十三番目のフレディ

志咲摩衣


 

 わたしは、蛙です。
 雨の降る日にゲロゲロと、仲間と一緒に合唱するのが大好きな蛙です。
 わたしの見かけは、心持ち大きめの緑色した雨蛙と思ってくだされば間違いありません。
 わたしは筋肉のついた自慢の四本の脚でぴょんぴょんと跳ねまわるのが大好きですし、お腹がすけば上手に虫を捕って食べたりもします。
 ただ、時折、そんな自分が哀しくなることがあります。
 それはたぶん──かつてわたしが人の姿をした、ある国の王子だったからでしょう。


 

1


 

 魔女の呪いで蛙の姿にされた時には、本気で死んでしまおうかと思いました。
 当時のわたしは、十八歳になったばかりの物事を深く考えることのない若者でした。世界は自分を中心に回っていると、なぜか信じて疑わなかったのです。
 ある日、森で鹿狩りをしていたわたしは綺麗な黒髪をした若い女性と出会いました。彼女はわたしを住まいに招きいれ、やけに甘ったるい豆のスープとパンをご馳走してくれました。わたしはお礼に彼女の唇に羽根のように軽いキスをしました。そしてそのまま城に戻ると、二度と彼女を思い出すことはありませんでした。
 きっかり一年後──わたしは忘れていたのですが、彼女がそう言っていました──綺麗な黒髪の女が城に現れてわたしに会いたいと言いました。門番は追い返そうとしましたが、彼らの槍は女の片手ひとふりで呆気なく木っ端微塵に砕けたそうです。なぜなら、彼女は森に棲む魔女だったからです。
 屈強な衛兵たちも魔女の手妻に敵うことなく、鎧を氷の剣で貫かれ、首は風の刃で断ち切られ、次々と大理石の床に崩れ落ちました。なんなく彼女は、城の奥まった場所にあるわたしの居室まで辿り着いたのです。白と金とで飾られた扉を開けて、彼女はわたしの顔を見るなり問いかけました。
「わたしのことを覚えていらっしゃる?」
 わたしは本当にきれいに忘れていたので答えました。
「君は誰?」って。
 気がつくと、わたしは彼女の足元に這いつくばっていました。なぜって、それが蛙の基本姿勢だからです。でも、それは自分をまだ人間だと信じていたわたしにとっては、屈辱的な姿勢以外の何物でもありませんでした。だから、今考えると大変馬鹿げたことですが、わたしは二本の後ろ足で立ちあがろうとしました。
 ころん──蛙の筋肉は二足歩行に向いていませんから、わたしは無様にも仰向けに転がってしまいました。
「仰向けになって、脚をばたつかせている蛙ほど無様なものはないわね」
 魔女はわたしを指さしてけらけらと笑いました。
「王子様、おまえは蛙になったのよ。これからは、その四本の醜いがに股の脚でぴょんぴょん跳ねまわるしかないの。元の姿に戻るには、哀れな蛙に情けをかけてくれる奇特な人間の女にキスしてもらうしかないわ」
 そう告げたあと、魔女はさも厭そうにわたしの首をつまんで、大きな鏡の前に置きました。
 べちゃり。
 その、はじめて聴いた奇妙な音は今でもはっきりと覚えています。
「ほうら、素敵な蛙でしょう?」
 鏡に映っていたのは、魔女の言ったとおり、心持ち大きめの口が大きく裂けて目のぎょろりとした──どこにでもいそうな雨蛙でした。
「どうして、わたしが蛙になんか……」
 鏡に映った蛙の口から、人の時と同じ自分の声が漏れました。やはり、鏡に映った蛙はわたしなのです。
「女を口説けるように、綺麗な声だけは奪っていないわ。感謝しなさい」
 そう言って、魔女はいきなりわたしを窓から外に勢いよく放り投げました。

「もしもし、お嬢さん」
 蛙の姿にされてしまったわたしは道行く女性に声をかけてみました。けれども皆、言葉を話す蛙を見て化け物呼ばわりするだけで、誰もわたしの話をまともに聞いてくれる人などいやしません。それでも、わたしが懸命に蛙になった理由を話し続けると、「そんな見え透いたほらで、あたしを騙そうったって無駄だよ、化け物が。二番目の王子様ははやり病でお亡くなりになったばかりさ」と悪し様に嗤われました。城ではわたしの葬儀まで行われたというのです。
 箒で追い払われ、靴底で踏み潰されそうになる日々が一年ほど続いた頃、母が亡くなったという噂がわたしの耳に届きました。
 母の葬儀を遠くから眺めたわたしは、誰もいなくなってからこっそり墓前までぴょんぴょんと跳ねて行きました。蛙のわたしには母のために涙を流すこともできませんでした。
 そして、わたしはすべて諦めたのです。
 わたしは口を閉じて、言葉を話さず、生きるために嫌々やっていた虫を捕ることもやめて、森の中の少し湿った心地よい石の上で、ひたすら死ねる時が来るのを待ちました。
 けれど、いつまで経っても天国からのお迎えは来ませんでした。怖ろしいことに、わたしは不死身の蛙になってしまったのです。
 わたしは死ぬことも赦されず、蛙として生きるしかありませんでした。魔女の言ったとおり、ぴょんぴょんと地の上を這いつくばって。

