彼はひどく哀しそうにわたしを見つめた。
どうして、そんな責めるような目で見るのよ?
あなたは、そのためにここに来た"悪魔"のくせに。
Scene 5
悪魔なんか大嫌い
おこたでみかんを食べる悪魔サンが見たい──ふいにそう思って、みかんを用意した。学校ではうすくメイクをしているわたしだけど、うちではいつもすっぴん。でも、今夜は──。
「やっぱり、メイクしてたほうがいいよね……悪魔でも一応男のひとなんだし」
いいわけするように呟いて、手早くメイクと髪を直す。部屋着もいつもより可愛いのを選んでしまった。
飲み物とかあったほうがいいのかな。でも、そこまでしたら、いかにも待ってましたな感じで恥ずかしいかも。それに、さっき、お母さんがヘンな貌してたし。電気ポットと急須なんか部屋に運び込んだら、悪魔サンがきてるのがバレちゃう。ダメ、それだけは阻止しなきゃ。ああもう、悪魔なんかがくるだけなのに、なんでこんなにバタバタしてるんだろう。
だいたい、人の恋を叶える悪魔があんなに格好いいのがヘンなのよ。
悪魔サンのこと、好きになっちゃう女の子がいてもおかしくない。
わたしは……悪魔なんか好きにならないけど。
わたしが好きなのは神崎先生だし。
「こんばんは、悠乃サン」
甘い低音の声が響く。
ちっとも頭に入ってこない文庫本を置いて、わたしは顔をあげた。彼はまたベッドのうえにぷかぷかと浮いている。
「こんばんは、悪魔サン」
わたしがこたつをすすめると、彼はほんのりうれしげに「お邪魔します」などと言いながら入ってきた。妙に礼儀正しい悪魔だ。みかんもすすめてみると、彼はやはり礼儀正しく「いただきます」
と言いつつ、長い指で几帳面にスジを取って口に運んだ。男のひとらしくちょっぴり骨ばったキレイな指が慣れた手つきでみかんのスジをとっては、真っ白い歯ののぞく口に運ぶ。
「魔界にもみかんがあるんだね」
わたしが言うと、ぼそりと「みかんはこっちで覚えたんだ」とこたえてくれた。
このひとって、どれくらいこっちにいるんだろう? 若く見えるけど、年もすっごく上なんだろうな。悪魔って寿命が長そうだし。
「で、神崎先生のことなんだけど」
彼がなんとなく言いにくそうに口をひらく。
「うん」
「先生、彼女がいるみたいなんだ」
ああ、ウワサはホントだったんだ。
「うん、南先生でしょ?」
わたしがなるべくさりげなくこたえると、悪魔サンはびっくりしたような貌をした。
「知って……たのか?」
「だから、悪魔サンがなんとかしてくれたんでしょ?」
誰かを哀しませる仕事だから、天使じゃなくて悪魔の彼が来たんだと思ってたのに、彼は本当にびっくりしているみたいで。
「悠乃サンはそれでいいの?」
彼はひどく哀しそうにわたしを見つめて言った。まさか、"悪魔"にそんなことを言われるなんて。
「……だって、あなた、悪魔じゃない。人間のわたしをそそのかしに来たんでしょ?」
「違う! 今回は、本当に天使の代役で……ごめん、マジでそんなつもり、なかった」
彼はなぜかひどく辛そうで、最後のほうは消え入りそうな声だった。
「今夜、また来るよ。それまでによく考えて決めて」
そう言い残して、キレイな悪魔サンはすうっと消えた。
おこたのうえには几帳面にスジをとったみかんが半分。
「わかんない……」
わたしは呟いた。
「ん? なにがわからないんだ? 水梨さん」
上からふわりと爽やかなかおりがして、見あげるとキレイな切れ長の瞳と目があった。
「えっ……あ、神崎先生! ……なんでもないです」
やだ、神崎先生の授業を聞いてなかったなんて。
「そうか。なら、この問題を解いてみようか」
神埼先生がニヤリと笑う。やっぱり、格好いい──あんなわけのわからない悪魔なんかよりずっと。
けれど、授業を聞いてなかったわたしには、黒板に書かれた数式はぜんぜん解けなかった。
「悠乃、昨日からヘンだったけど、今日はさんざんじゃない?」
お弁当を食べながら絵里が言うのに、わたしは冗談めかして返した。
「ついてないの。……悪魔憑きなのよ、わたし」
「悪魔憑きィ? 悠乃ったら、また、変な本読んだ?」
まさか、本当に悪魔があらわれたとは言えない。あんなヘンな悪魔が。
「まあね……その本に出てくる悪魔がへんてこなの。悪魔のくせにこたつが好きでみかんも好きで、正論吐くの……。ああ、思い出しただけで腹が立つ! あんな悪魔なんか、大嫌い!」
「本の話にしちゃ怒りかたがリアルだよ、悠乃」
絵里のツッコミに、わたしは一呼吸おいてから口をひらいた。
「……神崎先生、やっぱり南センセとつきあってるみたい」
「ありゃ」
絵里がわざとらしく顔をしかめた。
「あーあ、なんでダサダサの南センセなんだろ」
目のまえの絵里にしか聞こえないようにこそっと言う。彼女はわたしの口が実はかなり悪いのに慣れている。
「んー、南ちゃんってちょっと癒し系だしね。一緒にいてなごむのかも」
「そんなものかな?」
わたしはお弁当の卵焼きを口にいれる。
「同僚だし、接点も多いし。だから言ったじゃん。悠乃も宿題のこととか質問して、もっと先生と個人的な接点もったほうがいいって」
「……うん」
「接点といえばさ」
絵里が北条くんのほうをちらりと見て声をひそめた。
「昨日、山本くん、どうだった?」
「山本くん? ……ああ、段ボール箱持ってくれたひと?」
「そうそう、あの地味なひと。なんか話した?」
「うーん、別に。あんまり話がつづかない感じで」
絵里が「やっぱ不器用なヤツ……」とか呟いている。
「悠乃も顔に似合わず不器用だから、相手は器用な男のほうがいいかもね」
わたしはデザートの小さなパックをあける。中には甘皮までむいたみかん──みかんのスジをとっていた、銀の指環の長い指。
「ねぇ、絵里。やっぱ、神崎先生のことはあきらめたほうがいいのかな?」
「うーん……。ていうか、悠乃ってさ、本気で先生のカノジョになりたい?」
絵里がわたしの顔をまじまじと見つめた。
「……えっ?」
「悠乃が本気ならとめないけど。でも、格好いいタレントに憧れてるみたいなんだもん。先生に対する悠乃って。本気で好きだったら、もっと先生とふたりきりで話したいとか思うんじゃない?」
「そっか……」
「こんばんは、悠乃サン」
いつもの甘い低音の声が響いて、字面だけ追っていた本から顔をあげると、予想通り困ったような表情の彼が居心地悪そうにぷかぷかと浮かんでいた。
「こんばんは、悪魔サン」
彼はベッドカバーのうえで頼りなく浮いたまま、銀色の髪をかきあげた。
「え……っとさ」
不機嫌そうな低い声。でも、これは不機嫌なんじゃなくて、本当は困ってるんだろう。
「決めた。わたし……神崎先生のこと、あきらめる」
彼がホッとしたような貌をする。ヘンなの、"恋をかなえる悪魔"のくせに。
「でも、このままじゃあきらめきれないから……一度だけデートしたいの、先生と」
「えっ?」
「ムリなのはわかってる。だから、悪魔サン、神崎先生になってくれない?」
キレイな悪魔サンは、ベッドカバーのうえにぽとりと落ちた。