第1回 「総合的な学習の時間はむずかしくてやれない」という声への反論 | ||||||||
「何をやればいいのか分からない」「総合はむずかしい」「文部省は無責任だ」など,総合的な学習の時間への愚痴があちこちで聞かれます。果たしてそうなのでしょうか。私は常々疑問を感じていました。 立教大学の奈須氏の意見を紹介します。 …………………………………………………………………………………………………………………… ここ数ヶ月「総合の問題点」という言葉を聞くようになった。そこで確認だが,「総合の問題点」とは,勉強不足ゆえの誤解その他に基づく実践展開上の混乱や困難と解されるべきで,仮に残念ながらそれが多数を占めたとしても,総合的な学習の時間の原理そのものの問題と考えるべきではない。 なぜ,あえて確認したかというと,最近,現場の混乱に乗じて「一部の熱心で優秀な教師や学校ではうまく行くが,そうでない教師や学校ではなかなかうまくいっていない。だから総合はだめなんだ」といった暴言を吐く人があるからである。しかし,それはまさに「悪貨が良貨を駆逐する」であって,この国の教育はよくはならない。 それどころか,「総合の問題点」の多くは,総合に固有な問題点ではない。できているはずの教科が,実はできていなかったからこそ,総合もまたうまくやれないのである。正確に言えば総合か,教科か,といったことを超えて,カリキュラムと言うことが構造的に分かっていないのである。 ただ,教科の場合には学習指導要領と教科書があったから,何とか繕えてきた。問題が露呈しなかっただけのことである。したがって,ここで現在の混迷の原因を総合的な学習の時間の原理の問題にすり替え,目を背けてしまったなら,根本的な問題は残存してしまう。 …………………………………………………………………………………………………………………… 「熱心で優秀な教師や学校ではうまく行くが,そうでない教師や学校ではなかなかうまくいっていない。だから総合はだめなんだ」私もこの言葉を聞くたびに残念に思ってきました。 浅学非才の私は単に「やる気」の問題として考えていましたが,奈須氏はこの問題に明快な回答をくれました。簡単に紹介します。 …………………………………………………………………………………………………………………… 多くの学校における最大の問題点は,内容編成をしていないことである。総合的な学習の時間ではカリキュラム編成が全面的に各学校に任されたが,つくるべき2つのカリキュラムの一方しかつくらず,もう一つがない学校が多い。総合的な学習の時間に限らず,カリキュラムには2つの水準がある。内容水準と単元水準である。教科で言うならば,前者は学習指導要領であり,校舎は教科書等を参考に各学校で編成する年間計画である。まず学習指導要領があり,そこに記された内容を実現するために,単元や活動を構想する。それを集約したものが年間計画という関係だ。 ところが総合的な学習の時間のカリキュラム編成に際して,多くの学校は年間計画はつくっているが,学習指導要領に相当するものをつくっていない。しかし,教科で考えればすぐに分かるように,学習指導要領がないのに,年間計画があるというのは異常である。なぜならば指導すべき内容がはっきりしていないのに,単元・活動だけはあるというのだから。 そういう学校では早晩「カリキュラムをつくったはいいが,評価をどうしたらいいのか分からない」という問題が持ち上がる。当然の帰結である。その単元を通して何を指導するのかをしっかり考えていないのだから,評価などできるわけがない。 〜中略〜 なぜそんな愚かな過ちに陥るのか。あるいはそれ以前に,学習指導要領に相当するものをつくろうと,なぜ考えつきもしないのか。どうも,従来,教科の指導をするにあたり,学習指導要領を見ていなかった,あるいは意識していなかったのではないか。そう考えればつじつまが合う。 残念ながら,学習指導要領なんか読んでいなかった教師が大多数なのだ。そんなことだから,それ自体はたいしてむずかしくもない総合的な学習の時間をむずかしく感じるのである。これを直視し,その奥底にある真の問題をこそ解明,解決したいものである。そうすることで総合的な学習の時間はもちろん,教科も断然よくなるはずだからである。
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