 こんな蛙でも、百年以上生きれば少しはよいこともあるようです。おそらく、魔女に変身させられた『魔法的生物』であるせいでしょう。わたしは治癒能力を手に入れていました。怪我や病気をした生き物を治す能力です。哀しいことに、その力で自分を人間に戻すことはできませんでしたが。次の百年で、とても狭い地域でなら雨を自由に降らせたり、逆に止ませることができるようになりました。この能力のおかげで、わたしは人々から自分たちの村に住んで欲しいと頼まれるようになりました。次の百年は村の人たちに頼んで、雨を降らせたお礼として持って来てもらった本を読み、独学で魔法修行に明け暮れました。そのおかげで、かなりの魔法を使えるようになりました。

 そして今、『蛙の賢者フロッグ・ クェック・ゲーロック』として、ここに住んでいるというわけなのです。


 わたしが語り終えると、目の前にある来客用の椅子に行儀良く腰掛けた煉瓦色の髪の少年は、灰色の瞳をぱちぱちさせて訊ねた。
「……賢者様、それって本当のお話なんですか?」
 フレディはわたしが病気を治した男爵の十七歳になる息子で、父親が完治した後もなぜか頻繁にここを訪れては、わたしの四方山話を聴きたがった。
「嫌ですね、いつもしているつくり話に決まっているじゃないですか。わたしは生まれた時から物言う不思議で愉快な蛙ですよ」


 

2


 

 蛙の賢者フロッグ・クェック・ゲーロックはそう言って笑ったが、一ヶ月ほどここに通って彼の物語を聞いていたおかげで、僕には彼の声がとても哀しそうなのがわかってしまった。蛙の顔は無表情だから彼の感情は読み取りにくいのだけれど、穏やかで綺麗な彼の声は意外に雄弁なのだ。

 だから僕は──聡明で優しい蛙の口にキスをした。

 彼は飛び出たまんまるな目で僕を見つめていたかと思うと、目の前から突然消えた。
 と同時に、どさりとすぐ近くの地面──蛙の賢者の住まいは、あるじの住み心地を第一に配慮したため湿った土間なのだ──に何かが落ちる音がした。
「あいたた……」
 声のする場所に落ちていたのは──うつぶせになって這いつくばっている裸の若い男性だった。この時の彼の様子は、蛙のパントマイムに挑戦して見事に失敗している男、というのが一番適切だと思う。 長身の青年が、綺麗に筋肉のついた長い手脚をがに股でじたばたさせている姿は滑稽で、少し可愛いらしい。僕は悪いと思いながらも、ぷぷっと吹き出してしまった。
「……あの」
 じたばたしたままの体勢で、彼は少しだけ不服そうな声をあげた。
「笑いたいお気持ちは解るのですが、そろそろ手を貸して下さいませんか?」
 そう声をかけられて、僕は彼に肩を貸そうとした。けれど、やっぱりそれはためらわれた。なぜなら僕は──。
「申し訳ありません、賢者様。お手伝いをしたいのはやまやまなのですが、その……何かお召しになっていただけませんか?」
 僕が困ったように答えると、彼の動きがぴたりと止まった。
「……それは、大変失礼しました」
  人間の腕をまだ上手に使えないらしく、彼はおそるおそるといった風情で亀のように顔だけ上げて僕を見た。彼の見た目の年齢は十八歳の青年のまま止まっているようだ。男性としては大きめの空色の瞳が潤んでいて、ゆるやかに波打つ淡い金色の髪が、ふわりと額にかかっているのにどきりとした。
「フレディは女の子だったんですね」
 彼が僕の顔をじっと見て微笑った。優しい微笑みは初夏に咲く薔薇のように綺麗で、僕は自分の顔が赤くなってゆくのが分かった。彼が小さく何か呟くと、その身体はシンプルな白いシャツと黒いズボンをまとっていた。
「肩をお貸しします」
 僕はそう声をかけて、彼が立ち上がるのを手伝った。すぐ近くに彼の綺麗な顔があるのが恥ずかしくて、あわてて顔を背ける。彼の脚は三百年の間にすっかり二足歩行を忘れてしまったらしく、がくがくと震えて覚束ない。立ち上がったのも束の間、彼はさっきまで僕が腰掛けていた来客用の椅子にへたりこんだ。そのほうが楽なのだろう、椅子に逆さまにまたがって、その背に顔を載せて僕を見上げた。
「ありがとう」
 彼はそう言ってまた微笑んだ。
「三百年も蛙をやっていて、わたしの話をちゃんと聞いて、キスしてくれたのはあなたがはじめてです」
 蛙の時と同じ綺麗な優しい声で、彼は笑った。
 僕は泣きそうになってしまい、挨拶もそこそこに彼の住まいを辞した。


