悪魔だって、知ってた──だけど。
まさか彼があんな表情をするなんて、思ってもみなかった。
Scene 6
美しい悪魔
「悪い。教科書、まだそろってないんだ。見せてくれる?」
一限めの授業がはじまってすぐに、美瀬くんはそういいながら机をくっつけてきて「先生、いいですね?」と勝手に事後承諾をとった。
ちゃっかりしてる。そう思ったけど、にこにこと笑う美瀬くんのキレイな顔を見てしまうと、やっぱり悪い気はしない。こんなとき、美形はトクだと思う。
つい、ちらちらと間近の美瀬くんの顔を盗み見る。彼はそう、ライトノベルでいうと、まさに金髪の王子様って感じ。どこか儚げな天使みたいな悪魔サンとは違う、ちょっと強気な王子様。悪魔サンはふわりとウェーブのかかった銀色の髪だけど、美瀬くんの金髪はキラキラでさらさらのストレート。あのひとは寂しげな銀の瞳だったけど、このひとは明るいエメラルドで──。
ああもう。どうして、彼と比べてるんだろう。あのひとのことなんて、忘れてしまいたいのに。わたしは小さく頭をふる。
いまは美瀬くんのことを考えよう。放課後はキラキラの王子様に校内を案内してあげるんだ。
ところが、放課後になると、美瀬くんはあっというまにクラスの女の子たちに取り囲まれてしまった。
たしかに無理ないよね。美瀬くん、かっこいいもの。でも、みんなでわいわい案内するのかと思うとかなりつまらない──うんざりしかかっていた、そのとき。
「ごめん。これから、水梨さんに校内を案内してもらうから」
彼はさりげなく立ち上がって。
「ぞろぞろ行くのもなんだから、やっぱりふたりで行くね」
などと笑顔でさらりと言ってのけ、実にスマートにわたしを教室から連れ出した。
びっくりした。彼は万事そつがない──不器用なあのひととは大違いだ──また、胸が鈍く痛む。
「桜、きれいだな」
校庭に面した窓の外を眺めて、美瀬くんが言う。昨日からつづいているあたたかな晴天に、遅れ気味だった桜も一斉に花開いた。
「うん。きれいだね」
美瀬くんのすらりと丈高い後ろ姿を眺めながらそうこたえた。
「水梨さんってさ」
窓の外を眺めていた彼は意味ありげに言葉を切って、わたしを振り返りくすりと笑った。
「ひとめ惚れって信じる?」
え……っ?
そのまま彼のペースで、なんとなく美瀬くんと一緒に帰ることになってしまった。強引なタイプは苦手なはずなんだけど、美瀬くんはあんまり自然にさらりとリードするから、嫌味がなくて。こんなのも悪くないと思ってしまう。
いつもは退屈な十五分の帰り道がなんだか楽しい。それに、家に帰っても、もう彼はあらわれない。
そう思ったとき──そのひとはあらわれた。
そのひとは、いつのまにか、わたしたちのまえにいた。
「悪、魔……サン?」
目のまえにいるのは人の姿に化けた彼のはずだった。ゆるくウェーブのかかった明るいブラウンの髪。琥珀色の瞳。見慣れたやさしげな美貌。でも、彼はいつもと違っていた。整いすぎたその顔には表情がない。感情を映さない淡い瞳は、ひどく酷薄に見える。彼は、泣きたくなるほど美しかった。
「誰?」
美瀬くんがわたしのまえにすっと立ち、目のまえに立つ美しい悪魔に訊ねる。彼はうっすらと瞳を細めて艶やかに笑んだ。
「オレは彼女の恋人だよ。そうだね、悠乃サン?」
よく響く低めの甘い声が、わたしの名を呼ぶ。彼の長い指先が、わたしへと伸ばされる。なにかがとろりと溶けて、頭の芯がぼうっと痺れる。
「そうなの。このひとはわたしの恋人」
自分の唇が嬉々としてそう動くのを、わたしはどこか現実味なく感じている。
「それは残念。じゃ、水梨さん、また学校でね」
美瀬くんの声が、どこか遠くに聴こえた。
ぼうっと痺れた意識のまま、彼を見上げる。
冴え冴えとした美貌がわたしを冷たく見下ろしていた。
ああ、このひとは悪魔だ。わたしは、このひとに抗えない。やっぱり、このひとを好きだと想ったのは、すべて幻だったのかも知れない。
「悪魔っ! あなたなんか、やっぱり本物の悪魔だったのよ」
わたしは泣きながらそう叫んでいた。
どうやって家に帰ったのか覚えていない。気がつくと、わたしは部屋のなかで震えていた。はじめて彼を怖いと思った。彼がその気になれば、わたしを意のままに操れる。いままで、そうしたいと思わなかっただけで。
どうしよう。わからない、あのひとが。
わからない──自分の気持ちが。
なのに。なにごともなく、当たりまえのように次の朝はやってきた。
美瀬くんと顔を合わせにくい。そう思っていたのに、教室に入ってすぐに彼と目が合ってしまった。
「おはよう」
彼はなにごともなかったように言って、にっこりと笑った。
まさか──あのひとが美瀬くんに魔法をかけた?
そう思ったのもつかの間、美瀬くんがさらりと切り出した。
「昨日はさ、彼の手前、ああ言ったけど」
ああ、よかった。記憶は消されてない。
「ひとめ惚れ、諦めてないからね」
……えっ?
「悠乃サン?」
美瀬くんは、くすくすと楽しげに笑いながら、悪魔サンと同じ口調でわたしの名を呼んだ。