「ふ〜、やばかったわあ。ママ、あれで結構加減知らずって言うか、みさかいがないって言うか、無茶苦茶する人なのよ。昔パパが浮気した時なんて、ハナちゃんとジョ−を使って・・」
「んな事言ってっと、お前もつっつかれんぞ」
「ママ、すっごい地獄耳だもんね」
 二つの声が頭上から降ってきた。どうやら小屋の梁の部分に誰かが腰掛けているらしいが、薄暗くて顔までは確認出来ない。
「やだなあ、お兄ちゃん達ずっと見てたの?」
「にしても、お前も懲りない奴だよな。だいたいしゃべりすぎなんだよ」
「そそ、口は災いの元ってね」
「いいじゃない。誰だってあのママみたら歳が気になるに決まってるし、ホントの歳聞いたらみんな腰抜かすわよ」
「それが余計だっての。トップシークレットだぜ」
「うんうん、さわらぬ神に祟りなし」
「トップシークレットだから喋りたくなっちゃうんじゃない。ま・いいわ。いつまでもそんなとこに居ないで、二人とも下りておいでよー」
 「よっ」「んっ」と二つの声は短く応えると、音もなく僕の目の前に降り立った。確かに二つの声が聞こえていたが、僕の前に現れたのは1人だけだった。
「紹介するわ。誠一兄ちゃんと誠二兄ちゃん。二人で空中ブランコをやってるの。一応・うちの看板スターよ」
「一応ってのが余分なんだよ」
「堂々の看板スターなのにね」
 確かに二つの声が聞こえるが、目の前には1人の青年が立っているだけだ。非常に均整のとれた体格で、なるほどこの青年ならば空中ブランコくらいはやってのけそうだが、相方の姿はどこにも見えない。
「・・・はあ。なんだってウチの人はみんなお客さんにイタズラしたがるのかしら」
 ユウキが大袈裟にため息をついた。自分の事も勘定に入っているのだろうか? 
 すかさず目の前の男が、二つの声で異論をとなえる。
「よく言うぜ。自分が一番好きなくせしてよ」
「よく言うよ。ユウキが一番好きなくせにね」
「・・・はいはい。分かりました分かりました。分かったから、そろそろ前に出てきてよ、ええと・・・誠一兄ちゃんか」
 いきなり目の前の青年の上半身が二つに別れた・・・かの様に見えたが、実際には前後にぴったりと重なりあっていた二人が、右と左に上半身を傾けてみせただけだった。
「俺、兄貴の誠一、よろしくな」
「僕、弟の誠二、よろしくね」
 どこからどう見ても全く同じ顔が、全く同じタイミングで自己紹介をしたものだから、どちらが誠一でどちらが誠二か全然分からない。
「お兄ちゃん達、すっごいそっくりでしょ。私でもよおっく観察しないと分かんないんだから」
 初めて会った僕などは、どれだけ観察してもちっとも分からない。目鼻どころか、背丈、髪型、腕の太さも全く同じに見える。加えて服装までも統一しているのだから。
「好きな食べ物も、好きな女の子のタイプも、ぜえ〜んぶ同じなのよ。もちろん空中ブランコの息だってぴったり」
「これ位じゃなきゃ空中ブランコなんて出来ねえの」
「なにしろ看板スターだもんね、僕ら」
 誠一と誠二は得意げな顔を二つつくって見せたが、ユウキは小さな声で、しかし確実に二人に聞こえる様にぼそぼそとつぶやいた。
「・・・あんまりピッタリすぎるものだから、お客さんが全然ドキドキしないんだけどね」
 二人が声をそろえた。二人の声がどんぴしゃのタイミングで混ざりあって、第三者の声としか聞こえなかった。
「うるさい」
 その後誠一と誠二は、空中ブランコという芸がいかに危険なものであるか、自分達の技術レベルがいかに高度であるか、自分達が空中ブランコ協会(というものが存在するのだという)においてはどのような崇拝の対象となっているか、真偽の程は定かでない事を懇々と説いてみせた。
