まあね──彼女の口からオレの名前が出るなんて、夢にも思ってなかったけど。
具体的な名前が出ると、さすがにヘコむよ、悠乃サン。
Scene 4
悪いアクマでかまわない
翌日、オレはオレに化けて、いつものように学校に登校した。
「山本クンはバイト契約じゃからの」
魔界の人事部長はフォッフォッと奇天烈な声で笑いながら言った。悪魔というのは契約に忠実なのだそうだ。
ただし、夜の七時から朝の七時までは、強制的に悪魔の姿に戻ってしまい、魔法の指環の力でも他の姿に化けることはできない──ナーンは告げた。その間、両親はナーンがごまかしてくれるらしい。
結局、悪魔にされてはじめての夜は眠れなかった。
頭のなかをゆうべ見た悠乃サンのいろんな表情がくるくる回る。ときたま、そこにナーンのなまずヒゲが混ざるのはまさに悪夢だ。おまけに背中にでかい翼が生えてるせいで仰向けになれやしないし、背が高すぎるのかベッドは窮屈。長い角も邪魔くさい。あらゆる意味で寝苦しい。
ああ、そういえば。数学の宿題があった。
どっちにしろ寝られないんだからと、オレはのっそり起きあがった。
……寒っ! オレはあわててこたつにもぐりこむ。悠乃サンちのこたつカバーはベッドカバーとおそろいだったなんて、実にどうでもいいことを思い出す。
あの神崎先生の数学か……やる気がしねぇ。 オレはぽりぽりと頭を掻いた。
ふとひらめいて、カバンから数学のプリントを取り出し魔法をかけてみる。すると──黒いミミズみたいなモノが紙のうえをのたくって。
「うわっ、答えがうまっちゃったよ! しかもオレの字そっくり。さすがは悪魔の指環!」
……なんてさ、夜中にひとりで叫んでるなんて、バカだよな。しかも、小声の小心者。
そのまま、あまり眠れずにしらじらと夜があけて、かなり情けない気分でオレはもとのオレに化けた。
「山本ォー、山本クーン」
朝っぱらからオタクの三田村がうるさい。今日のプリントなら完璧だぞ、たぶん。
「……うっせぇよ、三田村。すぐ近くでひとの名前を連呼してんじゃねぇ」
オレはぼそぼそと応えた。
「うわっ、山本。おまえ、いつのまに来てたんだ?」
いつものことなんだが、北条。さすがに今日はヘコむっての。
「影うすっ! 存在の耐えられない軽さだな、山本!」
うっせえ、オタク! なんて言い返す気力もない。
今夜は神崎先生のところへ行かなきゃならない。
一限め、数学の授業を受けながら、オレは睡眠不足の頭でぼんやりと神崎先生の顔と悠乃サンの後ろ姿をながめていた。悠乃サンの席は、オレの三つまえの隣にある。彼女の長くてさらさらの黒髪だけは、 ずっとオレの席から見ほうだいだった。
神崎先生と大人っぽい美人の悠乃サンなら、お似合いのカップルだ。
完全無欠の美男美女。ぐうの音も出ない。
掃除の時間になって、悠乃サンが重そうな段ボール箱をかかえて歩いているのに出くわした。
「……あ、水梨さん。オレ持ってくよ」
ゆうべのつづきで、ついオレは声をかけた。寝不足で頭がボケていたせいかもしれない。いままで彼女にこんなふうに声をかけたことはなかったのに。悠乃サンは振り向いて、ちょっと怪訝そうな貌をした。
「えっと……?」
悠乃サンはオレの顔をまじまじと見つめて、困ったような表情を浮かべた。やっぱり悠乃サンは"オレ"を覚えていない。
「ご、ゴメン」
オレがあわてて悠乃サンから逃げようとした。と、その時。
「あれ? 山本くん?」
同じクラスの田中さんが声をかけてきた。悠乃サンと仲のいい小柄でかわいい女のコだ。オレは彼女がオレの名前を覚えていたことにちょっと驚いた。
「あ……ああ、山本くん。北条くんのうしろの席の」
悠乃サンは小声で呟いたけど、しっかり聞こえてしまった。そっか、オレは北条のオマケか。
「……ふぅん」
田中さんはオレの顔を見てなにやらうなずくと、うふふと笑った。
「悠乃、せっかくだからそれ、山本くんに持ってもらいなよ。ね、山本くん?」
「あ……ああ」
かなりマヌケな声を出して、オレは悠乃サンから段ボール箱を受け取った。
段ボールの行く先は二階のコンピュータルームだった。場所は知っていたが、悠乃サンがついてきてくれた。田中さんはクスクス笑いながら去っていったのだが。
「結構、重いでしょ。ごめんね」
階段を颯爽とのぼりながら悠乃サンが言う。
「大丈夫。一応、男だし」
おいおい、一応ってなんだよ、オレ?
