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バンビーナ狂詩曲 | |||
1) | |||
街、という人の集合体は、それが例えば町だとか村だとかいうもっと小さい集落だとしても、個々の思惑と利己主義とちょっとの公共精神など抱え持つ、身勝手で思い込みの激しい人間どもが支え合い慎ましやかに暮らしている場所だったから、つまり、人間が三人以上集まれば大なり小なりの騒ぎが起こって当然だ、とその時、偶然その場に居合わせてしまった男は、思った。 「……にしてもなんだな…。これでまた俺は相棒にバカ呼ばわりされんのか? あんたがひとりで出歩くとろくな事がないとかなんとか言われて、笑われて? ……すぐに想像出来てハラ立つな…」 ひとりごち、壁に背中を預けベンチシートに座っている自分には注意も向けてくれない周囲の連中を目だけでうっそり見回した男が、溜め息と少し甘い香りの紫煙を薄い唇から吐き出す。 状況は。 唇を噛んで目を潤ませ走り込んで来た、少女? 女、と分別するには少し若過ぎるが、まるっきり少女と呼ぶにはちょっと育ち過ぎな感もあるから、とりあえず娘か。身なりはいい。もしかしたら、良過ぎるくらいに。艶のあるショートボブは明るい栗色で、ぱっちりした目は琥珀色。小さめの唇も愛らしい、いかにもな「お嬢さん」。 その娘が、部屋に飛び込んで来るなり男の真正面に口を開けている大窓の枠によじ登って外へ身を乗り出し、円筒形の建物外周に回された手摺に凭れるようにして、よよと泣き崩れたのだ。 出来の悪いメロドラマみたいな感じで。 男はそれを目に、一秒だけ呆気に取られる。 で。 直後なぜか、十把ひとからげと悪評高い無能保安官どもが大挙して部屋に雪崩れ込み、瞬く間に入り口を封鎖。罠に負い込んだうさぎをとっ捕まえようか、という見え透いた愛想笑でその娘の説得に入ってから、すでに半刻近く。 それで。 この部屋、アキューズ領主区アイル・ノア統治庁舎最上階にある展望フロアで下界を眺めつつ優雅に煙草など吸っていただけの通りすがりは、見事その騒ぎに巻き込まれてしまったのだ。運悪く…。 ……まぁ。ウィーク・デイの昼間から街を一望出来る場所で暢気にくつろいでいる方も、悪いのだろうが…。 (そんで何か? つまりだ…) 「お父様なんて大っキライ!」 あれから何十回目かの「お父様なんて大っキライ」を聞き終えて、さっきから無視されまくりの男が最後の溜め息を吐く。 「あたくしの話に耳を傾けてもくださらない! 一方的に、ウイリーとの交際を認めないと…急に言い出すお父様なんて、大っキライ! お父様は…お父様は! あたくしの事なんてちっとも判ってらっしゃらないのだわっ!」 (そういう理由でこっから飛び降りてやるって騒いでんのか? この…お嬢さんは…) 「あほらし…」 事をかいつまんで…いや、かいつまんでもクソも無いような気もするが、つまり、だ。男が平和な休息を取っていた室内に飛び込んで来た年頃の娘は、ボーイフレンドとの交際を父親に反対されたのに抗議して、地上五階建ての統治庁舎最上階から飛び降りてやると……息巻いているのだ。 半泣きで。 「うん、平和な街だな。呆れて溜め息も出ねぇ。つうか、すっからかんに出終わった感もある」 ぐすぐすと鼻を鳴らして同じセリフを延々繰り返す娘は、男がやる気なく座っている壁際ベンチの真正面に居るらしかったが、黒山の人だかり、というか、むさ苦しい保安官の集団に邪魔されて、男の方から娘の姿は見えなかった。 「ニコル、そんな…軽はずみな事を言うものではないよ!」 先頭の保安官か何か(これも男からは姿が確認出来ない)が、ここに来てなだめすかすのをやめ、語気荒く娘を叱りつける。