「フレディは十三人目なんだろうな……」
 あとに残された蛙の賢者が哀しげにぽつりと呟いたのを、少年の姿をした少女は聞かなかった。

 

 あくる日、僕はまた蛙の賢者の住まいを訪ねた。そして、愕然とした。
「蛙に戻ってしまわれたんですか」
「そのようですね」
 いつものようにテーブルの上にちょこんと載ったフロッグ・クェック・ゲーロックが、いつものように無表情に喉を上下させて答えた。
「そんな、酷いこと」
 僕の目から、ぽろぽろと涙があふれた。
「ああ、泣かないで下さい。これでなかなか蛙の生活も乙なものなんですよ」
「でも、賢者様、人間の姿に戻られてあんなに嬉しそうだったじゃないですか。それなのに、一日で戻ってしまわれたなんて」
 僕はそこで彼の視線を感じた。
「もしかして……フレディがそんな格好だからかな」
 彼はぼそりと言った。
「えっ?」
 そんな格好って──。
「だって、呪いを解くのは『人間』の『女性』との『キス』ですから。厳密に言えば、少し間違っていたのかも知れません」
「つまり、僕は魔女の呪いに女と認めてもらえなかったんですか……」
 しょんぼりと、僕は自分の姿を見下ろした。地味なシャツに濃い灰色のベストとズボン。ただでさえ小さな胸も特注のコルセットでつぶしているし、そもそも目立たない少年に見えるように育てられたのだから、 手入れされていない肌も、どうでもいいように短く切られた髪も、年頃の娘のものにはとても見えない。
「もしも、あなたさえよかったら、きちんと女性の服装をしてもう一度キスして下さいませんか?」
 彼は蛙なりに首を傾げて僕に訊ねた。
「でも、僕は……」
 実は今朝、女の子の服を着てみたのだ。それが、あまりにも似合わなくて、そんな姿を彼に見られたくなくて、結局いつもの格好でここに来てしまった。
「うーん、やっぱり厭ですよね。もう一度蛙にキスするなんて」
 ひとりで勝手に納得する彼に僕は慌てた。
「ち、違います、そうじゃありません。賢者様が人間に戻れるんだったら、何度だって毎日だってキスします」
 結局、僕は彼の前で女の格好をしなければならなくなってしまった。
 恥ずかしい。蛙の賢者はゲロゲロと鼻唄混じりに僕を眺めながら僕に似合う服などを思案しているらしい。
「こんな感じかな」
 彼は目をつぶって僕の姿をイメージしているようだ。そして、ぶつぶつと呪文を詠唱しはじめた。思っていたより長い詠唱が終わると、僕の身体がむずむずして、一瞬ぱっと光った。
 彼は無表情ながらもなんとなく嬉しそうに僕を見つめている。
「少し時間をさかのぼって分泌物の調整をしたので手間取りましたが、それが本来なるはずだったあなたの姿ですよ」
 彼は最後に僕の目の前に鏡を出してくれた。
 鏡の中には、長い煉瓦色の髪と灰色の瞳をした、色白でほんのりと赤い唇をした華奢な少女が立っていた。淡い薔薇色のドレスが白い肌と髪の色に映えて、とてもよく似合っている。
 僕はふわりと動いて、彼のつるんとした緑色の膚を両手で優しく撫でた。
「ありがとう、賢者様」
 そして、彼と向き合った。彼の飛び出した目が僕の顔をじっと見上げている。
「あの、 恥ずかしいですから、目をつぶっていてください」
「わたしは蛙なのに?」
 彼は蛙らしくぎょろりと目を一回転させてから、もう一度僕を見上げた。
「あなたをただの蛙だと思うのは、僕には無理です」
 彼が黙って目をとじたので、僕も目をとじて、彼にキスをした。
 ふいに、唇に蛙のものではない柔らかな感触があった。するりと腰に彼のしなやかな腕が回されて、優しく抱きしめられた。目を開けると、綺麗な空色の瞳が僕を見下ろしている。
 そして、彼は歌うように僕の耳元に囁いた。
「あなたの短剣はテーブルの上ですよ、女王陛下の暗殺者さま?」

 


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