 しかし結局僕にはどちらが誠一でどちらが誠二なのか、最後まで分からなかった。
 

「さてと、私はそろそろ開演の準備をしなくちゃならないんだけど・・・と、おおおーい! チョウさあーん!」
 ユウキはいきなり大声をあげると、手を大きく振った。
 奥からひょこひょこと歩いてきたのは、柔和な顔だちが安心感を与えてくれる初老の男性だった。
「チョウさん、私そろそろ準備しなくちゃいけないから、お客さんのお相手しててもらえます?」
「はいはい、承知いたしましたよ。行ってらっしゃいませ」
「はーい、よろしくお願いしますね。ね、チョウさん見た目通りの優しいオジサンだから怖がらなくっていいわよ。それに、チョウさんが煎れてくれるお茶とおっても美味しいのよ。ね、チョウさん!」
 ユウキはチョウさんに元気よく声をかけると、走って出ていった。 
 チョウさんはにっこりと微笑んだが、チョウさんチョウさんと連呼されて少し照れくさそうだ。
「まったく元気な子でしょう? いつもあの調子ですからね、振り回されっぱなしですよ。 あ、どうぞそちらにお掛けになって下さい。今、美味しいお茶をお煎れしましょう。自分で言うのもなんですけど、私のお茶はなかなかちょっとしたものなんですよ」
 団員の控え室らしい部屋の椅子を僕にすすめると、チョウさんは薬缶に火をかけたり、湯呑みの用意をしたり、せかせかとお茶の用意をしながら語りだした。
「美味しいお茶を煎れるというのもなかなか難しいものでしてね、お茶っ葉の質と量に合わせたお湯の量と温度ですとか、湯呑みに注ぐまでの時間ですとかね、そういうのはまあ当然あるのですがね。結局のところ、本当の意味で美味しいお茶を煎れるのに必要なのは、経験とここなんですなあ」
 チョウさんは自分の胸に手を当ててそう言ってから、丁寧な手付きで湯呑みにお茶を注ぎはじめた。湯気とともに仄かな香気があたりに漂う。
「かくいう私も、こちらの裏方を15年程やらせていただいて、ようやっと気付いた次第でして。・・・ん、そろそろ良い頃合ですかな。どうぞ、粗茶でございますが」
 チョウさんの煎れてくれたそのお茶は文字通り絶品だった。
 特別に高価なお茶という訳ではない。味そのものはどこにでもある一般的なお茶とそう変わりはしない。
 しかしそのお茶を口にすると僕の心はフッとリラックスし、僕の体の芯にポッと小さな炎が灯ったように暖かくなった。
「ん、まずまず良い味ですな」
 チョウさんは自分も一口お茶を飲んでから、満足そうに頷いた。
「こんな小さなサーカス小屋でございますから、団員のみなさん方にも各々の芸以外の仕事もこなしてもらわなければなりません。テントの設営、お客さん達の整理、宣伝のビラ配り、動物達の世話・・・なにからなにまで、すべて団員全員で協力して造っていくんです」
 小屋の外が騒がしくなってきた。そろそろ開演の時間が近付いてきている。
「団員のみなさんは厳しい芸の稽古をしながら、煩雑な仕事も嫌な顔ひとつせずにやってくださいます。芸も出来ない、力仕事も出来ない爺には、せめてとびきり美味しいお茶を煎れる位しか、みなさんを労って差し上げる事は出来ません」
 そこでチョウさんは一端言葉を止めて、どこか遠くを見るようにその目を細めた。
「そんな事を思って、なんとか満足のいくお茶を煎れる事が出来る様になったのが、6年程前からですか。ちょうどユウキさんがここに来られた頃です」
 僕はチョウさんのとびきり美味しいお茶を飲み干した。
「あの頃のあの子は、全く笑う事もない沈んだ目をしていたものですが・・・。本当によく元気になってくれたものです。いや、少し元気になりすぎましたかな」
 チョウさんは自分で煎れたお茶を美味しそうに飲んでから、ニッコリと微笑んだ。
 

つづく