それでふるふると肩を震わせた娘が泣きながら室内に戻って、このとんでもなく退屈な騒ぎ…にさえならないどうでもいい些細でばかげた三文芝居以下の見世物…は終わる、と男が安堵に口の端を歪めた、刹那、 「軽はずみですって! わたくしのどの辺りが軽はずみなのか、わたくしに納得出来るようはっきりおっしゃってくださいませんか?! タリスにーさま!」 娘が怒り出し、 「…面白ぇ…」 男の笑いが、趣を変えた。 「初恋でしたのよ! 一世一代の恋でしたの、わたくしにとっては! 何事にも誠意を持って真剣に取り組めと仰られたのは、他でもないお父様ですわ。ですからわたくしはお父様の言い付けを守り、わたくしの気持ちに誠意を持って答えてくれたウイリーを精一杯愛しましたのに! 突然、理不尽な事を言い出してわたくしとウイリーを引き裂こうとなさったのは、お父様の方ではないですか! そのお父様に強固な姿勢で抗議するわたくしの何をご存知になって、軽はずみだなどと…! ……?」 「ブラボー、お嬢さん。アンタ、相当いい育ち方をしてると見える」 張り出した手摺りに身体を預けた娘の、風に晒されても冷めない演説。しかしそれを一瞬で冷やし遮ったのは、やや掠れたようなハイバリトンの声だった。 「……………なんだ! お前は、いつ入って来た!」 ハッとして振り返った保安官ども。それを荒々しく掻き分けて男を睨んだ先頭の男は保安官でないらしく、シックで硬質な印象のスーツを着込んでいる。 「あ? あぁ、俺ね。ただの通りすがり。というか、この場合は偶然居合わせちまった善意の第三者ってトコか。誤解ないように言っておくなら、俺は入って来たんじゃなく、最初からここに居たんだよ」 善意。………というのがいかにも似合わない顔つきで、男がにやにやと言い返す。それにあからさまな不快の表情を向けたスーツ男を探るように見つめて、刹那、通りすがりはなぜか、スーツ男の斜め後ろ…男から見れば手前か…に佇んでいるやたら背の高いダークスーツに視線を転じ、殊更人悪そうににやりと口元を歪めた。 「善意の第三者が気に食わないなら、無関係な覗き屋でもいいがな」 男が、それさえやる気なく薄く笑ったまま言いつつ、長い足を無造作に組み替える。 実はその瞬間まで誰も、そこに男がひとり座っていたと気付いていなかった。それどころか、ウイーク・デイの真っ昼間、この展望室で暢気に休んでいる市民が居るとさえ想像していなかったのだ。確かに、男の座っているベンチは真横を衝立てに仕切られた喫煙スペースにあり、ドアから飛び込んで来てもその姿はすぐに見えないだろう。しかし、衝立てを回り込んで大窓に向かえば、遮るのもは何もなくなる。つまり、保安官の間抜け面だとか娘の泣きっ面だとかが男から丸見えだとすれば、逆に、それらから男も丸見えのはず。 しかし、半刻以上、誰も男に気付かなかった。 派手な姿で悠々と煙草を吸い続けていたはずの、男に…。 「こんなくだらねぇ騒ぎなんかすぐに収まんだろうってタカ括ってたのに、なかなか根性あるな、お嬢さん」 「…………………」 誰も彼もが、固唾を飲んで男を凝視する。 男は笑っていた。なんだが、世間を見下げた笑い方だった。しかし不快な感じはしない。というよりも、そんな笑いさえも華やかで凛々しく…見えたのか…。 「俺はどうやら説教趣味らしくてな、よくそんな事を滅法口の悪い相棒に言われる。だからね、お嬢さん。冥土の土産に俺の説教でも聞いて行けよ。いい勉強になるし、おまけに、地獄で自慢出来る」 言って男が、頭の後ろに組んでいた手をゆっくり解き、ゆっくりと…立ち上がった。 背が高い。長身痩躯、という形容がぴったりだ。バランスのいい長い手足に薄い胸板、しかし、ひ弱な感じも愚鈍な感じもしない。