身で受け止めて、座り込んだままレディー・ポーラ・フィルマを抱きかかえたネルの前で一度立ち止まり、チェスは…。

 これ以上無い華やかな、美しい、そしてどこか薄ら寒い笑みを浮べた。

「カスみたいな正義感、しがみついた情熱。悪党も、悪人も、みんなバカみたいだわ」

 ぎくしゃくと青ざめた顔を上げ、ネルは、何かを彼女に尋ねようとした。

「あんたも、あたしも…あいつもね」

 言い置いて、チェスは一度だけ、壊れた人形のように地面に転がっているギャレイに視線を送った。

「そんなモンで出来てるこの世も、バカみたい」

  

   
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