小さく震える肩。胸にあたる、やわらかくて、温かなキミの感触。
さらさらした黒髪から、ふわりと甘い匂いがして、オレの意識は朦朧となる。
それで、オレはつい口にしてしまう。オレの本音。言うのは今じゃないってわかってるのに。どうして、この時のオレはこんなことを口走ってしまったんだろう。
"オレじゃ、ダメか?"
Scene 8
悪魔サンと呼ばないで
神崎先生と南先生が向こうから歩いてくる。
悠乃サンからふたりが死角になるように身体をずらそうと思ったけど、間に合わなかった。一瞬オレも呆然として、それに悠乃サンが気づいてしまったから。 ああ、オレって役立たず。
悠乃サンの表情がみるみるうちに硬くなって、さくら色だった頬が白くなってゆく。神崎先生の姿をしていたオレは、悪魔の顔にするりと戻って髪や目を適当な色 にした。なぜか、こんなところだけやけに冷静に判断しているオレがいる。そのうえ、気がつくと彼女の肩を抱いて「大丈夫、悠乃サン。オレがついてるから」なんて無責任なことを言っている。 全然、大丈夫じゃないのに。悠乃サンの身体がすうっと冷えてゆくのが触れたところからわかるのに。
先生と目が合うと、悠乃サンは微笑ってお辞儀をした。精一杯の微笑み。神崎先生はオレを見て誤解したのか、悪戯っぽく笑った。違うよ、先生。悠乃サンが好きなのはオレじゃない。
先生たちとすれ違ってからの悠乃サンは、歩いてきた道をただひたすらまっすぐ進んでゆくだけ。 たぶん、なにも考えてないんだろう。すぐに誰かとぶつかりそうになる悠乃さんを庇うことくらいしか、今のオレにはできなかった。 早足だった悠乃サンの歩調がだんだんゆるやかになってきたころ、オレは彼女を歩道の隅に引き寄せた。
悠乃サンは泣いている。声もたてずに。
「……ごめん」
やっぱ、オレが悪い。先生だけじゃなく悠乃サンの記憶も操作して、ふたりを結びつけちゃえばよかったんだよな。そうすれば、悠乃サンは悪くない。だけど、そんな悪魔みたいなことをやるくらいなら、 いっそ……。
悠乃サンが泣いている──オレの胸で。
小さく震える肩。胸にあたる、やわらかくて、温かなキミの感触。
さらさらした黒髪から、ふわりと甘い匂いがして、オレの意識は朦朧となる。
それで、オレはつい口にしてしまう。オレの本音。言うのは今じゃないってわかってるのに。
「オレじゃ、ダメか?」
「……えっ?」
オレの腕の中で悠乃サンが身じろぎした。そして、オレの胸を軽く押し返して、顔をあげる。悠乃サンが赤く泣きはらした目を見開いてオレを見あげている。
「悪魔サン……が?」
そう呼ばれるたびに、胸がズキッと痛むけど。でももう自分が悪魔だろうがなんだろうがどうでもいい。誰かを想って泣く悠乃サンなんて見たくない。
「そう。オレと……つきあってみない?」
言ってから、自分で自分の言葉に驚いた。こんなことがするっと言えるなんて。今なら、なんだって言えるような気がする。オレがずっとキミのことを好きだったことも。……だけど。
「わたしが……悪魔サンと、つきあうの?」
怪訝そうな悠乃サンの声に我にかえった。
ああ、そうだ。角の生えた化け物と本気でつきあう女のコなんているわけない。キミにとってオレは悪魔だろうが人間だろうが、いつも問題外。
「悠乃サンにちゃんとした人間のカレシができるまで、ね」
オレはなるべく冗談っぽく見えるように笑った。悠乃サンがホッとしたような貌になったのがわかる。
「つまり、期間限定の恋人ってこと?」
「そうそう、期間限定の恋人」
「デートの時は今みたいに人間に化けて?」
「そ、そうだな、人間に、化けて」
オレは悪魔っぽくニヤリと笑った。悠乃サンもクスクス笑う。
ああ、オレは──バカだ。
オレの突拍子もない告白のせいで、悠乃サンは泣きやんでくれたけど、さすがにそれ以上ウソのデートをつづける雰囲気じゃなくて、オレは悠乃サンを家まで送って行った。別れ際、それでも悠乃サンは笑ってくれて。
「また、明日ね」と言って家のまえで手を振った。
「期間限定の恋人……か」
自分の部屋に帰ったオレはため息混じりにひとり呟いた。