足首まであるキャメル色のロングコートの中に、艶消しシルバーのバックルだけで飾った細身の黒い革パンツ、派手な赤紫色のシャツを素肌に直に着るという酔狂さは、正直、似合わない人間が憧れだけでやったなら滑稽で笑えてしまうのかもしれないが、この男の場合、それが腹立たしいほど極まっている。 「なんたって、半刻もこの俺を付き合せたんだからな」 手で、退けろ、と指示されて、ぽかんと突っ立っていた保安官どもが反射的に退去した。その中央を突っ切って大窓に向かいながら、男は機嫌良く(?)話し続ける。 「ウチの相棒にだって自慢出来るぜ、ニコルお嬢さん」 で、様になり過ぎの、ウインク。 半泣きだったニコルさえぽっと頬を赤らめるほどに、男は何から何までもが「嘘のように」極まり過ぎていた。 細い顎、皮肉そうな笑みを消さない薄い唇、すっきりした鼻梁の先端は凛々しく吊り上がった眉で、伏せたような睫に飾られているのは、灰色がかった緑の瞳の瞳の涼しげな双眸。背中の中ほどまで長い、淡い金色を纏った色褪せたブラウンの髪が風を孕んでふわりと流れると、微かに、煙草の香りと…何か、もっと得体の知れない「何か」の香りが男の周囲を漂い、全てを危うい雰囲気で包んだ。 ただの男前、ではない、男。 流し目で街中を狂乱させる劇場の二枚目役者より二枚目。と、彼の『相棒』は言い、決定的に手に負えない血統書付きの野良。と、彼を知る大抵の『仲間』は言った。 そういう、男。 「で? なんだっけ? あぁ。飛び降りるとかなんだとか、そういう話な」 男はさりげない動作でコートのポケットに手を差し込み、赤いパッケージを取り出した。底を叩き、頭を覗かせた煙草を箱から直にくわえて、ぽかんとしている娘に優雅な微笑を見せる。 男の手にしたそれが、出来の良し悪しに関わらず流通の九割以上が葉巻であるこの大陸では珍しい紙巻き煙草だとニコルが気付いたのは、彼が細くて気障な紙巻きを薄い唇に載せてからだった。 それで、揺らいだ空気、幾つか。 不快そうな。 興味ありげな。 淡々と観察するような。 それに気付いても男は平然と、流麗で計算し尽くされたばかばかしいほど見事な動作でマッチをベルトのバックルに擦りつけ、紙巻きの先端に火を移す。淡い紫煙を吸い込んで、吐いて、マッチの燃えさしを指で弾いてそれからやっと、手摺りに身を預けて細い窓枠に座り込んでいるニコルを笑いの消えた顔で見据えた。 冷え切った、灰色がかった緑の瞳で。 「外野は構うな、俺は止めねぇ。 だから、思う存分飛び降りろよ、ニコル嬢ちゃん」 男はそう甘く囁き、紙巻きを載せた唇で、笑った。 「…………………」 ニコルの琥珀の瞳が、男を見つめ返す。 「死ぬやつはいいな。幸せだ。残された親兄弟、友達、恋人…なんでもいい。そういうヤツらの後悔だとか悲しみだとか、心配しないで済むからな。勝手に死んで勝手に自分だけ楽になればいい。俺もその選択に大賛成だよ。出来る事なら俺だってそう行きたかった。程度には憧れる。 だからね、ニコル嬢ちゃん。 俺はアンタを止めたりしねぇよ。 アンタが死んでお父様が自分を責めても、アンタが死んでお母様が泣き暮らす事になっても、アンタが死んでアンタを大切にしてくれてたヤツらが自分の無力さを思い知り自暴自棄になったとしても、安心しな、俺がそいつらにちゃーんと言ってやるから。 ニコルお嬢さんは愛されてました。 ニコルお嬢さんは幸せでした。 ニコルお嬢さんは甘やかされてました。 ニコルお嬢さんは…」 男が、一度言葉を切る。 「ニコルお嬢さんの「消えた」後の事なんて想像出来ないくらい、自分の事しか心配してませんでした。ってな」 そして、笑う。 冷たく。 紙巻き煙草を、くゆらせて。 その恐ろしく端正な面に浮かんだ、残酷な笑み。二十歳にも満たないだろう娘に向けるには、現実的な非情。しかし男は本気だったし、受け取ったニコルも、本気だった。 「…わたくしの恋は、愚かだとでも?」 「さぁね。