背筋をしゃんと伸ばして姿勢よく歩く悠乃サンと並んでも、ほんの少しだけオレのほうが背が高い。このあたりが一応って感じなんだよな。
悠乃サンはまっすぐまえを向いて、軽い足取りで階段をのぼってゆく。キレイな黒髪が揺れる。なにかしゃべろうと思うのに、ゆうべと違って話題が見つからない。そっか、あの時は魔界や悪魔の話をしてたんだっけ。
「ここに置いてくれる?」
あっという間にコンピュータルームに着いてしまった。
悠乃サンが指した棚にオレが箱を置くと、彼女は「ありがとう」と言って、学校でよく見せるおとなびた微笑みを浮かべた。
バカだな、オレ──いまさら、なにやってんだろう。
放課後、オレは透明になって、空から神崎先生の車を追った。
悠乃サンとはじかに話してみたかったけど、神崎先生はやっぱり恋敵だし、いろいろ説明するのも面倒くさい。できれば、悪魔の姿を見せないまま、先生に悠乃サンを好きになる魔法をかけてしまおう。
それで、おしまいだ。オレのへんてこりんなバイトも──恋も。
神崎先生の車は学校からそう離れていない公園の前に止まった。
……えっ?
公園に見慣れた人影があった。あれは、古典の南先生だ。彼女はするりと神崎先生の車に乗り込む──まさか。
オレはぱたぱたとはばたいて車に近づき、屋根からなかを覗いてみる。
助手席の南先生は、いつもかけている銀縁のメガネをはずしていて、なんだかキレイだ。運転席の神崎先生も南先生に向かっていたずらっぽく笑っている。どう見たってしあわせなカップル。
どうしよう……神崎先生に彼女がいるなんて。
「こんばんは、悠乃サン」
ゆうべと同じにオレがあらわれると、悠乃サンは読んでいた文庫本から顔をあげてうれしそうに微笑ってくれた。
「こんばんは、悪魔サン」
「えーっと……」
「おこた、入る?」
悠乃サンがすすめてくれるのがうれしい。
「……お邪魔します」
オレがぼそぼそ言いながらこたつに入ると、悠乃サンはクスクス笑った。"おこたに悪魔"は彼女のツボらしい。
「みかん食べる?」
「えっ?」
悠乃サンがいたずらっぽくオレを見つめている。こたつのうえには、おいしそうな色のみかんが載せられた籠があった。悠乃サン、"おこたにみかんと悪魔"が見たいのかもしれない。
「えーと……いただきます」
のどがかわいていたので、ありがたく頂戴することにした。オレはみかんの皮をむいて、ある程度の筋をとってから、そのまま口に入れた。
「魔界にもみかんがあるんだね?」
悠乃サンがニコニコして言った。
魔界にみかん……はおかしいか。
「みかんはこっちで覚えたんだ」
オレはもぐもぐと口を動かしながら応える。
「で、神崎先生のことなんだけど」
オレはなるべくさりげなく切り出した。
「うん」
「先生、彼女がいるみたいなんだ」
「うん、南先生でしょ?」
悠乃サンはなんでもないことのように言った。
「知って……たのか?」
思わず悠乃サンの顔をじっと見つめてしまった。だって──。
「だから、悪魔サンがなんとかしてくれたんでしょ?」
「なんとか……って?」
「だから、天使じゃなくて悪魔の仕事なんだなと思ったんだけど……違うの?」
ああ、そうか。オレは"悪魔"だから──。
あのふたりを引き裂くために来たのか。
「悠乃サンはそれでいいの?」
オレは悪魔でかまわない──けど。
悠乃サン、キミはあとで後悔するよ、きっと。