つまり、マジ彼ができるまでのつなぎだ。ああ、バカだ。バカすぎる。あそこまで言ったんなら、どうして本気でつきあって欲しいって言えなかったんだ。ちゃんと言って、きっちり玉砕すればよかったじゃないか。なんで自分から蛇の生殺し状態になっちまうんだ。オレの大バカ野郎。
「たしかに馬鹿じゃの」
聞き覚えのある嫌味な声がした。
「うるせぇ、なまずヒゲ!」
オレは奴の顔も見ずに叫ぶ。だいたい、こいつがすべての元凶なんだ。こいつさえ現れなければ──。
「山本クンは一生、悠乃サンと話もできず、遠くからただキレイだなと眺めているだけでこんな辛い想いもせずにすんだのにのう」
悪魔は愉快そうにフォフォフォと笑う。
「う、うるせぇなっ!」
「図星か? 山本クンが地味なのは、別に見かけがどうとかいう問題ではないからの。つまるところ、行動力がなさすぎなのじゃよ。自分からはなにもしないから誰の印象にも残らない。道理じゃの」
「うるせぇっ!」
オレはナーンに枕を投げつけた。奴はそれをなんなくひょいとかわす。今夜はじめて目が合ったナーンは完爾と笑った。
「荒れておるのう。青春のイライラはお肌によくないぞ。そもそも、魔法の指環を手に入れておるのじゃ。荒れる必要なぞ、はなからないのじゃが。山本くんと悠乃サンがラブラブカップルになれる方法 に、まさか気づいておらんのか?」
オレは思わず目を逸らした。
「ふぅむ……気づいてはおるようじゃの」
「そこまで馬鹿じゃねぇよ」
オレはぼそりと言う。
「なら、なにをためらっておるのじゃ? 簡単じゃろうて。その指環の魔力を使って、悠乃サンに人間の山本クンのことを好きにさせてしまえばよかろう?」
「イヤだ!」
オレは叫んだ。
「そうでもしない限り、山本クンは彼女の好みじゃなさそうだがの」
ナーンはしゃあしゃあと言う。
「わかってるよ! でも、オレはそんな魔法は使いたくない! そんなの……本物の悪魔みたいじゃないか」
オレは心まで悪魔になりたくない。そりゃ、見かけはこんな角や翼の生えた化け物だけど。
「ならば、ちゃんとした本物の人間の恋人ができるまで、名前も呼んでもらえない"悪魔サン"でいるしかないのう?」
「き、消えろよ! この悪魔め!」
オレがナーンに向かって手を振ると、指環の魔力で火花が散った。それを見て、ナーンがうすく笑みを浮かべながら消えたのをオレは見なかった。
「悪魔サン?」
次の日の夜、オレはいつもの悪魔の姿で悠乃サンのこたつの中にいた。オレはみかんのスジをとりながら、ボーッとしてしまったらしい。
「え? あ、ごめん。ボーッとしてた」
「つまらない?」
悠乃サンがちょっと不機嫌そうにオレを見る。オレは首を横に振って。
「ちょっとイヤな上司のことを思い出しただけだよ」
「上司って、例の人事部長サン?」
「そうそう。人事部長のナーンっていうなまずヒゲのおっさん」
「ナーン?」
悠乃サンがふとなにかに気づいたような貌になる。
「ナーンってそのひとの名前だよね?」
「ああ。インド料理の主食みたいな名前だよな。あいつは貧乏神みたいで全然うまそうじゃないけど」
そこで悠乃サンはにっこり笑った。
「ね? 悪魔サンの名前ってなに?」
「……えっ?」
「悪魔サン、じゃないでしょ? 一応恋人同士だし、名前で呼んでみたい」
う、うれしい。
「ええっと、オレはや……」
山本陽一と言いかけた時、ナーンの顔が浮かんだ。
……マズイ。本当の名前を言ったら、魔界の秘密を知った悠乃サンも悪魔にされちまうんだった。
「オレは……」
適当な横文字の名前でも名乗るしかないか。せめて、陽一をもじってヨー……ヨークシャーテリア……は犬の種類だし、ヨーダなんて絶対呼ばれたくないし、 揚子江は……ありえねぇ。
ああ、なんで、こんなのしか浮かばないんだ、オレ。
悠乃サンはなんだかうれしそうでにこにこしている。 ダメだ、やっぱり偽名なんかイヤだ。
「オレ、まだ悪魔としての正式な名前がない……んだ。修行中だから」
だからいままでどおり悪魔サンでいい──そう言うと、悠乃サンは傷ついたような貌をした。