『喜多川大サーカス団』の舞台小屋は町立公園の駐車場に設営されていた。あの簡単なチラシから想像していたものよりもずっと大きなものだ。以外と本格的なサーカスをやっているのだろう。
 開演までにはまだかなりの時間がある。こんなに早い時間にのこのこ出てきたのは、やはりあの少女の事が気にかかっていたかのだろう。駅での出来事を僕が見ていた事を彼女が憶えていたとしても、わざわざ僕に言葉をかける必然はない。あの時の態度からみると少女にとってあれくらいのトラブルは日常茶飯事なのだろうから。
 そんな事をぼんやりと考えながら、舞台小屋のぐるりを回って裏手に出る。裏手には柵が設けられ、団員達の簡便な生活スペースになっていた。僕はたいした興味もなかったけれど、なんとなく柵の中を覗きこんでいた。
「おい」 
 ふいに声をかけられびくっと振り返った僕の鼻先を、何かが空気を切り裂きかすめていった。
 声の主は短パンTシャツの少年。ごく普通の服装とは似合わず、その目つきはえらく剣呑だった。少年は何も言わずに僕の方に顎をしゃくってみせた。
 僕の背後にあった『関係者以外立ち入り禁止』の看板のど真ん中に、小ぶりのナイフが付き立っていた。
 あっけにとられている僕にふんっと鼻をひとつならすと、すぐにむこうをむいて今度は人型の的にむけてナイフを投げはじめた。
 シュッ、カッ、シュッ、カッ、シュッ、カッ・・・。ナイフが空気を裂く音とナイフが的に突き立つ音とが小気味よく交差する。
 少年は実に無造作に、実にテンポよく、ただ機械的に手を振っているだけに見える。それなのに彼の手から放たれた小さなナイフは、10メートル程先の的に驚くべき精度で吸い込まれていく。否、正確には的からほんのわずか外側、人型の頭頂部・耳の横・首元・指先・股間・爪先・・・各所を3cm程はずれた箇所に次々と突き立っていく。
 僕は先程ナイフを投げ付けられた事も忘れて、少年の手腕に見入ってしまっていた。ナイフの音はメトロノームの様に正確で、自然と力の抜けた少年のフォームは美しかった。
 その少年の背後に忍び寄る一つの影。
 あの少女だ! 彼女はコメディアンの演じる泥棒そのままの抜き足差し足で少年の方へ歩を進めていく。ナイフ投げの練習に集中している少年はまったく気が付かない。
 1メートル手前で少女は動きを止めた。顔だけを僕の方に向けて、ニヤリと笑った。実に色々な表情を見せる女の子だ。
 しかし少女は少年に何をするつもりだろう。そんな僕の疑問は一瞬にして氷解した。少女は腰に結わえていた巨大なハリセンを手にしたのだ。
 少女がハリセンを大きく振りかぶった。哀れな少年は無心にナイフを投げ続けている。僕は笑いを堪えるのに必死だった。
 少女が再びこちらを向いてニンマリと邪悪な笑みをつくった。
「ユウスケー!」
 裂迫の気合いと共に振りおろされたハリセンは、ユウスケの後頭部をまともにとらえた。ユウスケの手を放れる寸前だったナイフが、さすがにコントロールを失い人型の胸の部分に突き刺さった。
「・・・痛つ」
 頭を押さえて起き上がったユウスケが、噛み付かんばかりの勢いで少女にくってかかる。
「なにすんだよ! 姉ちゃん!!!」
 ハリセンが再び振り下ろされた。ベチン。
「なにすんだじゃないでしょ!」
 ベチン。
「知らない人にナイフ投げちゃダメだって、何度言ったらわかんの!!」
 ベチン。
「だって、こいつ勝手に中を・・・」
「いいのよ、この人は!」
 ベチン。
「ほら! さっさと謝んなさい!!」
 ベチン。
 ベチンベチンと頭を殴られ自然に頭が下がったユウスケは、そのまま体の向きをこちらに向けると「ごめんなさい・・」と小さな声で詫びた。腹話術の人形みたいな声だった。
「ほら、あんたはさっさと引っ込みなさい」
「・・誰だよ、こいつ」
「こないだ話した人だって」
「・・・ふん」
 ユウスケは不満そうな態度を隠そうともせず、奥手へと姿を消した。
 少女はあいかわらず姿勢の伸びた美しい姿勢でこちらへ歩いてくると、深々と頭を下げた。
「申し訳ございませんでした。弟が大変失礼をいたしました」
 うって変わっての慇懃な態度だ。まったくいくつの顔を使い分けられるのだろう。すると僕の胸の内を見透かすかの様に、頭を上げた少女はすっかり元通りに戻っていた。
「でもさ、ま・気にしないでよね。悪気はなかったと思うの」
「それに、あれでもあの子のナイフの腕、なかなかのものなんだから」
 ユウスケのナイフの腕前は僕も承知しているが、そういう問題ではない。異議を唱えようとした僕の目の前に、すっと手が差し出された。
「ホント、よく来てくれたわね」
「あたしは喜多川ユウキ。よろしくね!」
 ここでも結局ずっとユウキのペースだ。はるかに年下の少女に振り回されても、不思議と悔しさはなかった。僕はユウキの手を握った。
「ようこそ、喜多川大サーカス団へ!」

つづく