俺ぁ愛も恋も信用しない方で」 「お父様の理不尽な言い分を、黙って利いていればいいとでも!」 「さぁ。俺には親も兄弟もないからな」 「あなたはわたくしを…!」 「笑ってんだよ、ニコルお嬢さん。それに、ちょっとはムカついてるしな。 俺が無責任に見えるだろう? でもアンタ、生きてて当然なのに勝手に死んでくってのがどれだけ無責任なのか、判ってるのか?」 取り残されて後悔する無力さがどれほど虚しいか、アンタに判るか? と、男は…言わなかった。 「……無責任だと言われて笑われては、黙っていられませんわ!」 そう力強く言うなりニコルが、キッと男を睨み直す。 「そこにじっとしていてくださいまし、通りすがりの方!」 眦を吊り上げた子供っぽい顔に思わず失笑を漏らす、男。しかし、手摺りに身体を預けていたニコルが弾けるように立ち上がろうとした刹那、男は驚くような速さで床を蹴り放し窓に飛びついていた。 「きゃぁっ!」 少女のか細い悲鳴。 硬直したきり動けない保安官ども。 華奢な胴体に回された、思いのほか逞しい腕…。 咄嗟の行動に出た男は、背の低い手摺から外へ転げ落ちそうになったニコルを抱き留めていたのだ。 「…てかね、お嬢さん。急に立ち上がったら危ないでしょ? こんな…足場の細っこいトコでさ」 大窓は、床から一メートルほど上がった所に切られており、床から見れば手摺りの高さは一メートル五十センチ。しかし、窓枠に立った状態ではせいぜい五十センチ程度。しかも、窓枠は細く外側へは十センチも張り出していない。 それに、五階。当然、張り出しに床は張られていないのだ。 気の弱い者ならば、眩暈でひっくり返れる高さではないか? ぎりぎり手の届く場所にあった鴨居を片手で掴み、もう一方の手でニコルを抱き竦めたまま、男がくわえ煙草の口元を歪める。その胸元にしっかりしがみ付いて、でも、身体の半分を張り出しから外にはみ出させたニコルは、かたかた震えつつも「ありがとうございます…」と小さく呟いた。 「…………いいコだな、アンタ。そのまま大人になったら、今よりもっとモテるぜ」 男が、笑った。今度は本当に愉快そうに。 それに驚いて顔を上げたニコルの身体がふわりと浮く。自分で「こんな足場の細っこい場所」などと言っておきながら、男はその場でニコルを抱き上げ、悠々と窓枠から展望室内に飛び降りたのだ。 「立てるか?」 「…はい」 「オーケイ。じゃぁ、ま、そういう事で、あとは勝手にお父様とやらとケンカでもなんでも好きにやれよ」 笑いながらニコルを床に下ろした男がキャメルのコートを翻し、慌てて駆け寄って来た保安官の間を通り抜け展望室から出て行こうとする。 「待ってくださいまし、通りすがりの方!」 一旦は床に座り込んでしまったニコルが、傍らの保安官を支えに立ち上がって、男を呼びとめようと手を伸ばす。しかし男は立ち止まらず振り返らず、懐から取り出した紙巻き煙草のパッケージを見せつけるように軽く腕を上げ、わざとそれを手の中で握り潰した。 「急いでる。煙草が切れたんでね」 男は、ふざけたセリフとともにそのパッケージをぽいっと投げ捨て、甘い紙巻き煙草の香りだけを、微か、展望室に残してニコルの前から消えた。 「大丈夫だったかい! ニコ……ル…」 保安官を突き飛ばして退けさせ、ニコルを抱き締めようとしたあのスーツ男。しかし当のニコルはじっと床の一点を見つめたまま手で男を押し退け、ドアの傍までふらふらと歩み寄ったではないか。 ニコルの視線が捉えていたのは。 「……………紙巻き…煙草」 その場にしゃがみ込みくしゃくしゃの赤いパッケージを拾い上げて、娘は、何か…内に秘めた何かを確かめるように、可憐な唇にそっとした笑みを刻んだ。
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